人に癖があるように、社会にも癖があるということについて考えます。

 癖とはどんなものか、その癖の特徴から社会の癖をみることでなにが明らかになるのか。そして、社会調査、なかでも調査対象となる人びとの生活に住み込みながら調べる参与観察という方法で人や社会を理解するということについて考えます。

はじめに

 社会にも癖があるという着想をえたのは、石岡丈昇さんが書いた「癖の社会学(石岡 2017)」という傑作に出会ったからです[*1]。「癖」という言葉選びが、さすが石岡さんです。日本社会を生きている人びとは、身体に染みついたある傾向――たとえば浮気を繰り返す人を「男/女グセ[*2]」が悪いといい、盗みの衝動を抑えられずにいつの間にかやってしまうことを「手癖」が悪いといいます――を癖としてつかんでいます。そのような、日本社会のいたるところにある現実を、そこに生きている、なかでもあまり日の目をみることのなかった人びとの現実や使われている言葉から思考する。その結果、生み出した概念や視点をその人たちに届けられるかの真剣勝負をする。当事者に届けるとか社会に還元するとかは、こっちがやって終わりです。そうではなく届くかどうかは受け取る側が決めることですから、相互に緊張感のある過程をあらわすためには「たたかう」が適切です。石岡さんの言葉選びからは、そのような意志を感じます。

 脱線しがちな私のわるい癖から、書き始めてしまいました。「癖の社会学」では、刑務所に収監された経験のある元やくざの男性が、看守に「飼い慣らされていく」過程が描かれます。厳しくかつ冷酷な、まるで人間の感情など入りようもない看守たちの対応に、その男性は頑なに反抗的な態度で応じます。手を結ばれた状態で、食事する姿はまるで犬のようで、囚人には屈辱的な場面でした。しかし、看守のなかでただひとり、食事の時に箸ではなくスプーンをつけてくれる方が現れます。配慮してくれた看守に、男性は心をひらき、その看守には従順な態度で接するようになります。

 そして、石岡さんはこの過程を以下のように説明します。

暴行や恫喝や拷問だけでは人間を改造しきることはできない。それでは、人間の最後の内的扉を、開け崩すことができないからだ。その扉を破るのは〈やさしさ〉である。(石岡 2017: 135-136)

 また、かつてテレビで放映されていたバスジャック犯への「母親」による投降の呼びかけに注目し、そのやさしさを差し出すタイミングについて、以下のように指摘します。

重要なのは、そこには時間的な先後関係が存在することである。「母親」があって暴力が次に来るのではない。暴力が先にあってその後とどめを刺しに「母親」が来るのだ。ここで重要になるのは、どのようなタイミングで「母親」が到来するかという点である。この時間配分の様式化こそが、この技術のなかに慎重に構成されているといえよう。(石岡 2017: 135)

 刑務所の管理法といい、バスジャック犯の説得といい、権力側の技術と経験の蓄積には、正直、そこまでやるかと驚きます。石岡さんは、人びとの生活が大きな出来事や圧倒的な権力に巻き込まれる時、人びとの癖が露呈され、そして同時に巧妙に書き換えがなされる点を逃しません。そしてその現状に日常から引きずり出された人びとが、それでも「筋を通して」生きていくことに賭けながら思考を展開します。

 その意義やねらいを私なりに理解したうえで、癖が露呈され書き換えられた後に展開される、人びとが日常生活に馴染みながら戻っていく過程に、私は癖の可能性をみます。以下では、癖のいくつかの特徴について言及しながら、その特徴が社会をみる際にも有効であることについて考えます。

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[*1]傑作というとなんらかの表現や作品のようで、論文の評価としては不適切かもしれません。ただし、おもしろい論文は、それらの表現や作品に劣らない魅力があり、論文としての評価にとどまらないものです。この他にも、「なぞること/立てること(石岡 2018)」、「対象化された貧困(石岡 2011)」がおすすめです。

[*2]浮気を繰り返すことについて、異性愛者の男性には女グセが悪いで済まされるのに対して、同様の女性に対しては男グセが悪いはあまり使われず、むしろ「アバズレ」や「尻の軽い」といった言葉が使われることには注意が必要です。つまり、男性は癖として仕方がないこととして扱われがちなのに対して、女性は意志をもって行ったことであり、その責任が問われる言葉が使われる傾向があります。