後飯塚僚の詩

 「往復書簡」なので、いちおう僚くんと加藤さんに返信しなければならないだろう。最初は、後飯塚僚くんから。

 中高の頃、踊り場にあった文芸部の部室で読んだ詩は、今回の「オッド・ジョン」よりも、もっと液体的だった記憶がある。たとえば、つぎのような詩をもっと液状化させたようなものだった。

 やわらかな静寂をよそおう空隙にかこまれ 周縁にただようつめたい吐息をたどり 希薄な修辞のさざめきをはかり 浅瀬にたたずむ渇きに気づく 猶予のない留保 孵化と蘇生をねがいあらたな狭窄にうながされ はなたれた情動は予兆の雫となり すでにやさしい深淵に沈みはじめる ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核 水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕 流れさるもの 瞬間の捕縛はたしかに在って 私は水の領域でささやかな刻印を記していた(「水の囁きは果てしない物語の始まりにきらめく」松尾真由美―詩の引用は、部分的。以下同様)

 この松尾の書く「水の領域」がそのまま溢れ露水していくような詩だった。詩そのものもそうだが、読んでいるこちら側も同時に浸水され、奇妙に静かにゆっくりと水没していくような詩だ。もちろん、気分は最悪だ。それにくらべて「オッド・ジョン」は、ずいぶん固体になった。それに、液体の有機的連続性もなくなり、とても非連続だ。

 それは、半世紀以上経ったから当然なのか。あのどんより濁った大量の水は、いったい、どこにいったのだろうか。どこかに溜まりつづけているのだろうか。この「往復書簡」で、あらたに流れはじめるのか。楽しみではある。

 非連続といえば、いまどのような詩があるのか。たとえばこれ。

 どこか、後背へ、地のおもてを少し辿ろうとして、私たち、その黒い皮質が畝のように波うってつづいている、波うってどこまでも、畝、畝ではないだろう、昇降はある、薄いいくつもの境界、だがそれを越えてしまうのではなく、むしろ豹斑のようにそれを、後背へ、揺れる豹斑のように、(「後背へ」野村喜和夫)

 しかし、この野村の非連続は、「狂っていくテレパシー」とは、ずいぶん異なる。つぎに改行してその行の真ん中から次行にかけて、「(糞の流れ、精子の流れ)、ですらないだろう」とつづくのだから、野村の「後背へ」の地底、奥深く、液体的連続性が潜んでいるともいえるだろう。何かがどこかで流れつづけていなければ、<純粋非連続>には堪えられないとでもいっているかのようだ。

 ここでいっている、僚くんの「非連続」は、読点(、)と「 」によってブツブツに区切られているからというわけではもちろんない。イメージの非連続だ。逆に、もしかしたら、イメージや意味の非連続を隠すために(あるいは、イメージの非連続をひそかに連続させるために)読点と「 」が多用されているのかもしれない。読点と「 」によって、ブツブツに区切られていなければ、「狂っていくテレパシー」のイメージの異様な凝縮されなさが、あまりにも際だち、詩全体の結構が維持できなくなる、ということなのか。

 ようするに、イメージや意味が散逸し、縦横に暴れまわるための抑止装置としての「 」や読点といえるだろう。形式上の非連続によって、意味やイメージの非連続の四散しつづける暴走を人知れずくいとめている、といったことだろうか。読点や「 」の優しさが身に染みる。

 たとえば、岩成達也の「広場で」のなかの一節。

甲虫。頑丈な2枚の顎。5本乃至7本の脚、落ちるとき、そいつらはいつせいに内側へ折れ曲がる。きれぎれに。特車みたいに。そして甲虫、鉄蓋から水に落ちても溺れない、というのも、落ちながら、そいつらは、僕やルミの前に、8枚の途方もない壁のように拡がるから。

 このイメージの充溢ぶりは、どうだろう。「狂っていくテレパシー」が暴発しつづける危険な廃墟だとすれば、こちらは、形式の非連続性など歯牙にもかけない堅固な構築物だといえるだろう。「瀟洒な」といった形容動詞を使いたくなるくらいだ。

 あるいは、同じ岩成の「しおれた果物に関する断片」は、どうだろう。

なにかしらひからびたかさぶたのようなもの、それがその外側を一面におおつている。かさぶたのようなものは、ひとつひとつががさがさした角皮質のかけらの集りからできていて、そのかけらはどれもみなはがされた船板のように端の方がぎざぎざしそしてこころもちなか側がくぼんでいる。

 何と心地よい連続性だろう。イメージや意味が(実は、何の意味もない)表層をかたちづくっていく。絶対に深層に移行することのない心地よさ(あるいは、潔さ)といえるだろう。読点も少なく、「 」もない。これもまた「オッド・ジョン」と、ある意味で、対極に位置する詩といえるかもしれない。もちろん、いい悪いはべつとして。

 さて、こうして、松尾真由美、野村喜和夫、岩成達也、そして後飯塚僚とならべてみると、詩の豊饒さ、あるいは、言葉の狂暴な多種多様性に驚くばかりだ。

 詩とは何か? あるいは、韻文とは何か? あるいは、言葉とは何か? というのが、今回の私の書簡のテーマである。後飯塚僚という詩人を中心に据え、あるいは、ときに僚を辺境や僻地に追放して、詩についてあれこれ考えてみたいと思っている。

加藤さんと否定の力

 つぎは、加藤さんだ。加藤さんへの返信にうつろう。

 いま、僚くんの詩についていったことを、加藤さんが引用した宇野邦一が、土方の文章についていっていた。せっかくなので書いてみよう。

「意味を凝固させないで言葉を出来事の渦に直結させようとしている」

 意味やイメージを凝固させないというが、詩のひとつの重要な特徴であることはたしかだ。土方巽の『病める舞姫』や後飯塚僚の「狂っていくテレパシー」は、まさにその極北だといってもいいだろう。しかし、それを「出来事の渦に直結させよう」としているかどうかは、わからない。そもそも「出来事」とはどういう事態なのか。それは、今後考えていかなければならないからだ。

 しかし他方、加藤さんも書いているように、コピーの世界は、そうはいかない。受け手との協力のもとに、ある特定のイメージを形成しなければならない。「気を引く言葉、意外性のある言葉を投げかけ、ハッとさせ、関心を呼び起こし、あわよくば自分事として使用場面を想像してもらい、商品への欲求をかきたてる」のが目的なのだから。意味やイメージの「凝固」こそが、重要なのだ。

 そして、今回のこの「凝固のさせ方」にひじょうに、加藤さんは、とても興味深い例を使っていた。「まだ、ここにない、出会い。」というものだ。このコピーについて考えてみよう。加藤さんも書いているように、ここでは「ない」という否定の語が全域を覆っている。つまり、ここでは、<いま・ここ・わたし>という、ある意味で絶対的な世界の中心(あるいは、逃れられないわれわれのあり方)を「ない」という語で否定することによって、受け手を<どこか>へ誘導しているのである。

 <いま>ではない未来に、<ここ>ではないどこかで、<わたし>ではない誰かと出会う、というわけだ。<いま・ここ・わたし>を全否定することによって、<いま・ここ・わたし>には、決して登場しない不在の希望が、自分のまわりに無数に繁茂しつづけるということになる。べつの言い方をすれば、<いま・ここ・わたし>というもっとも確実で逃れられない世界の中心が、空虚な一点(無)へと収斂していき、不在のみが世界を覆うともいえるだろう。むろん、そんなことは、絶対にありえないのに。

 だからこそ、この「まだ、ここにない、出会い。」という言葉は、われわれの存在が、<いま・ここ・わたし>というあり方に緊縛されている限り、未来永劫、不在へのいざないをつづけることが可能になる。こう考えれば、この「まだ、ここにない、出会い。」というコピーは、たしかに原理的でおそるべき文言だということがわかるだろう。そして、そのような事態が出来するのは、われわれの世界には、どこにも存在しないにもかかわらず、言葉としては普段から誰もが使う「ない」という否定辞がなぜか存在するからだということになる。

 このように考えると、この「まだ、ここにない、出会い。」は、イメージを凝固させるために、凝固とは、まったく異質である<否定>のはたらきを使っていることになるだろう。<否定>という、われわれの世界のあり方の、いわば裏面の領域へと、いざなうことにより、イメージの凝固の永続的流産を狙っているということになる。やはり、掟破りのおそるべきコピーだ。

結氷期と血の雪

 さて、この途方もない否定の力によるイメージの繁茂と、つぎのような俳句とは、どのような関係にあるのか?かなり強引に、富澤赤黄男の俳句の世界へといざなっていく。

蝶墜ちて大音響の結氷期

 この俳句には、意味やイメージの結実を妨げるいくつもの仕掛けがある。まずは、蝶は、よほどのことがない限り、「墜ちない」。蝶は軽やかに飛ぶものであり、垂直に墜ちることは、ない。「落ちる」ことは、あるいはあるかもしれないが、「墜ちる」ことはまずない。

 さらに蝶が真っ逆さまに墜ちたとしても、大音響がとどろくことはけっしてない。そして、もちろん、その大音響を合図に、世界に結氷期が訪れたりもしない。

 つまり、この句のなかには、われわれの常識的なイメージから大きく逸脱する三つの否定が連続して畳みこまれていることになるだろう。そして、最後に、恐るべき「結氷期」の「リアルな」イメージが、われわれのなかにかたちづくられるというわけだ。否定による「リアル」の創出だ。

 何という力だろう。この句のなかには、どこにも、リアルなわかりやすい事実的なものは存在していない。最初の「蝶」だけは、誰でも知っている。われわれが日ごろよく見るその「蝶」が、三つの否定を積み重ねることによって、最後は、謎の「結氷期」の到来を惹き起こす。さすが富澤赤黄男だ。

 あるいは、同じ富澤が創った、われわれの日常にもう少し近い次の句は、どうだろう。

雪がふる 雪がふる 血のふるごとく

 これも鮮やかなイメージの逆転(否定)だといえるだろう。

 「雪がふる」を二度繰り返すことにより、積雪、降雪の重く白いイメージが全面を覆う。空は、街は、否応なく真っ白になっていく。ところが、その「白」は、突然ばっさりと否定され、鮮血が天空から大量に降りそそぐ。

 これもまた、われわれの日常の感覚、あるいは、色彩の記憶を一挙に逆転(否定)し、血の雪という目くるめく裏面世界へといざなってくれているといえるだろう。

 こうして考えてくると、詩や俳句における「否定」の力というのは、途轍もないものであることがわかる。しかも、イメージや意味を凝固しない土方や僚くんの世界も、凝固の連続的否定による創造だといえる。「否定」こそ、詩や韻文の本質をなすものなのかもしれない。

 往復書簡は、さらにつづいていく。