アニミズムの「克服」
――現代人にとって最も身近なイメージのひとつは写真だと思います。写真が生まれたのは19世紀前半(一説には1826年)ですが、絵画や彫刻などとは違って、当初はその芸術性が否定されていたそうですね。
それには西洋のイメージ文化の歴史が深く関わっています。ベルティングによると、絵画に代表される西洋の視覚芸術は「ミーメーシス」すなわち「模倣」をその根本原理としてきました。自然をありのままに写し取ることが芸術であり、イメージの生産とはミーメーシスの実践であるという考え方が、古代ギリシャ以来の伝統だったわけです。ただ、これにはポジティブな意味とネガティブな意味の両方があって、ありのままを再現していて素晴らしいという見方もあれば、ただ単に真似しているだけじゃないかという見方もある。
つまり、ミーメーシス自体がアンビバレントな概念だったのですが、ルネサンスあたりで、模倣は模倣でもそこに芸術家が介在し、彼の精神や天才をもって自然を忠実に写し取る、それこそが芸術だという考え方が定着しました。ところがそこから3世紀ほど後に写真が出てきた。写真は間に誰も介在していない。実際にはもちろん人が介在しているんですけど、機械が全部やっているように見えるということで、精神の関与が否定された。それで、こんなものは芸術ではないとされたわけです。
――いくらありのままでも、人の手を介してないからダメだと。
しかしここには既に倒錯が生じていて、写真というのは実は全然ありのままではない。今のスマホの写真だって、実際に見たのとはなんか違うと思うことはありますよね。ましてや19世紀の写真は白黒だし、動いているものはまともに写らないしで、ありのままとは程遠い。にもかかわらず、人びとはそれを見て現実だと言ったわけです。ここには芸術性の否定とは別のもうひとつの否定が含まれていて、それは最初にお話した「アニメーション」、つまりはアニミズム性の否定です。

実際には、白黒のぼやけた紙切れに主体がアニメーション=生気を付与することで「現実」の世界を喚起しているのに、そのことを否定する。西洋にとってアニミズムは、未開社会の劣った思考だからです。でも、写真を現実そのものだということにすれば、自分たちが「アニメーション」していることを認めずにすむ。このように、発明された当初から二重に否定されてきたのが写真というイメージなんです。
――面白いですね。写真を現実だとすることの裏にアニミズムの否定が潜んでいるというのは初めて聞きました。
芸術性の否定の方は、20世紀になるとかなり乗り越えられていきます。あちこちに写真美術館ができ、写真も絵画と同じように素晴らしいじゃないかと。一方でアニメーション性の方はいまだに、一般的に認められているとは言い難い状況です。
19世紀の写真観
ただ、写真を現実そのものだと認識することが、人類にとって普遍的というわけではありません。私たちはそのような写真の見方を身に着けてきた、と言った方が適切です。
これはあちこちでしている話ですが、19世紀に初めて家族の写真を撮ってもらったベルギーの労働者の手記があります。ガスパール・マルネットという人なんですけど、両親もだいぶ歳をとってきたので、ここらで写真でも撮ってもらっておこうと。で、出来上がった写真を見て彼や家族がなんて言ったかというと「似ている」と。要は似顔絵と同じ感覚なんですね。
縁日かなにかで似顔絵を描いてもらったら「よく似てるね」とか「特徴を捉えてるね」という風に言うことがあると思います。それと同じノリで、写真を初めて目にした19世紀の人は、「似ているもの」としてそれを見た。でも、実は彼らの方が写真を「正しく」見ていたとも言える。せいぜい似たものに過ぎないわけですから。
――現実そのものではない。
「写真写り」の良し悪しが言われるように、自分や知り合いの写真を見て「こんな顔だったっけ?」と思うことはよくありますよね。19世紀の人たちはそれをちゃんと「似たもの」として認識していたわけですが、現代の私たちは写真の先にその人の存在というか、その人自身を見てしまう。たとえば父親の若い時の写真を見て、「お父さん若いね」とか「痩せてるね」「髪の毛があるね」とは言っても、「似ているね」とは普通言わないでしょう。ですが論理的には「似ている」と言ったほうが正しい。自分の知っている父親の姿とはどこか異なるのですから。

類似か同一かでいうと同一ではないわけで、だとすれば類似でしかない。それなのに私たちは同一としか見れなくなっている。それは、「アニメーション」によってその人自身をそこに呼び起こしているからではないでしょうか。つまり私たちは、机を「机」としか見れないのと同じく、写真をもはや存在そのものとしてしか見れなくなっている。私たちはそのような写真の見方をいつの間にか身につけてしまった、言わば「写真人」なんです。
――未開社会の人びとが岩や木や草に魂を見たのと同じように、われわれは写真にその人自身を見ている。言われてみると、遺影に手を合わすときなんかは特にそういう感じがします。
でもそれがアニミズムだとは認めたくないから、写真には現実が写っているんだという理屈で否定してきた。現実そのものを見ているだけでアニメーションなんかしていないと、自分たちを納得させてきたわけです。ところが今や、撮られた写真を加工するどころか、撮られてすらいない画像をAIがバンバンつくるようになって、写真には現実が写っているはずだという前提が崩壊しつつある。
しかし写真を現実そのものだと信じること自体が、そもそも「アニメーション」だったわけですが、そのことを認めたくないがために、加工されたイメージや生成AIによるイメージの登場が脅威に思えるし、さらにはそうしたイメージをなおも「現実そのもの」だと思い込もうとする人も出てくるので、実際に脅威ともなり得ます。


