自分でコントロールできる動きが行為?

 「行為」とは何かと考えると、「自分でコントールできている」という感覚があるのではないでしょうか。自分でコントロールできている動きとは、自由な動きでもある。つまり自由というのは、自分でコントロールできることである、と。

 台風は進路を自分でコントロールしているわけではないですよね。あるいは人間の動きでも、心臓の鼓動を自分でコントロールすることはできない。もちろん、薬を飲んだりして動きを変えることはできますが、それは「薬を飲む」という行為によって心臓に作用を与えているわけです。こうしたことからごく自然に、「行為とは自分でコントロールできる動きのことだ」という考えが出てくる。

――たしかに違和感はないですね。

 これ自体を拒否しようは思いません。だけれども、この言い方は哲学的にはとても危険なんです。たとえば私が散歩をしている。それは私の行為であり、私は自由に歩いている。誰かに操られているわけでもないし、自然現象でもない。ということは、私は私の歩行をコントロールしてるんだって言いたくなる。

 でもそうすると、歩いている私とそれをコントロールしている私というものが出てきてしまう。じゃあそのコントロールしている私はいったい誰なんだという話になって、さっきの「見る私」と同じようなことになってしまうんです。

――「コントロールしている私」はこの世界の外にいて、経験することができない。

 私が歩いている、というのはいいんですよ。それ自体は問題なさそう。ところが、その歩きを私がコントロールしてるんだってなると、歩いてる私を一段上から見て制御してるようなイメージが出てくる。私が二重化するというか。行動する私と、それに指令を与える私に。

――散歩している犬とリードをもっている飼い主みたいな。

 そうですね。動力と司令塔と言ってもいいかもしれません。ある心理状態が動力となって、たとえば「歩く」という動作を引き起こす。で、その動作に対して脳のあたりにある司令塔が、もう少し右とか、もっと速くといった指令を与える。行為には一般的にそんなイメージがあると思うんです。

 でも実際はそうではなく、私はただ歩いているだけ。行為というものを「自分がコントールしている動き」と捉えると自分が二重化して、わけの分からないことになってしまう。なので、哲学の場面では「コントロールする」という言葉は使わない方がいい、というのが私の考えです。

メカニズムの観点

 現在の哲学では、行為とそうでないものとではその動きの引き起こし方が異なる、という考え方が主流です。行為の場合には、ある特定の心理状態があり、それが我々の動作を引き起こしている。だから、その心理状態を調べれば行為の特徴が見えてくるだろうと。

 これは今の「コントロール」という話につながるだけでなく、脳科学とも相性のいい議論です。脳科学において、少し単純な言い方をすれば、心理状態は脳状態で決まると考えられるため、脳が体に指令を与えて動かしているという構図と一致するわけです。こうした見方を私は「メカニズムの観点」と呼んでいます。その動きを引き起こした仕組み、メカニズムを解明すれば、行為の何たるかがわかるだろうと。

――ある心理状態がモーターとなって、特定の動作を引き起こすというわけですね。

 その心理状態とは何かというと、あることをしたいという「欲求」であったり、これをすれば望ましいことが実現できるという「信念」とされるのが現代の行為論で標準的な見解です。ただし、「したい」だけじゃなくて「しなくてはいけない」のような義務感もあったりするので、ここで「欲求」というのは「そうするのが望ましいと思う」という程度の広い意味です。それで、この「欲求と信念」が原因となって引き起こされた動作が行為である、と論じられる。でも、私はそれを受け入れられない。

 なぜなら、その「欲求と信念」というのは、自分の意のままになるわけじゃないんですよ。「ご飯を食べたい」と思いたくても食欲がわくわけではないし、「勉強したい」と思いたくてもやる気が出るわけではない。信念にしたって、自分の意のままに何でも信じられるわけではありません。

 心理状態が自分の意のままにならない以上、その心理状態によって引き起こされるものが行為だとするメカニズムの観点では、行為もまた自分の意のままにならない、つまり自由にならないものになってしまう。でも、自由にならないのであれば、それはもう行為とは言えないと思いませんか。

――思います。

 「不自由な行為」というのも、ひねくれたことを考えればあるかもしれないけど、ほとんどの行為は自由に為しているわけで、自由と切り離してしまったらもう行為という概念は捉えられない。

 じゃあ、メカニズムの観点のままで自由を確保しようと思ったら、特定の心理状態を自由に生じさせるというのはちょっと見込みがなさそうなので、ある心理状態が生じたときに、それに対応する動きを引き起こすのか否か、そのスイッチは自由に押せるという方向に行くしかない。

――ご飯を食べたいと思ったときに弁当を食べるのか、授業中だから我慢するのかは自由に選ぶことができる。

 そう。だけど、そうすると今度はその「やめよう」と思うことが自由にできるのか。やめようと思ったときに本当にそれが原因でやめているのかという問題が出てくる。つまり構造が変わってないんですよ。

 ややこしい所なのでもう一度繰り返します。まず、ある心理状態が自然に生じて、「ご飯を食べよう」と思ってしまう。そう思ってしまったら、それに従ってご飯を食べてしまう。これだとまったく自由がない。

 でも、「ご飯を食べよう」という思いが生じても、次に「やめとこう」という思いが生じたら食べないですむ。そこに自由があるんだって考えたくなる。ところがこの「やめとこう」という思いも自然に生じるわけです。

――なるほど。

 で、「やめとこう」という思いが自然に生じて自動的にやめてしまうんだったら、結局どこに自由があるんだって話になる。

 つまり、ある心理状態によって引き起こされた動作が行為なんだとしたら、動作の原因となる心理状態を自由に生じさせられるのか、または、その心理状態が生じたときにそれに対応する動作を実行するかしないか選べるのか、ということが問題になる。でも、ある心理状態が生じても、それを動作として実行するかしないかは選べるんだとしたら、その心理状態が原因で行為が引き起こされたということにならない。

――因果関係が成り立っていない。

 そうです。逆に因果関係が成り立つのであれば

――自由がなくなる。

 いろいろな議論があるところなので、これにも様々な反論があるんですけど、とくに、後でお話しすることになる「自由」について、考え方が分かれるので、単純にメカニズムの観点はだめと言い切れないのですが、私としては、このメカニズムの観点からはもう離れたいと思うわけです。

 これはさっきのコントロールの話と結びついていて、たぶん哲学者だけの考えではないと思います。人間が何らかの行為をするときと自然にそうなっちゃうときの違いは何かと言ったら、その動きが生じるメカニズムが、仕組みが違うだろうと。だからその仕組みの違いを明らかにすればいいってなるんだけど、その発想自体が間違っているのではないか。