「現実」というフィクション

――写真がアニメーションメディアだというのはよくわかりましたが、それでも、カメラで撮影されたものとAIが生成したものを同じだとすることにはやはり違和感を覚えます。AIがつくった画像や動画にはそれに対応する出来事がないわけですよね。アウシュヴィッツの写真が出来事そのものではないにせよ、それが伝えようとした地獄のような光景も、撮影者の人生も、AIの画像には存在しない。そのことに曰く言い難い不気味さというか、足元が崩されていくような不安を感じます。

 それはまさに、われわれが写真を存在と同一視してしまう写真人だからです。証明写真が良い例ですが、写真はわれわれの人格や主体性にこびりついており、われわれは写真とそこに写っているものの存在とを結びつけずにはいられない。さっきも言った通り、われわれが写真人でなくなることはありませんが、写真への「信仰」が揺らいでいる状況だと言うことはできると思います。

 撮影された写真を仮に「現実」だとした場合、AIがつくった画像は「フィクション」ということになりますが、写真とフィクションとの関係はわりと複雑です。現実をありのままを切り取るものとして登場した写真ですが、早くも19世紀の写真家たちは構図や光線の調整、あるいは油絵具による修正等によって写真を演出してきました。まるっきりのつくりものとは言わないまでも、決してありのままではなかったわけです。しかしやがて映画が登場すると、そういった演出やフィクション性は映画の方に取り込まれ、写真には「事実」であることが求められていく。その典型が報道写真です。

 実際には報道写真にも構図や何を撮るかといった選択の部分で演出がなされており、フィクション的に構築されているわけですが、それはともかく、映画がフィクション性を引き受けることで、写真の方は現実であるという思い込みが社会的に醸成されていったわけです。

――映画というフィクションが、写真=フィクションじゃないもの=現実の存在を保証してきた。つまり実際には「現実」と言う概念自体がフィクションだと。

 これまで述べてきたように、あらゆる文明は、とりわけ主体の形成において、フィクションというか神話的な構造を必要としている。私たちが生きる表象の世界とはそのような神話的な世界であり、これはもちろん西洋世界にも当てはまるのですが、西洋文明は「フィクション」という概念を生み出し、「フィクション」ではない「現実」があるという思い込みのもとで発展してきた。

 あらゆるイメージがフィクションだとすれば、撮影された写真もAIがつくった画像も同じだとしか言えないわけですが、そう割り切るにはあまりにも、現代社会はその成立過程において「フィクションではないもの」に依存してきた。その危うさがいま露呈しているということではないでしょうか。

 フィクションからはちょっと離れますが、「プライバシー」という概念も実は写真と共にできたものです。プライバシーが法廷で争われるようになったのは、アメリカのある女優が、舞台袖にいるときに勝手に写真を撮られたと訴えたことに起因しています。つまり、人には勝手に写真に撮られない権利があり、それを保障する領域としてプライバシーという概念ができたわけで、写真がなければ当然そんな区別は必要なかった。このことからも、写真というものがいかに私たちの社会と深く結びついているかがわかると思います。

――写真は存在そのものだという認識があまりに深く浸透しているために、それを根底から覆すAIの画像に動揺してしまうんですね。

 全部フィクションなんだと思い切れないことが、いろいろな問題を生じさせているのだと思います。加工ソフトで自分の写真の目を大きくしたり、肌をきれいにしたり、という、いわゆる「盛る」という行為がすでに一般化しています。イメージの世界の話だと割り切ればいい気もしますが、一部にはこの行為に非常に反発を覚える人たちがいます。あんなものは詐欺だと。そう言われると、では実際に顔を変えないといけないんだと思って整形するような人も出てくるでしょう。

 そもそも、現実とイメージを区別した上で、後者を前者より劣ったものだとするのは西洋文明の特徴であり、それはいろいろな文明の中の一つの考え方に過ぎない。つまりそこには普遍性も何もないのですが、19世紀以降、あたかもそれが全世界の共通認識のようになってしまった。そのことを批判しているのがベルティングの「イメージ人類学」でありルジャンドルの「ドグマ人類学」なのですが、イメージを軽視し続けてきたことのつけが、いま回ってきているように思います。

作者という幻想

――イメージからちょっと脱線しますが、AIに書かせた作品が文学賞の選考を突破したみたいな話がよくニュースになりますよね。ああいうのを目にするたびに思うんですけど、われわれは読者としてそういう作品を受容できるのだろうかと。たとえば書店で平積みされている新刊の帯に「AIが描く純愛小説」とあったとして――ジャンルは別になんでもいいんですけど――、それを手に取るかと言われると個人的には読みたいと思えない。

 作品の後ろにはやはり血の通った人間がいてほしいと思ってしまうのですが、それはもしかすると、誕生した当時の写真が、人間が介在していないからという理由で芸術と認められなかったのと同じメンタリティなのかもしれないと思いました。

 作家主義的な考え方がそれだけ根強いということなんでしょうね。特に現代の小説は個人の精神世界の発露のように受け取られることが多く、共作の小説というのは、きっとあるのでしょうが、あまり一般的ではない。三人で書きました、みたいな小説は。

――たしかに聞かないですね。

 一人の天才が生み出したものにしたいという風潮が非常に強いのでしょうけど、そもそもが言語という社会的なものをつかった作品である以上、作家ひとりの人格に帰着させることには無理があると思います。映画なんかもそうですよね。映画の制作は脚本家や俳優、カメラマン、照明、録音、編集のそれぞれを担当する人たちの共同作業なのに、なぜかすべてを監督に還元してしまう。これはこの監督の作品だと。

 それは実は、小説や映画を見る側の都合であって、誰か一人いてくれないと批評がやりにくいということだと思うんですよ。この作家は過去2作の低迷を克服し5作目にして新たな境地を開いた、みたいな感じで、作家にかこつけると何かを言った気になりやすい。作家主義というのはこうした批評の限界というか遅れの裏返しであって、反省すべきなのは読み手を含めた批評する側だと思うんです。

 AIが書いた小説に関して言えば、求められているのはそれをどう批評するかということであって、たとえばGPT5では稚拙だった感情描写がGPT6では各段に向上した、みたいに論じることもできるはずです。それに、AI小説と言っても最初に指示を出した人間はいるわけで、AIが自発的に生み出すわけではないですよね。人間と機械が共同で生み出したフィクションを、読み手はそのまま受容すればよさそうなものですが、作家や監督と結びつけることに慣れているから、それが幻想であると知って戸惑ってしまう。写真とまったく同じ構図だと思います。

――現実とリンクしていると思っていたらそうではなかったと。

 現実だと思っていたイメージが、実は幻想に過ぎなかった。それは別にAIのせいでそうなったのではなく、元々そうだったにもかかわらず、私たち自身がそれを隠蔽してきたわけです。そこに写真が深く関与しているのはここまで話してきた通りです。AIによって写真が危機に瀕しているとすれば、それは私たちの社会、そして私たち自身が、これまでどれほど写真に依存していたのかを、改めて問い直す機会なのではないでしょうか。

(取材日:2025年10月3日)