この連載の記事
1. 狂っていくテレパシー (1) 〜全てのオッド・ジョンに〜
後飯塚 僚
「会った瞬間に、こんなこと言ったら失礼だけど、てめえが今、低カロリー、言ってる場合じゃねえよ」、「低カロリーってのは、おかしくないだろ」、「正しいこと言ってねえよ、おかしいよ、てめえ、何言ってんだよ」、「クリームレモンソーダって、最初から、ずーっと注射打ってるんだけど、どういうこと?」、「クリームレモン注射ですか?」、
4. 狂っていくテレパシー(2) 〜脱落体〜
後飯塚 僚
「書かれたもの」(書かれてしまったもの)として、取り扱って頂き、感謝します。詩なのか、戯曲なのか、小説なのか、わからないと思いますが、この文字列の目指すところは、意味やイメージに隷属しない「言語固有」の臨界点(消滅点)になります。視覚的映像でもなく、聴覚的音楽でもなく、言語でのみ到達可能な景色とはどんなものでしょうか。
5. ふつうの人が読む『病める舞姫』(2)~「忘れていたことば」を思い出す
加藤 博
後飯塚さんは「序にかえて」で、自作について「言語でのみ到達可能な景色」と書く。中村さんも「トイ人」のインタビューで、詩について「言葉そのものが持つリアリズム」と答えている。そういう「景色」や「リアリティ」を、私はつかみ損ねているようです。二人が「言語でのみ」「言葉そのもの」というのは、後飯塚さんの「意味やイメージに隷
6. 詩とはなにか?(2)
中村 昇
僚くんが「意味やイメージに隷属しない、「言語固有」の臨界点(消滅点)」と言い、加藤さんが、「記憶に沈潜するモノ・コトが文を読むことで浮かび上がり、指示対象として構成されないと分からなくなるシュールな詩」と言うときの「臨界点」や「シュールな詩」とは、いったい何か?このことを今回は、わたしなりに考えてみたい。
7. 狂っていくテレパシー(3) 〜幼形成熟体〜
後飯塚 僚
“トイビト”には似つかわしくもない、とんでもないタイトルの私の詩作品から突然始まった本巴往復書簡も、加藤さん、ノボルさんの「言葉」と「詩」についての専門的な考察もあって、ひとまず、軟着陸したような気がして、ホッとしている。今回、三巡目に当たることから、問題提起することになった詩作品(吃音体、脱落体)の当初の執筆意図と