決定論の威力
じゃあいったん話が変わって、また後で合流する形になりますけど、自由にとっていちばん問題になるのは「決定論」という考え方です。
神様を持ち出す人もいますけど、現代では因果法則で説明されることが多いですね。「論理的決定論」というものを主張する人もいて、いろいろなタイプがあるんですけど、共通するのは「物事の成り行きはあらかじめ全部決まっている」ということです。私は、神様を持ち出すものには心を動かされないけど、そうでないものに対してはかなり説得力があると感じています。
――私がこれまでしてきたことも、これからすることも全部決まっているということですか。
最初の方で話しましたが、何かをしようとかやめておこうという心理状態は自然に生じるものなので、植物が種から芽を出し花を咲かせるように、そういう心理状態になることはあらかじめ決まっていたんだと言われると、簡単には反論できないんです。
一方で、こうした決定論と自由は背反するわけではなく両立するという考え方もあります。「両立論」と言いますが、つまり、ご飯を食べたいという心理状態になることや、それに従ってご飯を食べることがあらかじめ決まっていたとしても、自由は成立する。食べたいのに食べられなかったわけでも、食べたくないものを食べさせられたわけでもないんだったら、それは自由だというわけです。
このことからわかるように、「両立論」は現在の哲学が行為をメカニズムの観点で捉えていることと連動していて、この流れで行くと、すべては決定されていても構わないということになります。
――自由とは欲求のおもむくままに行動できることだと。
大まかに言えばそういうことです。少なくともその方向で、議論を洗練させていくんですよ。だけれども、ご飯が食べたくなることも、食べることも――あるいは食べないことも――決まってるんだったら、そんなの自由じゃないじゃんと私は思うわけです。これはもう素朴な直感というか実感です。だからこの「両立論」にも従いなくない。そうすると、私はまず決定論を拒否しなくてはいけない。
きちんとした議論をここでするのは難しいので大まかに言うと、決定論を下支えしている直感は因果法則による、というのがスタートです。こうであればこうなるというのは決まっている。台風の例でいえば、偏西風や気圧配置や海面温度が決まれば、進路は一通りに決まる。もしも違う進路をとったら、それらの内のどれかが――あるいは未知の要因が――異なっていたということで、すべてがまったく同じ条件であれば、必ず同じ進路になる。
もうひとつ例を出すと、大谷選手がホームランを打った。その時とまったく同じコースに、同じスピードで、同じ球種の球が来て、彼が同じ打ち方をしたら、更にうるさいことを言えば、球場も、観客も、天気も、風向きも、ぜんぶ同じだったら、やっぱりホームランになるだろうと。その状況であればもうホームランになるしかない。ぜんぶ決まっていたんだと。
――まさに因果論ですね。
で、これを拒否するには、条件がぜんぶ同じでも違う結果が生じうるということを示さなければいけない。
必然性と偶然性のディレンマ
決定論を拒否するには、因果法則が常に成立するわけではないことを示す必要があります。因果法則というのは「Aという事象が生じたら必ずBという事象が生じる」というものですよね。ここで押さえておきたいのは、AやBというのは一回限りのことではない、ということです。
「ツキヨタケを食べるとお腹をこわす」という例で言うと、いろんな人がいろんな場面でツキヨタケを食べることができるわけだし、お腹をこわすも同様に、いろんな人がいろんな場面でお腹をこわします。つまりAやBというのはタイプであり、Aというタイプのことが起きたらBというタイプのことが起こるというように、反復可能なわけですよ。これが法則の条件であり、一回限りでは法則にならない。
だけれども、よく考えてみると、この世界では何一つとして同じ出来事は起こらない。また雨が降ったと言う。しかしその振り方は昨日とは必ずどこか違うわけだし、雨粒もどれ一つとして同じものはない。それが同じ「雨」になるのは、言葉というものの分解能が低いからです。毎日ご飯を食べている。そう言われると同じことが繰り返されているように思えるけど、ご飯のメニューであったり、食べる量だったり、その時の体調だったりはどこかしら必ず違うわけです。
――毎日リンゴを食べていたとしても、その一つ一つは別のものですもんね。
世界は二度と繰り返さなない。それが基本だと思うんですよ。その世界のあり方を、法則は必ず単純化している。逆に言えば、単純化しないと法則として捉えることはできない。その単純化された世界を扱っているのが自然科学であり、そこではたしかに因果法則が成り立っている。でも、世界には一回限りのものしかないんです。反復しているように見えても、必ず何かが、どこかが違っている。
――私たちはそれを言葉で、あるいは物理学のように数式で捉え、それこそが世界そのものだと勘違いしているわけですね。
このことを私はウィトゲンシュタインの言葉をもらってきて「シンボル化」と呼んでいます。決定論や因果法則というのはまさにこのシンボル化された世界で成り立っていることに他なりません。でも、世界そのものは、シンボル化された世界から必ずどこかしらはみ出ている。このはみ出ているということに、自由の可能性がある。
決定論者は、過去にこういう出来事があったから今こうなっているのは必然なんだと言う。因果法則によって決まっているんだと。私がいまこうして加藤さん(質問者のこと)と話すことは、私が生まれる前にもう決まっていた。必然的であり必ずそうなるんだと。でも、私はそれを拒否したい。
すると向こうは、物事の成り行きは必然的ではないと言いたいのかと聞いてくる。そうだ、と私は答える。じゃあ偶然なのか、すべては偶然の戯れなのかって話になるんだけど、偶然の戯れもまた行為とは言い難い。たとえば、サイコロを振って出た目の数だけ進む。5が出たら5歩進むというのは、自分の意志で進んでいるわけではない。これはこれで自由ではないだろうと。
必然では駄目、偶然でも駄目だとなると、袋小路にはまったように思える。私はこれを「必然性と偶然性のディレンマ」と呼んでいますが、これは実は見せかけのディレンマです。すごい難問だとは思っていない。
未来は存在しない
加藤さんは、未来って存在すると思いますか?
――え、未来ですか? うーん、「明日がない」とは思えないのである気もするし、まだ来てないんだからない気もするし……
私はね、未来が存在しないってことをまず言いたいんですよ。未来が存在しないというのは、今は当たり前だと思っていますが、最初に気づいたときは――もうずいぶん前ですが――すごく不思議な気がしました。それまでは山歩きのようなイメージがあって、未来とはこれから登る頂上であり、過去とはこれまで登ってきた麓(ふもと)のことだと。要は時間を空間化して捉えていたんですね。私はいま時間のなかの現在地にいて、未来を見つめ、過去を振り返ることができると。
けれども、未来は存在しない。だからそれを見つめることはできない。一方で過去は思い出せる、自分が経験していない歴史的な過去も事実として存在している。つまり、私が今いる風景、「時間的風景」というちょっとへんてこりんな言い方をしますけど、それは山歩きとは違って、現在と過去の世界だけしかない。で、この現在と過去の世界で構成された景色がそっくりそのまま変わっていくのが未来だと思うんです。
――仏教の刹那滅みたいな感じですか?
そうですね、半分刹那滅的とも言えるかもしれません。「半分」というのは、過去は滅することなく存在し続けますから。刹那ごとに新たに生まれてくるのは未来です。私は未来へ向けてまったく新しい世界へと踏み出していく。これによって、未来は必然的に決まっているという決定論を否定することができるわけです。
――なるほど。因果法則による決定論では、現在を原因とする未来が既にあることになるわけですね。
そう。決定論の考えでは、それがどんなものかを私が知らないだけで、もう決まっているんだということになる。でも、世界が刹那ごとに新たに生まれてくるのであれば、未来は非決定性に開かれている。きちんと述べようとするともっと議論を詰めていかなければいけませんが、大筋としてはそんな感じです。未来は存在しない。だから、私がこれから為すことはまだ決定されてなどいない。
必然性と偶然性のディレンマの一方がこうして回避されます。未来に向けて、私の行為はけっして必然的なものではない。
振り返り、立ち返る
じゃあ、必然的じゃなければ偶然だろうとなるわけですが、こんどは過去に向けて考えます。過去についてはどうかというと、自分が何かをしてそれを振り返るときというのは、その行動を意味づけているんですよね。お腹がすいたからご飯を食べた、腹ごなしに散歩をした、タクシーを停めたくて手を挙げた……。「なぜの問いに対して理由を答える」という話をしましたが、行為というのは理由のある行動なわけです。これこれこういうつもりで、だからこうしたんだという説明ができる。これは偶然の戯れではありません。
偶然というのは説明ができないということです。なんでサイコロで5が出たのかと聞かれてもたまたまだとしか答えようがないけど、自分の行為はそうではない。つまり私たちは過去に向かって、偶然の戯れということから逃れている。
繰り返せば、未来に向かって必然性から逃れており、過去に向かって偶然性から逃れている。これが「必然性と偶然性のディレンマ」をほどく私の見つけたルートです。
――なるほど。
時間に関してはもうひとつ言うべきことがあって、私たちが過去を捉えるのには異なる二通りの方法があります。ひとつは現在の視点から物事を振り返るやり方、もうひとつは過去に立ち返り、その時の自分の視点から捉えるやり方です。
昨日食べたラーメンはいまいちおいしくなかった。今それを振り返ると「いまいちだった」となるけれども、ラーメン屋に入る前に立ち返れば「おいしいラーメンが食べられる」と期待している自分がいるわけですよね。
もっと不愉快な例を出せば、詐欺にあった場合です。今の視点で振り返れば、騙された、とんでもないひどい奴だったと思うんだけど、その詐欺師と会っているときに立ち返ると、いい話だ、この人なら信用できそうだと思っている。つまり、現在から見た過去に対する意味づけと、過去の自分の意味付けとが食い違い、二重化しているわけです。
このように、私たちは現在から過去を振り返ると同時に、過去に立ち返りもする。といっても別にタイムワープするわけじゃなく、今ここにいながら、過去の視点を取り戻すことができる。
――ラーメンを食べる前、詐欺だとわかる前の自分の視点を。
完全ではないでしょうけどね。私なんかはもう子どもの頃のまなざし取り戻すのは難しいけど、まったくできないわけではない。そして、そうやって過去の視点に立ち返ったときには、そこからの未来へ向かって、非決定性が開かれている。一方で過去を振り返ったときには、まさにそれを自分が意図的に為したこと、すなわち行為として回収していく。ここにおいて自由が成り立っているのではないか、というのが、今現在の私の到達点、いや到達点というより通過点に過ぎない現在位置です。
聞き手:加藤哲彦 取材日:2026年3月23日

