――次に、先生が長年にわたって調査されているプナン(ボルネオ島の狩猟採集民)についてお聞きしたいと思います。プナンでは人が亡くなると、その人が身に着けていたものや使っていた道具などをすべて焼き払ってしまうそうですね。われわれの社会では遺品としてその一部をとっておくのが一般的だと思うのですが、プナンのこの行為というか慣習はどのように考えればよいのでしょうか。

 これを読み解くには魂、あるいは精神とは何かについて考えてみる必要があると思います。小林秀雄は、魂の正体は脳の組織の中に存在しない「記憶」であり、それは直観によって実在するという風に言っています。つまり、空間的、物的存在には決して還元されない――それゆえに知覚できない――記憶現象こそが魂だというわけです。

 この小林の考えはベルクソンから来ています。私のベルクソン理解は哲学者の中村昇さんの著書に負うところが大きいのですが、ベルクソンは『物質と記憶』という本の中で「純粋知覚」と「純粋記憶」という議論を展開しています。われわれが通常あるもの、そうですね、たとえばペンを知覚するとき、そのペンには何らかの記憶、どこで買ったものだとか、もうどれくらい使っているといった記憶がしみ込んでいます。「純粋知覚」というのは、われわれの知覚からこうした記憶を完全に抜き去ったもので、これが「物質」であるとベルクソンは言います。

――物質とは「純粋知覚」であると。知覚から記憶を完全に抜き去ることなんて実際にはできそうもないですが、なんとなくイメージはできます。

 一方の「純粋記憶」は逆に記憶から知覚を完全に取り除いたもので、これが魂です。中村さんは、純粋記憶とは生きるためのあらゆる注意がなくなったところに出てくるものだといっていますが、魂とは純粋な記憶、記憶そのもののことなんです。そういう風に考えると、プナンの死者に対する行為も読み解けてきます。

 いま言われたように、プナンでは誰かが亡くなると、遺品を暴力的なまでに焼き尽くします。それだけでなく、遺族は死者の名前を口にすることを禁じられ、死者と同じ名前の人は別の名前で呼ばなければならないとされます。死者の記憶=魂を徹頭徹尾この世から排除し、封印してしまうわけです。そうして彼らは目の前にある物質的な世界、現象世界に没入します。

――死者の記憶が完全に抜き取られた世界に。

 そう、死者がまったくいない世界です。そこでは、あらゆる知覚から死者の記憶が完全に排除された「純粋知覚」だけが現前しているわけです。日本では死者の魂に戒名とか法名をつけて弔いの対象にするわけですが、プナンではそういうことを一切しません。消えてゆく記憶=魂と向き合わない、というより向き合ってはいけない。これによって何が起きるのか。

 仮に死者の遺品や名前がこの世から完全になくなったとしても、死者の記憶が人びとの中から消え去るということはありません。「純粋知覚」だけで生きていくことはできないのです。たとえばある月夜の晩に、死んだ父や母、あるいは子どものことがふっと思い出されて胸が苦しくなり、とめどなく涙があふれるということがある。しかし、その名を呼ぶことも、語りかけることもできない。禁じられているからです。そんなときにどうするのかというと、かれらは鼻笛(ノーズフルート)を取り出します。

 鼻笛というのは文字通り鼻からの息で吹くわけですが、これがものすごく物悲しい音色なんです。今年(2022年)の8月にボルネオでその鼻笛を買ってきたのですが、その時にある女性が、鼻笛は「シャーマン」だと言っていました。シャーマンというのはこの世とあの世を媒介する存在で、ふつうはもちろん人間なんですけど、彼女は鼻笛そのものがシャーマンであり、それは死者と交流するときに使うのだと。つまり、かれらは言葉=ロゴスではなく、鼻笛を使って死者と会話をするんです。

 それと、これはかれらが言及していることではありませんが、息というのはどこかに行ってまた戻ってくるものなので、鼻笛を吹くことには息の出し入れ、その往還という意味も含まれているのではないかと私は考えています。

――名前や遺品といった知覚的なものを滅却することで死者の魂そのもの=純粋記憶が立ち現れるわけですね。知覚が封印されているがゆえに、純粋な記憶が感情の奥底でよみがえってくる。それにしても、なぜそこまでして死者の記憶を消そうとするのでしょうか。

 死者の名前を呼んだり遺品を見たりすると、心痛が起きると言います。かれらは、かつては狩猟小屋を渡り歩く遊動民の生活をしていたのですが、誰かが亡くなる度に、その場所から立ち退いていました。死者を埋めて立ち退くのでbury and runという言い方をしますが、その場所自体が死者の記憶をよみがえらせ、心痛を引き起こすのです。遺品を焼き払うのも同じ理由で、かれらは心痛を引き起こすものからなるべく遠ざかろうとしているわけです。

 私は半年に一回プナンに行っていますが、私が持っている写真の中にその半年の間に亡くなった人が映っていると、その写真を決して遺族に見せようとはしません。

――鼻笛を吹くことには、その心痛を和らげるという意味もありますか。

 というより、そこはやはり死者との交流だと思います。封印しているがゆえに押し寄せてくる記憶や死者への思い、しかしそれを言語化することは禁じられているので、鼻笛という道具立てによって死者と「会話」しているのだと思います。そうすることで、結果的に心の痛みを和らげているのだと思います。

――言語化しないというのがポイントのような気がしますね。それで思い出したのですが、先ほどお名前の挙がった中村昇先生へのインタビューで、小林秀雄の「おっかさんという蛍」の話がありました。

 小林秀雄の母が亡くなって数日後に、小林がロウソクを買おうと思って門を出ると、「今まで見たこともない様な大ぶりの」蛍を見て、「おっかさんは、今は蛍になっている」と思ったという話ですが、同じような経験は誰にでもあるんじゃないかと思うんです。でもそれを言葉にしてしまうと、自分自身でさえ「そんなことがあるわけない」と思ってしまう。そこに言語の特性というか、目の前の現象そのものを捉え切ることができない限界のようなものを感じます。

 言語化するというのは現象を「悟性」で捉えるということです。われわれは自分が経験したことをそのまま受け止めるのではなく、それを反省し、言葉によって再構築しているわけです。小林秀雄が蛍を見て「おっかさんだ!」と思ったのは直観であり、いわば経験そのものですよね。でもその経験を振り返り、「おっかさんという蛍が飛んでいた」という言語にすると、妙な感じがしてしまう。それでも、小林秀雄ならそれを文章にして発表できますが、一般の人だとなかなか他人には話せませんよね。それで普通はなかったことにして、やがて忘れてしまうわけですが、言語化以前の直観を大切にするということは、プナンの死者との交流の話にも通じますし、アニミズムとも関係があると思います。