知るためには想像しなければならない
――私たちは写真を現実だと思い込むことによって、実際には自分がアニメーションしていることを否定しているというお話でした。それを踏まえ、写真は出来事を伝えることができるかについて考えてみたいと思います。
ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは『イメージ、それでもなお』(橋本一径訳、平凡社ライブラリー)の中で、アウシュヴィッツの強制収容所において被収容者の一人が命がけで撮影した写真について論じています。彼は写真の限界を認識しながらも、われわれにはそれらの写真に対して、そこで何が起きていたのかを想像してみる義務があると言っていますね。

ディディ=ユベルマンが言っているのは要するに、「アニメーション」せよということだと思います。アウシュヴィッツで撮られた写真にガス室そのものは写っていない。たとえば裁判で写真を扱う場合には写っているかいないかが問題になるので、この写真がナチスによる殺戮の直接的な証拠になるかと言うと、おそらくならない。でも、ディディ=ユベルマンはそこで終わるのではなく、写っていないものを読み取る努力をしなければいけないと主張するわけです。
といってもそれは、好き勝手に妄想することではありません。他のアーカイブ資料と突き合わせ、さまざまな証言と照らし合わせながら、写真が伝えようとしているものを読み取っていく。真実は写ってないにしても、真実に近づく手助けをすることは写真にできるはずだと。
――それに対して『ショア』(ホロコーストを扱ったドキュメンタリー映画。9時間27分にわたる全編が関係者の証言のみで構成されている。1985年公開)の監督であるクロード・ランズマンは、写真は真理に迫ることはできないという立場です。
ランズマンの主張の前提になっているのは、写真は現実と物理的に結びついているという認識です。何が写っているかのみに写真を還元し、アニミズム性やアニメーション性を否定する。これまで話してきたように、それはむしろ写真に対する一般的な考え方です。ホロコーストの全貌を収めた写真は存在しない――それを撮影することはそもそも不可能です――。だからこそ彼は、写真など役に立たないと言うわけです。

――それで自分の映画である『ショア』には一切のアーカイブ写真を使わなかったと。
『ショア』から明らかなように、ランズマンが重要視するのは証言です。大事なのは言葉であって、イメージはただの模倣に過ぎない。そこに真実はない。そういった古代ギリシャ以来の伝統をある意味で引き継いでいるのがランズマンだと言うことができると思います。
――イメージを低く見るというのはともかくとして、真理に迫るには言葉が重要だという言い分には一理あるようにも思えますが、このディディ=ユベルマンとランズマンの論争は、第三者的にはどのように評価されているんですか。
ランズマンたちの言っているのはほとんど難癖というか、ディディ=ユベルマンの真意をきちんと理解しないで横やりを入れているというのが一般的な評価だと思います。ただ、ディディ=ユベルマンの議論の急所を突いていると思われる部分もあって、それはやはり想像力という問題です。写っていない真実を想像によって読み取らなければいけないというが、じゃあそれが正しい想像であることを誰が担保するのか。

ランズマンたちは、ディディ=ユベルマンの議論はホロコーストを題材としたハリウッド映画、たとえば『シンドラーのリスト』の観客が、映画館の2時間や3時間だけ主人公に感情移入し、ハラハラと涙を流し、見終わったら「感動したね」と言いながら帰路に就くのと何が違うのか。つまり、脚色されたハリウッド映画を見ることと、真実に近づこうとする想像力をどうやって区別するのかと批判したわけですが、それに対してディディ=ユベルマンは『イメージ、それでもなお』という本のなかではきちんと答えられていません。そのことは彼自身もおそらく自覚していて、その後ディディ=ユベルマンはメージと想像力についてひたすら問い続けています。
――ディディ=ユベルマンは写真そのものだけではなく、それがどのように撮られたかにも注意を払わなければならないということを言っていますね。
そこは非常に重要なポイントです。『イメージ、それでもなお』にはトリミングを批判している箇所がありますが、ディディ=ユベルマンはパッと見は何も写っていない黒い影の部分に注目し、この影は撮影者が身を隠さなければならなかった建物の入口の枠であり、私たちはその闇を通して、彼の置かれた状況を想像してみなければならないと主張します。

何が写っているかのみを見るのであれば、黒い影の部分は必要ない。しかし、見つかったら即座に殺されフィルムも隠滅されてしまう、そのような撮影者の切迫した存在状況を物語っているのがこの黒い影であり、それをトリミングすることは、これが命がけのイメージであることを切り捨てることに他ならないのです。
――写っていないものを読み取るというのはそういうことなんですね。
実在性の喪失
――写真が現実そのものではないにせよ、われわれがそこに一定の実在性を認めてきたのは事実で、だからこそ報道写真や証明写真が成り立ってきたわけですよね。その写真への信頼があるからこそ、アウシュヴィッツの被収容者も命がけの撮影に踏み切ったと思うのですが、さっきもお話があったように、加工ソフトや生成AIの広まりで、その信頼は失われていく一方です。写真はこの後どうなっていくんでしょうか。
報道写真の問題はたしかに大きいんですけど、繰り返しお話しているアニメーション性の否定という面で言うと、写真を現実そのものだと思い込むことが、遂にできなくなりつつある局面に差し掛かっているということだと思います。写真がアニメーションメディアであるということは、誕生した当初から何も変わっていない。にもかかわらず、私たちは写真を現実そのものだと思い込むことでそれを否定してきたわけですが、いよいよそのからくりというかごまかしが通用しなくなった。
元々がアニメーションメディアなので、カメラで撮ったものだろうが、AIがつくったものだろうが実は関係ない。結局はそれを見る私たちの問題であって、前者は現実そのものだけど後者はニセモノだということはできない。ある意味、写真の本質がついに白日の下にさらされたと言えるかもしれません。一方でいま言われたように、私たちの社会が報道写真や証明写真のようなものに頼ってきたのは事実であり、そういう意味で岐路に立っているのは間違いありません。

写真には200年の歴史があるわけですが、その中にはいくつかの画期があり、中でも重要なのが湿版から乾板への移行です。これはフィルムからデジタルへの移行に匹敵するくらいの大きな変化で、乾板は湿版に比べて携行性が高く、撮影時間も格段に短い。これによって瞬間を切り取る「スナップショット」のための条件が用意され、そこから20世紀の報道写真の誕生へとつながっていきます。なので、報道写真自体の歴史は100年ほどなのですが、このジャンルがいま危機を迎えているわけです。
じゃあ、これまで写真が担ってきた実在性みたいなものが今後どうなるかということですけど、最近のドライブレコーダーや防犯カメラの普及なんかを見ると、当面は動画がその肩代わりをしていくように思います。もちろん動画も既にAIでつくれるわけですが、静止画よりは手間がかかりますから。ただ、それも「延命措置」に過ぎないので、その先に、写真や動画に代わって実在性を担うような新しいメディアが出てくるかどうかというのは正直わかりません。
――いまの状況は「写真人」が終焉を迎えつつあるということですか?
いや、写真人は終焉しない。写真人というのは、写真をアニメーションして見ている――にもかかわらず、そのことを否定している――人たちであり、現代人はそこから逃れることができない。ベルティングによるとアニミズムは全人類共通のものであり、アニメーションせずに生きていく人間は存在しません。つまり、写真のアニミズム性、アニメーション性が露になったからといって私たちがそれを止めることはできず、むしろますます写真の時代になっていくのではないでしょうか。


