――ここまでいろいろなアニミズムのお話がありましたが、私たちに身近なものとして、アイヌの人びとの文化や風習があると思います。アイヌといえばクマ送りの儀礼である「イオマンテ」が特によく知られていますが、クマを儀式の対象にするのは、アイヌに限らず、ユーラシアの北方では広く見られるそうですね。

 そうですね。日本の東北地方から北海道、樺太、シベリア、さらにはベーリング海峡をはさんでアラスカ、この辺りの人たちのアニミズムには、ある種の共通性があるといわれています。宮沢賢治の童話にはそれが顕著に表れていて、たとえば『鹿踊りのはじまり』では、先ほどお話したユカギールのアニミズムと同じようなことが語られています。

――どんな話ですか。

 主人公は嘉十という百姓です。あるとき嘉十は芝草の上に座って栃と栗との団子を食べていましたが、栃の団子をすこし食べ残して歩き出します。しばらく行ったところで手拭を忘れてきたことに気づき、その場に引き返すと、6匹の鹿が団子の周りを回っていました。すすきの隙間から息を殺して見ていると、やがて鹿たちは輪になって踊り始めます。その踊りに嘉十は引き込まれ、自分まで鹿になったような気がして飛び出そうとしますが、自分の「大きな手」が目に入り、人間であることを思い返して踏みとどまります。

 しかし、その後も鹿の踊りに見とれているうちに、嘉十の中で人間と鹿の種の境界が薄れていき、ついに彼の「大きな手」が押しとどめていた鹿との境界が亡失され、嘉十はすすきの陰から飛び出してしまいます。鹿たちは驚き、一斉に竿のように立ち上がって、はやてに吹かれた木の葉のように逃げていったという話です。

 そこでは、心はすでに鹿と一体化していた嘉十が、手、つまりは体の一部を見て自分が鹿ではなく人間であることを認識するという、人間と鹿の間を行き来する緊張を孕んだ場面が描かれています。賢治はウィラースレフと同じように、鹿が人格をもって現れるアニミズムを見事に描き出したということができるでしょう。

――たしかに、ユカギールの狩猟者が獲物であるエルクとの一体化を経験するのとそっくりですね。

 宮沢賢治に限らず、実は日本の文学はアニミズムの宝庫なんです。川上弘美の小説『蛇を踏む』では、蛇が人になってまた蛇に戻ったり、人が蛇の世界に誘われたりといった、人と動物が溶け合って入り乱れる世界が描かれています。それをアニミズムだと捉えるならば、アニミズムは「メビウスの帯」状の構造をもつものだと理解できます。

 メビウスの帯は、表と裏が分離している輪っかとは違って、一つの面しかありません。表は裏につながり、裏は表につながっています。それと同じように、『蛇を踏む』では人がいつの間にか蛇になり、また知らないうちに人に戻って来る往還が描かれていて、読む方もそれを自然に受け入れてしまう。これも一つのアニミズムだろうと思います。

――往還ということでいうと、イオマンテでも、カミの世界(カムイモシリ)に送られたクマがまた人間の世界(アイヌモシリ)に還ってくることが願われるそうですね。

 その通りです。アイヌの人たちにとって、クマはカミに他なりません。かれらはクマを殺して肉と毛皮をとるわけですが、イオマンテはそのクマの魂を人間の世界からカミの世界へと送る儀式です。この二つの世界もまたメビウスの帯のようにつながっているので、カミの世界に達したカミはやがてまたクマとなり、肉や毛皮といった「みやげ」を掲げてこちら側に還ってくるというわけです。

――クマからすると、ずいぶん人間に都合の良い解釈かもしれませんが、アイヌの人たちはそのような世界観によって自然界とのつながりを保ってきたわけですね。

 私が非常に面白いと思うのは、この「往還」という考え方が仏教、特に浄土思想のイメージそのものである点です。親鸞の「還相(げんそう)論」では、阿弥陀仏の本願(=衆生を救いたいと願う仏菩薩の心)によって浄土に往生した人が、しかしそこに安住するのではなく、再び穢土(えど|現世のこと)に還ってきて衆生を救うとされます。この教えが、メビウスの帯的な往還運動を伴うアニミズムの、動態的な面を表しているように思うんです。

――なるほど。そういえば禅でも、修行をして悟れば終わりなのではなく、悟りの世界からまたこの迷いの(?)世界に戻ってこないといけないと、小川隆先生のインタビューで教えてもらいました。「悟りおわらば、いまだ悟らざるに同じ」という禅語があるそうです。

 なるほど。仏教にはアニミズムの指南法とでもいうべきものが数多く含まれていると思います。私が日本で最も偉大なアニミズム論者だと思うのは岩田慶治(1922-2013)ですが、彼のアニミズム論は道元の『正法眼蔵』を手がかりにすることが多いようです。

 その『正法眼蔵』の中の「山水経」は、「而今(にこん)の山水は、古仏の道現成なり」という一文から始まっています。「而今」というのは、過去と未来の影響下にある今この時のことであり、ここでの「道」は「言う」と意味です。つまりこの一文は「今この時の山や水は、仏が言葉として言い表したものである」という意味で、要するに自然とはお経そのものだと言っているんです。仏の教えに近づくには、自然の営みを知ることが重要だということでしょう。

――それで「山水経」なんですね。

 もう一つ、これも「山水経」の中の「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」のくだりで道元は、山が水の上を行くことを説いています。大きな山の下には水があり、水の上に世界があることを知るのが大事だと。世界に水があるだけでなく、水の中にも世界があり、さらには雲の中にも、生きものの中にも、あらゆる場所やモノの中に世界はあると理解すべきだという風に言っていて、これはまさにアニミズムです。

――ご著書によると、アニミズムを現象学的に展開したインゴルドは「石の中にいのちがあるのではなく、いのちの中に石があるのだ」ということを言っているそうですね。仏教でもよく、生きているのでなく生かされているのだということが言われるので、とても近いものを感じました。

 インゴルドは仏教にはまったく言及していないのですが、彼の議論はとても仏教的なんです。いま言われた「いのちの中に石がある」というのもそうです。また、インゴルドの言う「関係論思考」は仏教の「縁起」そのものといってもいいほどですよ。

――面白いですね。縁起というのは、すべての物事はそれ単体であるのではなく、他の物事との関係によって成り立っているという考えですが、言われてみると、ここまでのお話とも深いところでつながっているように思います。

人新世のアニミズム

――最後に、現代におけるアニミズムの意義についてお聞きしたいと思います。地球規模の自然破壊とそれに伴う気候変動への不安から、近年、これまでの社会が志向してきた「拡大・成長」という価値観の見直しが叫ばれるようになってきました。こうした風潮とアニミズムとは響き合うところがあるように思うのですが、いかがでしょうか。

 そうですね、これも仏教から説明するのがいいかもしれません。親鸞は『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)の中で「他力本願」ということを言っています。この言葉が一般に知れ渡るようになったのは、五木寛之さんの『他力』の影響が大きくて、英語圏でも『TARIKI』というタイトルで出版されています。other powerとかother forceじゃなくて、『TARIKI』なんです。それはともかくとして、実はこの「他力」もアニミズムなんです。

 先ほどアイヌのクマ送りの話がありましたが、クマは人間が力を持っているため、人間が「自力」で捕らえるのではなく、肉や毛皮という「みやげ」を持って、向こうからアイヌモシリにやって来てくれるんです。だから、人間がいくら探しまわっても捕れないときがある。仏教的に言えば、「時節を待つ」ことが必要なわけです。アラスカの先住民研究に『Gift in the Animal』(動物の中の贈与)という論文がありますが、これも同じ考え方です。肉や毛皮というのは動物が人間に贈与してくれたものであり、われわれはそれをいただいているのだと。

――まさしく他力ですね。

 これは逆から言うと「捨身」です。『ジャータカ』(編注:釈迦の過去世の物語を集めた逸話集)には、前世の釈迦が飢えた虎の親子に自らを布施する話がありますが、人間もまた単に食べるだけではなく、食べられる存在でもあるわけです。

――特権的な存在ではないと。

 これに対して「自力」というのは、人間を例外視し、自らの持つ知識や技術だけに頼って世界をコントロールすることができるという考え方です。近代以降、われわれは科学技術を駆使して自然を開発し、人間の領域をどんどん広げてきたわけですが、その結果、地球の生態系や生態環境が破壊されてしまった。今しきりに提唱されている「人新世」という区分――地質年代の変更が決まったわけではありませんが――には、人間によって地球が破滅に向かっているということが含意されています。そうした中でわれわれが目を向けるべきものは、人類が潜在的に、無意識のレベルにおいて持っていた思想、レヴィ=ストロース的にいえば「野生の思考」です。レヴィ=ストロースはアニミズムに触れてませんが、アニミズムもまた「野生の思考」につうじるものがあります。

 アニミズムとは、現代の私たちも含めたありとあらゆる人類が持っている思想であり、人間と人間以外の存在を同じような存在として捉え、人間以外の存在を含めて、人間の外部に力の源泉があると捉えるアイデアだともいえるでしょう。

 実際に最近では、アートやパフォーマンス、あるいはビジネスの現場でアニミズムが取り上げられることが増えてきました。こうした動きがどこまで広がるか、広げていけるかはわかりませんが、地球をここまでずたぼろにしてしまった人間中心主義的な考え方ややり方を相対化し、乗り越えるものとして、アニミズムは今こそ大きな意義を持つのではないでしょうか。


(取材日:2022年12月8日)