「なんで手を挙げたの?」

――行為をある心理状態によって引き起こされたものだとする「メカニズムの観点」では、自由が切り離されてしまうというお話でした。「ご飯を食べたい」という思いが自然に生じ、それに従ってご飯を食べるのだとしたら、自由なんてないじゃないかと。では改めて、行為というものをどう捉えればよいのでしょうか。

 そこで私が出しているのが「意味の観点」というものです。人間の動きは意味を持っています。たとえば手を挙げることは、今の日本では挨拶になったり、タクシーを停めることになりますよね。あるいは子どもが横断歩道を渡ったり、虫を追い払ったりなど、いろいろな意味を持っている。でも、私たちは時に、その動作の意味がわからないことがあります。

 誰かが会議の席上で手を挙げた。ああ、発言を求めているんだなということはわかっても、なんで発言を求めているのかまではわからない。質問をしたいのか、反論をしたいのか、邪魔をしたいのか、あるいはトイレに行きたいのか……。その挙手という動作にどういう意図があるのかまではわからない。これはあくまでも一例ですが、人の為すあらゆる動作は、複数の意味に開かれていると思うんですよ。

 反転図形ってありますよね。

――向かい合う顔にも壺にも見えるたり、若い女性にも老婆にも見えたりするやつですね。

 私は人の動作、行為というものは、この反転図形のようにして、私の前に現れてくるものだと思っています。だからこそ、その意図がわからないときには「なぜ手を挙げたの」とか「何をしているの」と尋ねる。そこで問われているのは手を挙げたことの意味であって、どのようなメカニズムで手が挙がったのかということではありません。あなたはその挙手にどのような意味を込めていたのかが、問題になっているわけです。

――行為には必ず意図があると。

 必ず、とは言い切れません。意図的ではない行為、たしかに私がやったけどそんなつもりじゃなかった、ということもあるのでめんどくさいんですけど、ほとんどは意図的に、わざとやるものが行為です。

 この意図的行為とそうではない動きを区別するのに私が参考にしたのは、エリザベス・アンスコムという哲学者の議論です。彼女は、「なぜの問いを問うかどうか」がその基準だと言います。

――「なぜ手を挙げたのか」と問うことがあるから、挙手は行為であると。

 ただし、それだけではまだ答えになっていない。だって、今回の台風はなぜ上陸しなかったのか、なぜ今年は花粉が少ないのかのように、自然現象に対してもわれわれは普通に「なぜ」と問いますよね。そこでアンスコムは、「なぜ」の問いに対して原因ではなく、理由を答えるのが行為であると言います。

 だんだんややこしくなるんですけど、同じ「なぜ」でも、自然現象には意味ではなく、メカニズムの問いを立てているわけです。なぜ今回の台風は上陸しなかったのかという問いが求めているのは、偏西風の位置や気圧配置、海水面の温度などに関することで、つまりは自然科学的な法則性に依拠している。そこが自然現象に対する「なぜ」と人間の行為に対する「なぜ」の決定的な違いです。

二人称の態度、三人称の態度

 繰り返しになりますが、行為は多義的なんですよ。いろいろな意味が成立しうる。だからこそ、その意味を確定したい。そのときに関わってくるのが「一人称権威(first-person authority)」という原則です。行為の意味に関しては一人称、つまり行為の当事者にその権威性がある。なぜ手を挙げたのかという問いに対して、知り合いがいたから挨拶したんだと答えたとしたら――その人が正直に答えていることが担保されれば――、われわれはその答えをそのまま受け入れるしかない。

 たまにそうじゃない人もいますけどね。「いや、君が言いたたいのはそういうことじゃない。君のことは私の方がよくわかっている」みたいな人が私の知り合いにいますけど。

――そういう人、たまにいますね(笑)

 そういう例外を除けば、挨拶をするつもりだったのか、タクシーを停めたかったのか、虫を追い払いたかったのかは、その当人に決定権がある。そのことがものすごく大事だと思うんです。で、われわれが「なぜ手を挙げたの?」と聞くときには、当人の視点から見たその行為の意図が聞きたいわけです。これを私は「二人称の態度」と呼んでいます。

 台風などの自然現象には「三人称の態度」、つまり観察者として客観的に接するわけですが、行為に対してはそうではなく、その当人の、一人称の捉え方を理解したいという気持ちがある。この相手の意図を捉えたいという気持ちで「なぜ」と問うのが「二人称の態度」です。

 じゃななんでそんなことを聞くのかといったら、それは相手のことを理解したいからですよね。この「理解」は自然現象を理解したいというときの「理解」とは違う。ここがまだ詰め切れていない、議論が甘い所だと思っているのですが、いちばん近い言い方をすれば、相手がどういう人なのか、その人柄を知りたいということだと思うんですよ。

――例があまり良くないかもしれませんが、何か事件が起きてその容疑者がつかまると、「なんでそんなことをしたんだろう」って思いますよね。それが凄惨な事件であればあるほど、その容疑者の思想や生い立ち、見ている世界がどんなものなのか知りたくなる。

 そうですね。それも客観的な観察者の目線ではなく、一体この容疑者はどういう人なんだろうという目線であれば「二人称の態度」だと思います。

 ただ、同じように人間が相手でも、しばしば「三人称の態度」になるケースもあります。その典型が患者に対する医者の態度で、つまり、病気や怪我に対してだけ興味を持ち、患者には関心を向けない。下手をすると、パソコンの画面ばかり見ていて、患者とは一度も目を合わさないような医者もいたんじゃないですか。最近はさすがに変わってきてると思いますけど。

――人間相手だからと言って、必ず「二人称の態度」になるわけではないと。

 相手へのまなざしの違いというか、その人の一人称の視点を尊重して理解しようとするのか、それとも客観的な観察にとどめるのかによって、同じ動きであっても行為か否かが分かれてくる。言い方を変えれば、世の中にあるさまざまな動きの中で、これはこの人の人柄に関わっている、この人を理解する足しになると判断した動き、それこそが行為だと思うんです。

――ということは、行為は二人以上の人間がいないと成り立たないことになりますね。

 そういうことです。それが、「行為とは社会的概念である」ということの意味に他なりません。自然現象に対する態度とは違い、まさに人間関係のなかで相手を知りたい、どういう人なのか理解したいという思いから、行為という概念が出てくる。これは当人の欲求や信念を基準とする「メカニズムの観点」とはまったく異なるアプローチですが、それなりの説得力があるでしょ。

――はい、すごく面白いです。

 言いたいことはぜんぶ言っちゃったかな。

――そのときに、じゃあ、自由というのはどうなるんですか?

 ここから直ちに自由が出てくるわけではないんですけど、その話もいきますか?

――ぜひお願いします。