――われわれが「主体と対象」という図式で世界を捉えることを前提に、対象である動植物との間に身体的な非連続性と内面的な連続性を認める思想、というのがデスコラのアニミズムの定義でした。ただ、これにも批判があるとのことですが、たとえばどのようなものですか。

 南米先住民アラウェテの調査研究を行ったエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ(1951-)は、デスコラの議論は人間世界の「差異」や「質」を人間以外の世界に持ち込み、結局は動植物に人間性を投影しているだけではないかといっています。もしそうだとすると、デスコラの定義も、物質と精神を切り分けて前者の中に後者を投影するタイラーの二元論的なアニミズムの域を脱してないということになります。

――主体と対象、あるいは身体性と内面性と言っているので、たしかに二元論ですね。とはいえ、ここから抜け出すことなんてできるのでしょうか。

 二元論になってしまうのは、アニミズムを「静態的」あるいは「実体的」に論じようとするからではないかと思います。われわれの日常の経験って、もっとグダグダしているんです。ある現象を目の前にして、主体と対象だとか、身体性と精神性だなんていちいち考えない。現象としてのアニミズムは動態的なものであるはずなのに、それをスタティックなものとして、いわば完成形態で、しかも言語によって取り出そうとすることで投影論になってしまうのだと思います。

 こうしたことを踏まえ、ハイデガーやメルロ=ポンティらの現象学を手掛かりにして、アニミズムをダイナミックなプロセスとして捉えようとしたのがティム・インゴルド(1948-)です。これまでは「未開」社会におけるアニミズムという現象を、いわば「こちら側」から読み解いていたわけですが、そうではなく、現象のど真ん中に入って、人々が体験するように体験してみないといけないとインゴルドは言います。フィールドに入り込み、彼らが語ることを真剣に受け取る。人類学にはtaking seriouslyという言葉がありますが、現象の真っただ中で、人々とともに観察することによって見えてくる「本質」があるというのです。

 インゴルドは、カナダの先住民オジブワの長老ベレンズと、人類学者アーヴィング・ハロウェルとの間で1930年代に行われた対話を取り上げています。オジブワ語では文法上、石は生きているもののカテゴリーに入るらしいのですが、それを踏まえてハロウェルが「私たちが見ている周りのすべての石は生きているのか?」と尋ねました。ベレンズはしばらく考えたのちに、「いいや、でも生きているものある」と答えたそうです。

――すべてではないけど、生きているものもある。うーん、どういうことだろう……。

 このベレンズの語りをインゴルドは「経験と想像力」、そして「事実と空想」という、二組の言葉を用いて再解釈していきます。科学教育を受けて育ったわれわれは、「経験と事実」に基づいて「石は生きていない」と考えます。目の前の石が動いたりしゃべったりという経験を多くの人は恐らくしたことがないでしょうし、経験や事実としていうなら、石は無機物です。しかし、ベレンズの語りはそういう次元のものではないとインゴルドは言います。

 経験と想像力、あるいは事実と空想というものをわれわれははっきりと区別しますが、オジブワ族の人たちにとって両者にはそれほど違いはない。つまりベレンズは、経験や事実を述べたのではなく、今まさに目の前に立ち現れ、形成されつつある世界の中で、想像力と空想を交えて語ったのだと、インゴルドは考えました。

 たとえば山を登っていると、拳くらいの石がゴロゴロと音を立てて転がってくることがあります。その時に経験や事実だけでなく、それに想像力と空想を交えて、その現象と向き合えば、石はまさに生きているようにも感じられるわけです。経験や事実だけに頼るのではなく、石が私の目の前に姿を現すその瞬間の世界をつかみ取ろうとすること、それこそがアニミズムだとインゴルドは主張しています。

――たしかに、大雨が降った後のごうごうとした川の流れや荒れ狂う冬の日本海を見ると、生きているように思えることがあります。

 そうですよね。ニュージーランドの先住民であるマオリの人たちは、川は人格だといいます。たとえば洪水が起きたりすると、かれらはそれを川の叫び声、泣き声として聞くわけです。だからむやみに開発をするなと。その訴えが入れられて2010年、ワンガヌイ川に国から法的な人格が与えられました。

 インゴルドに話を戻すと、彼は結局「生きている」に関心があるんです。彼の主著である『BEING ALIVE』は日本語訳では「生きていること」と動名詞になっているのですが、そうではなく、「生きている」と動詞的に捉えるべきでしょう。

 この世界で起きる現象を、われわれはどうしても名詞的に捉えてしまいます。一つひとつに名前を付け、これはこういう現象であり、こういう原理で起きるのだと。それに対してアニミズムは、現象を動詞的に捉えることと深く関わっているのです。物質と精神、身体性と内面性のように腑分けするのではなく、現象の中から「生きている」そのものを取り出してくる。それがインゴルドの言っているアニミズムだといえると思います。

高速で入れ替わる主客

 このインゴルドに影響を受けて、まさに現象のど真ん中でその理論を実践したのがレーン・ウィラースレフ(1971-)です。彼はシベリアの狩猟民ユカギールの社会に入り込み、かれらのエルク猟の中にアニミズムを見出しました。エルクというのはものすごく大きなシカで、世界で一番大きいといわれています。

 ユカギールのエルク猟は、エルクではなく、エルクの支配霊に対して働きかける儀礼からはじまります。何をするかというと、狩猟者は狩猟前日の夕方に、ウォッカやタバコといった舶来の交易品を焚火にくべて、エルクの支配霊を酔っぱらわせて、みだらな気分にさせるのです。その後夜になって、狩猟者は眠り、夢を見ます。狩猟者の霊魂が夢の中で支配霊の家を訪ねると、性的欲望にとらわれた支配霊は侵入者を恋人だと思い込んでベッドインします。両者は愛し合う関係になるのです。かくして翌朝、狩猟者がエルクの毛皮を着て狩猟に出かけると、不思議なことに、性的興奮の絶頂を期待したエルクが駆け寄ってくるのだそうです。

――獲物の方から近づいてくるんですか。

 そういうことです。狩猟者はエルクの特徴的な突き出した耳のついた頭飾りをまとってそれに似た姿となり、エルクの滑らかな毛皮で覆ったスキー板を付けてエルクが雪の中を動く音をさせながら、つまりはエルクを真似て、自分自身もエルクになって、獲物とエルク同士の関係を築こうとします。そのとき狩猟者の目には、向こうからやって来るエルクがすごく美しい女性のように見えるといいます。

――エルクにとっては狩猟者がエルクに、狩猟者にとってはエルクが人間に見えているんですね。

 そこで狩猟者に起きているのは、パースペクティブの高速交換です。「エルクを見ている主体としての自分」と「エルクによって見られている自分」さらにはその自分を「第三者的に見ている自分」、これらの視座が高速で入れ替わるうちに、人間とエルクを隔てる種の境界が次第に消失していき、ある種の一体化が経験されるわけです。

 そして、ここが面白いんですけど、そのようにして自分が揺れ動く過程においては、狩猟者はエルクの「人格性」を否定できないとウィラースレフは言います。シベリアやアラスカでは「エルク人間(elk person)」や「クマ人間(bear person)」などといった言い方をしますが、これらの地域では、人格は人間だけでなく、すべての動物に備わっているんです。狩猟に没入する狩猟者は人間の人格を、この動物の人格から与えられる。つまり、彼の人間としての人格性は、所与のものではなく、狩猟における主客の高速交換によって初めてもたらされるものなのです。

――人間の人格というのは、私たちが普通考えているように確固とした静態的なものではなく、動物と向き合う狩猟実践の真っただ中で、それこそ動詞的なものとして現れてくると。

 そういうことです。要約すると、ユカギールのアニミズムとは、人間と、動物、無生物、精霊といった非人間の間で「私」が「私=ではなく」、「私=ではない=のではない」という揺れ動きの中で、存在者たちを隔てている境界がしだいに薄れ、人間の人格と同等の知的・情動的・霊的性質を持つ存在者が立ち現れる信念と実践のことであるといえます。そしてそれは「○○はアニミズム的だ」といった形で名詞的に取り出されるものではなく、ダイナミックな動きの中に潜む、経験と想像力のアマルガム(=混合物)に他なりません。

 インゴルドの現象学的アニミズムを継承したウィラースレフは、エルクと向き合う動的な過程の中に、狩猟者の目の前で創成されるアニミズムを生け捕りにした、ということができるのではないでしょうか。