憎めない癖

 繰り返しますが、癖は当の本人にとってあまり指摘されたくない、どちらかというと恥ずかしいものです。しかし、そのような自身の身体に染みついた癖を、いつのまにかいい意味であきらめる、つまりゆるせてしまうことがあります[*5]。その点で、癖はなんとなく憎めないものです。当初は消し去りたいと思っていた癖が、むしろ憎めないものとして、ともに人生を歩むようになる。そのように癖が身体に馴染んでいく過程が確かにあります。

 癖は、私の身体や生活習慣に埋め込まれて存在しています。それは、確かにこの私がやっていることなので、この私によって無くしたり、変えることができそうなものですが、往々にしてなんともならないものです。そして結局、多くの人がその癖とともに人生を歩むようになります。社会の癖にもこのように憎めなくなるという特徴があるように思います。

 具体例をあげると、社会問題の当事者が、運動を展開したり訴訟を始めるといった形でたたかうのではなく、沈黙したり、加害者側に有利となる言動を行うことがあります[*6]。声をあげる人びとと同様に、沈黙する人びとや容認する人びとから、私たちは学ばなければならないと考えます。そのような人びとを、運動論的に位置づけて糾弾したり、啓蒙するのではなく、まるで癖とともに歩む人生のように、この社会を形成する一員として、ともにあることができないかと考えます。

 市民社会において、言語を介したコミュニケーションで解決をはかるだけではなく、沈黙や容認する人びとのあり方を尊重し、ともに居続けること、それは決して社会問題を中和したり、無化してうやむやにすることではありません。なぜなら、社会問題は人びとの身体に生活にそして社会に癖として馴染み、存在し続けるからです。文書や証言としてアーカイブされるものとは異なり、癖は人びとの身体や生活習慣に編み込まれながら残り続けます。それは言語で把握し記録するには、あまりにも些細なものであるゆえにつかみづらく、また記録するにもそれを読み取るにも長い年月を要するものです。そして些細な癖をつかむには、人びとの生活や人生の文脈にふたたび位置付けなおす作業が欠かせません。小料理屋を始めるという彼女たちの社会の癖を大月さんがつかむことができたのは、既に彼女たちの生活や人生の文脈がみえているからできたことです。

 このような視点で考えると、社会問題を解決するということは、問題をなくす、変えることの先にあることがみえてきます。つまり、それは癖が相互の身体や生活に根を張りながらうつりゆくように、私たちが社会問題を記憶し共有し、社会制度を変えるなどを通じて、当事者が普段の生活になじむことが最終的な到達点であるはずです。そうであるならば、社会制度を変えることはまだその途中にあるに過ぎないのです[*7]

馴染んでいく癖

 癖を身体に馴染ませる、生活の一部にすることは、社会問題を直接に訴えずに、普段の日常生活に馴染ませていくことです。AV女優だった彼女たちの多くは、小料理屋を始めその後の人生をあゆむことで撮影現場の過酷さなどは表立って注目されることはありませんでした。それは、問題化されないという意味で現状を追認する選択にみえるかもしれません。しかし繰り返しますが、それは人びとが社会問題に直面するなかで、そこで生じていることを身体に、生活に、社会に編み込み馴染ませる過程です。

 それは言語による異議申立てとは異なるものですが、とにかく癖としてさまざまなレベルで残り続ける、つまり無くなることはないという一点で社会問題のただの追認や隠ぺいでは決してなく、まるでシロアリが残した巣のように相手を蝕む実践です。むしろそのような形で残された社会の癖は、いつまでも残り、そしていつでもどこでも再び現れえるものです。そうであるなら、いたるところに存在している社会の癖を、私たちが再文脈化してつかむことこそが求められます。

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[*5] 癖をなおしたり、無くすことをすべての人があきらめるわけではありません。それらに悩んでいる方も多く、あきめることを奨励する意図はまったくありません。

[*6] 社会問題に声を上げ、たたかう人びとに、私は敬意を抱いています。私が沈黙する人や容認する人から学んだことは、たたかうことと生活することは矛盾しないということです。たたかうために生活しなければならないし、生活するためにたたかうのであって、生活を犠牲にしてたたかうことを良しとしたり、また生活することはたたかうことから撤退であるといった関係にはありませんでした。私はそれらのことを、『阿賀に生きる』(監督:佐藤真、撮影:小林茂、1992年)や、熊本博之さんの仕事(熊本 2021)から学びました。

[*7] 社会問題の当事者が普段の生活に戻るという最終到達点だけをめざすこと、つまり問題の根本的な原因をなくすことなく、生活へと連れ戻すことは、それこそ社会問題の隠蔽、書き換えといえます。