初めてのフィールドワーク

 東京にある高校を卒業した春、大学の入学を控えた1990年3月。高知県宿毛(すくも)市への帰省のおり、高知県西南部をあるいた。30年以上前のことである。

 列車のなかで宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫、1984年)を初めて読み、「土佐源氏」に衝撃を受け、途中下車してヒッチハイクなどしながら舞台となった梼原(ゆすはら)へと初めて足を運んだことは、私の旅の原点として、これまでも繰り返し書いてきたところである(木村哲也『「忘れられた日本人」の舞台を旅する』河出書房新社、2006年。木村哲也「民俗学者・宮本常一の足跡をたどる旅から―あるく・みる・きく、そして記録する」新原道信『人間と社会のうごきをとらえるフィールドワーク入門』ミネルヴァ書房、2022年など)。

 じつはその時、同時におこなわれた旅については、どこにも記さず今に至っている。今回は、その旅のフィールドノートから書き起こしてみたい。

平家落人伝説を訪ねて

 私の通う都立高校には、高校紛争のなごりで自主ゼミなるものが開講されていて、ジョージ・オーウェルの『動物農場』を原語で読むゼミや、荒畑寒村の自伝を読むゼミなど、通常の教科とは別に様々な自主学習が教員を交えて行われていた。私が参加していた『平家物語』を精読するというゼミでは、卒業後、レポートを何でもいいから3月中に提出する必要があった。集まったレポートは、後日冊子にまとめられることになっていた。

 私が選んだレポートのテーマは、故郷・高知県に残る平家の落人伝説の地を訪ねてあるくというものだった。

 高知県には、西南部に限っても、以下のような場所に平家の落人伝説が残っていた。

越知町(おちちょう)…横倉山(よこくらやま)、安徳天皇陵墓参考地

十和村(とおわそん)…大道(おおどう)

西土佐村…半家(はげ)

宿毛市…還住薮(げんじゅうやぶ)、都賀ノ川(つがのがわ)

土佐清水市…大川内(おおかわうち)、天子ヶ森(てんしがもり)

三原村…三伏入道平久繁の碑

 高校を卒業したての私にとっては、初めてあるく場所ばかりであり、故郷の高知県といっても、まったく知らない場所が自分の身近な土地にこんなにあることが新鮮な驚きであった。

 西土佐村の半家は、JRの駅にもなっており、「平家」をもじって「半家」という地名がついたとまことしやかに伝えられている。

JR予土線 半家駅

 十和村の大道などは、いま地図で見ても、凄まじいばかりの山中にあり、ひとつ山を越えると愛媛県、という森の中にひらけた山村である。その終点まで路線バスが通じていた。

十和村上大道

 土佐清水市の天子ヶ森も、伊豆田峠(いずたとうげ)の大山塊の中にある。かつてはつづら折りの断崖絶壁を走るバスがあったが、転落事故を起こし、現在では長いトンネルが開通して旧道は閉鎖されている。

 平家の落人伝説を生きいきと語る住民とめぐりあうことは稀であったが、宿毛市の還住薮では、「平家の落人が隠れ住み、いったん宿毛方面に出たが、人が多くて素性が知られてしまうので、再び還り住んだ薮だから、その名が付いた。昔は平家のシンボルの赤旗が家に伝わっていたと親父から聞いたことがある」などという話を聞くことができた。

還住薮の集落

 その話を聞かせてくれた方のおかみさんは、番茶づくりの名人で、手づくりの番茶をお土産にいただいたりもした。そこではお茶は買うものではなく自家栽培で楽しむものであった。土佐山中はお茶の文化の色濃い地域であることで知られ、私もその一端にふれたことになる。

 土佐特有の赤牛を飼う家もあった。少数ながらしっかりと土地に根差した暮らしを続ける人がいた。しかし現在、住人は2世帯にすぎず、廃村寸前と聞いて時間の流れと地域の変貌におどろいている。

還住薮の牛

 地元の人が最も熱心に協力してくれたのが越知町だった。そういうことなら詳しい人がいるからと地元の郷土史家を紹介され、明日なら対応が可能とのことで、その日は宿をとることになった。

 明治時代からつづく旅籠が一軒あり、越知という町が、伊予松山と土佐高知を結ぶ古い街道筋(現在の国道33号)の歴史ある町であることを教えられた。

 翌日登ったのは横倉山という修験(しゅげん)の山である。源平の争乱に巻き込まれて落命したはずの安徳天皇が隠れ住んで生き延びたという伝説の地を案内された。安徳天皇は壇ノ浦で入水せず、瀬戸内海側から阿波の祖谷に入り、そこから四国山中をさまよい、やがて横倉山に居を定めたというのだった。山の中には、安徳天皇の陵墓まで存在するのだった。

横倉山を望む

 いっぽう、土佐清水市の大川内にも、別系統の安徳天皇潜伏伝説が伝わっていた。こちらは太平洋の下ノ加江(しものかえ)という港から上陸したといい、横倉山とは異なる伝承を持つ。土佐清水市に隣接する三原村には、このとき護衛をつとめた三伏入道平久繁の墓が立っている。

 そんなこんなをレポートにまとめ、なんとか提出することができた。私が書いた初めてのフィールドワークの記録であった。

 安徳天皇が壇ノ浦に沈むくだりは、平家一族の滅亡を決定づける『平家物語』のクライマックスのはずだ。この物語は琵琶法師が各地を巡って語り伝えた口承文芸であるが、その華々しい武勇伝と滅亡の物語のいっぽうで、僻地の隠れ里にひっそりと、「正史」とは異なる口承の物語が伝えられていることを印象深く刻み込まれる旅だったのである。

いくつもの貴種流離譚

 レポートを読んだ、『平家物語』のゼミを主宰している古文の教師は、これは折口信夫の「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」だね、と感想を口にした。身分の高い人物が都を離れて流浪をつづける説話の一類型である。折口信夫が、日本における物語文学の原型のひとつとして論じた概念である。

 じっさい、旅した先で、平家の落人伝説は知らないが、こんな話ならあるといって弘法大師伝の伝承を聞かされることもしばしばであった。私の郷里の宿毛市には、菅原道真伝説なども伝わっている。「小筑紫」(こづくし)という地名があり、これは菅原道真が筑紫の大宰府に流される折り立ち寄った場所で、「ここが筑紫か」と言ったため、小さな筑紫の謂いで小筑紫となった、という伝承がのこる。同地区には「七日島」という現在陸続きとなっている島があり、菅原道真はこの島で七日過ごして大宰府へ旅立ったからその名があるとも言われている。これらは、広義の「貴種流離譚」と言ってよく、同じ型の物語であることがわかる。

 当時、古文の教師に言われるがまま、折口信夫全集を中公文庫で買い集めたが、その時は内容をよく理解できずそのままとなっていた。いま、改めて読み返してみて、新たな発見がある。

 稲作定住社会の祖先信仰に日本人の原型を見た柳田国男に対し、「妣(はは)が国・常世(とこよ)」といった異郷意識を重視し、共同体の外から来訪する「まれびと」、唱導文学を物語る遊行(ゆぎょう)の人びとに焦点を当てて、もうひとつの日本文化の系譜があることを言い当てた折口信夫の独創はきわだっている。

 ここで話は意外なところで宮本常一「土佐源氏」につながる。

「土佐源氏」に残る疑問

 宮本常一の名を一躍世間に広めることになる「土佐源氏」は、高知県梼原の四万川(しまかわ)にかかる橋の下で暮らす盲目の年老いた「乞食」が語った女性遍歴の一代記である。

 宮本は1941年の四国の旅で高知県梼原に立ち寄り、この老人から話を聞いたとされる。しかし最近になって、老人が若い頃に馬喰をしていたことや、年老いて失明したことは事実であるものの、「乞食」ではなかったことが明らかとなり、にわかに創作が疑われるようになった。

 「土佐源氏」は、1959年8月『民話』第11号に「年よりたち」連載第5回として発表された。調査ノートは戦災で失われており、宮本は18年前の出来事を、記憶に頼って書いたものと思われる。

 同年11月に平凡社から刊行がはじまった『日本残酷物語』(全5巻、現代篇2巻)には監修者として、山本周五郎、楫西光速、山代巴とともに宮本も名を連ね、「第一部 貧しき人々のむれ」に、「土佐梼原の乞食」と改題され掲載されもした。

 単行本『忘れられた日本人』(未来社、1960年)に収められるにあたって、庄屋のおかたさんとの交情の部分が加筆されている。

 宮本常一の没後刊行された大正昭和期の発禁文書ばかりをおさめたエロ本集(青木信光編『好いおんな』第6巻、図書出版美学館、1982年)に、「土佐乞食のいろざんげ」と題された作者不詳の作品が収められている。性描写を露骨にした「土佐源氏」そのままの内容であり、のちに井出幸男『宮本常一と土佐源氏の真実』(梟社、2016年)で「土佐源氏」の「原作」であると論じられた。

 井出の著作は、「土佐源氏」の成立事情を子細にわたって解明した手堅い実証研究であるが、「ただ、乞食とすることで宮本が何を目指したかは、今一つ判然としないところがある」(137頁)と、肝心な点については結論が出ないままとなっている。

 ではなぜ宮本常一はそんなに「乞食」にこだわったのだろうか。私は、折口信夫の影響を指摘してみたい。

「餓鬼阿弥蘇生譚」としての「土佐源氏」

 「土佐源氏」の物語の基本的な構成要素は、「盲目」の「乞食」が語る「身分を超えた性愛」の身の上話である。

 これとまったく同じ構成要素を持つ物語に、「俊徳丸」があることに気がついた。これは中世以来大阪に伝わる伝承で、謡曲や説教節、人形浄瑠璃や歌舞伎、落語や現代演劇など、時代を超えてさまざまなジャンルで上演されて現代に至っている(「身毒丸」「摂州合邦辻」「弱法師」などタイトルもさまざま)。

 俊徳丸は、河内国高安(現・八尾市)の長者の息子で、継母の呪いによって失明し(異本ではハンセン病にされ)、四天王寺で乞食になる。しかし四天王寺に祈願することによって病が癒え、恋仲にあった娘・乙姫と結ばれるというのが大まかな筋である。

 「土佐源氏」のモデルとなった老人が晩年「盲目」となったことは事実に忠実だ。さらに、「身分を超えた性愛」については、本人が語ったとおりの内容であろう。私もモデルとなった老人の孫にあたる方から、おじいさんが、そうした女性遍歴を、だれかれかまわずつかまえては語って聞かせるような人だったことを聞いている。残る「乞食」という事実と異なる要素。これは、「俊徳丸」という中世以来伝わる口承文芸から基本的な筋書きを拝借した証左ではないか。

 「俊徳丸」の舞台が大阪の四天王寺であることにも注目したい。宮本常一が学校教員になるために学んだのは、天王寺師範学校であった。四天王寺は、宮本が青春時代を送った馴染み深い土地なのである。戦前は、多くの物乞いが集まっていた場所として有名で、それを宮本が日常的に目撃していたことは、彼の残した日記の記述にも見えている(1933年1月21日。『宮本常一日記 青春篇』毎日新聞社、2012年。464頁)。

 中世以来、伝えられてきた「俊徳丸」伝承をモチーフに借りて、土佐梼原で聞いた盲目の馬喰の話を、現代の民話としてよみがえらせようと意図したのが、「土佐源氏」だったのではないか。

 宮本常一に「俊徳丸」のヒントを与えたと思われるのは、折口信夫の著作である。折口には「俊徳丸」を小説化した「身毒丸」(1917年)という作品もある。しかしより重要なのは、主著『古代研究』(全3巻、大岡山書店、1929~1930年)で「俊徳丸」「小栗判官」を同型の物語として論じた「餓鬼阿弥蘇生譚(がきあみそせいたん)」のほうである(「餓鬼阿弥蘇生譚」、「小栗外伝(餓鬼阿弥蘇生譚の二)魂と姿との関係」、「小栗判官論の計画 餓鬼阿弥蘇生譚終篇」の三篇)。

 宮本は、戦前、折口信夫の著作のなかでも『古代研究』にとりわけ愛着を持っていたようで、「この書物を私は熱心に読んだ」とエピソードを交えて回想している(「折口信夫先生のこと」『宮本常一著作集51 私の学んだ人』未来社、2012年。212頁。初出は1962年)。この本を宮本は戦前、大阪の古書店・天牛書店で購入している。これは戦災で焼失するが、戦後になって中央公論社版の『折口信夫全集』が出たとき、宮本は真っ先にこれを購入している。日記によればその日付は、1955年4月30日と1956年3月9日である(『宮本常一写真・日記集成』上巻、毎日新聞社、2005年。28頁、52頁。)。

 その3~4年後に、宮本は「土佐源氏」を雑誌『民話』第11号(1959年8月)に発表するのである。宮本は、『忘れられた日本人』の元になる『民話』の連載にあたって、購入して間もない折口の全集から「餓鬼阿弥蘇生譚」を目にして、「土佐源氏」のヒントとしたのではなかったか。

 私は折口の次のような一節に、目が釘付けとなる。

「室町時代の小説に、一つの型を見せて居る「さんげ物語」は、既に、後代の色懺悔・好色物の形を具へて来てゐるが、ある応報を受けた人の告白を以て、人を訓すといふ処に本意がある」(「小栗外伝(餓鬼阿弥蘇生譚の二)魂と姿との関係」『折口信夫全集 第二巻 古代研究(民俗学篇1)』中公文庫、1975年。369-370頁)。

 色懺悔! 好色物!

「盲目」「乞食」「身分を超えて女性と結ばれる」という物語の要素を持つ「俊徳丸」が、「色懺悔・好色物」と結合して「土佐源氏」のヒントとなったことをうかがわせる記述が、折口の著作の内にこんなにはっきりと見られるのだった。

 じつは、「俊徳丸」「小栗判官」の主人公は、ともにハンセン病に姿を変えるという重要なモチーフがある。宮本常一は、「土佐源氏」の主人公そのものをハンセン病者とする設定は採用していないが、その代わりに、犯罪者池田亀五郎(通称・強盗亀)を登場させ、彼がハンセン病であったという(史実と異なる)噂話を、わざわざ「土佐源氏」に挿入している。ここにも、「餓鬼阿弥蘇生譚」と「土佐源氏」をつなぐもうひとつのピースを見ることができるのである。

 最後に、「土佐源氏」というタイトルについて付言したい。ここでいう「源氏」とは、「源氏物語」の主人公「光源氏」のことで、両者の女性遍歴を二重写しにしていることは明らかだが、折口が論じた「貴種流離譚」の典型的な物語のひとつが、「源氏物語」(須磨・明石への流離が描かれる)なのである。

 宮本常一が、柳田国男や渋沢敬三から深い影響を受けたことはこれまでつとに知られてきたが、折口信夫の影響は不思議なことにいままでほとんど指摘された形跡がない。折口の『古代研究』も、宮本の「土佐源氏」も、ともに民俗学の代表作と言われながら、そのことに民俗学者が誰も気づいてこなかったのである。

 私とて、最近になってようやくそのことに気づいたのだが、そもそも遡ってみると、「土佐源氏」の舞台をひと目見ようと列車を途中下車して梼原を目指したり、「貴種流離譚」の一類型である平家の落人伝説の舞台を訪ねてあるいたりした、30年以上前の高校卒業後の初めてのフィールドワークの経験のなかに、すべてのヒントが埋もれていたのであった。