見る私は見えない
――先生は新著『新版 哲学の謎』で、行為とは社会的な概念ではないか、という議論をしておられますね。今日はこれについてくわしくお聞きしたいのですが、その話に入る前に、先生が認めていない「認識主観」についておさらいさせてください。以前のインタビューではスカイツリーの眺望を例にとり、スカイツリーを「見る私」なんて存在しないと言っておられますが、これはどういうことですか。
これについて私は基本的に、大森荘蔵先生の議論を受け継いでいます。大森先生に言わせると、ある場所に立ち、ある方向に目を向けると、その景色が見えてくる。今の例で言えば吾妻橋に立ち、スカイツリーがある方向に目を向けるとスカイツリーが見えてくるのであって、それに加えてさらに「見る」なんて行為はないでしょうと、こういうわけです。
さらに言えば、「見る私」というものを立てると、その私を見ることができなくなるんですよ。何かを見ている私というのは、論理的に、見ることができない。
――ええと、それは……
たとえば鏡に映っているのは「見えている私」であって、その鏡を「見ている私」は鏡のこっち側にいるわけですよね。鏡の向こうにいるのは私の鏡像であって、それがこっちを見ているわけじゃない。自分の手や足や胴体は自分の目で直接見えますが、これも「見えている私」。手を見ている私を、私は見ることができない。そうなると、見たり、聞いたり、触ったり、あるいは味わったりしている私というのは、そういう経験を超越したもの、経験できないものだということになりかねないんですよ。
――なるほど。
行為主体としての私、たとえば歩いている私はこの世界に存在しています。いわば「住所」があるわけです。桜木町駅からランドマークまで歩いているとか、家の近所を歩いているというように住所を持っているけど、見ている私というのは、この経験世界の外に出ていってしまうように思えてくる。こういう、経験を超越した自我みたいなもの、認識主観と言ってもいいかもしれませんが、哲学は割とそれを容認してきました。誰というわけじゃなく、いろんな哲学者が認めていると思うんですね。
でも、それを認めたくない。私というのはこの世界の中に体を、住所を持っているのであって、経験を超越した存在ではない。世界はすべて、見えて、聞こえて、触れられるものでできている。見ることも、聞くことも、触ることもできない存在を、世界そのものを世界の外から眺めているような存在を立てたくないというのが、哲学史における大森先生の立場だと思います。
私はそれをそのまま受け入れて、認識主観というものをなくし、世界はただ見えている、ただ触られて現れてくる、という風に考えるようになりました。
――私を認識主観にすると、その私はこの世界に属していないことになってしまうんですね。
そうなりがちなんですよ。だから、そうならせないための解毒薬として、行為する主体だけを認める。でも実際、対象に目を向けるという行為に加えてさらに「見る」という動作なんてないと言われたら、そうかもって思いませんか。
触る私はどうか
――「見る」についてはたしかにそんな気もしますが、「触る」についてはどうなんでしょう。「触る私」というのは世界に接触しているように思うのですが、これもやはり認識主観で、この世界に属さない存在ということになるんでしょうか?
「触る」っていうのは面白いですよね。「触る」には対象に接触するという、純粋に身体的な意味合いがあるので、「見る」とは違い、感覚的な意味を抜きにして使うことができる。なので、触っている私は行為主体だとも言えますが、同時に触っているのに何の感触もなかったら、それは触っていると言えるのだろうか……。
「見る私」はいない、でも「触る私」はいるだろう。だって、触るというのは接触するってことだから行為主体でしょ。でも感覚がなかったら触るとも言えないんだから、そこでは感覚主体としての私が前提になっているんじゃないのって言われたら、大森先生はなんて答えるかな……。
うん、そこは面白いところだと思いますね。面白いと言って逃げているわけだけれども、ちょっと宿題をもらった気がします。
――「触る私」には世界を抜け出ているという感じがあまりしませんね。
触るというのは結局何をしているのかというと、たとえば手を机に接触させる。すると感覚的な机が立ち現われてくる。「立ち現われる」というのが大森先生の言葉遣いなんですけど、この立ち現われも含めて「触る」なんですよ。なので構造は「見る」と同じで、対象に手を接触させると触覚的な立ち現われがある。それ以外の何ものでもない。これを一般化して言えば、ある動作をすると、それに応じて対象が立ち現われる。
ここでのポイントは、立ち現われるのは私による能動的な作用ではなく、スカイツリーの眺望にしても、机の感覚にしても、世界から私が受け取るものだということです。こちらが何かアクションを起こすと世界から受け取れるという構造、それが「見る」や「触る」ということに他ならない。
別に「見る」や「触る」という言葉をなくす必要はありませんが、その時に「見る私」や「触る私」といった危険な、経験を超越した認識主観のようなものを持ち出す必要はない。動作主体と世界の立ち現われがあるだけだ、こういう風に言えば無害です。
ただ、この議論にインパクトを受けるのは「超越的主観」のような哲学の議論をある程度知っている人だけで、一般の人にとっては「だから何?」って話かもしれません。ある意味マニア向けですね。
行為と自然現象
――では本題に入っていきたいと思います。『新版 哲学の謎』では自然現象と行為と対比させていますが、行為について考える際に「行為じゃないもの」を見ていくのはわかりやすいなと思いました。
世の中にはいろんな動きがありますよね。人間の動作はもちろん、太陽や月の運行、潮の満ち引き、動物の行動、植物の成長、機械の作動……。そうした様々な動きの中に、「行為」と呼ばれうる独特な動きがあるということだと思うんですよ。なので、「行為じゃないもの」は無数にあってそれを全部挙げていくのは不可能なんですけど、そのひとつに「自然現象」がある。まあ、人間のしていることも「自然現象」の一種だという言い方も成り立つかもしれないので、「たんなる自然現象」と言っておいた方がいいかもしれません。それで、行為とたんなる自然現象はどこが違うのか。
ただ、これにも微妙なラインがあって、たとえばクラゲ。クラゲは脳がなく、光や温度といった物理的刺激に反応して動いているだけです。するとその動きは自然現象のようにも思えるけど、ある種のクラゲは障害物の存在を学習して避けるようになるそうです。であれば、それは「行為」と呼んでもいい気がしてくる。
――たしかに微妙ですね。
台風なんかは明らかに行為じゃないと言えそうだけど、これもある時代や文化のもとでは風神のような神様の行為だとされていました。
――それで言うと、地震は大ナマズの行為ですね。
一方で、人の動きがぜんぶ行為かというと、心臓の動きなんかは行為ではなさそうですよね。曖昧なのは呼吸やあくびで、無意識にスーハ―したり、眠くなってふぁ~と出ちゃうのは行為と言えないけど、深呼吸や、わざと出すあくびは行為になってくる。じゃあ一体行為って何なんだろうという疑問が湧いてくるわけです。

