――アニミズムというのはざっくり言うと、人間以外の存在、動物はもちろん木や草や石といったものにも魂があるとする考え方だと思うのですが、この「アニミズム」という言葉が出てきたのはいつ頃ですか。

 アニミズムという言葉を初めて使ったのはイギリスの文化人類学者であるエドワード・タイラー(1832-1917)で、時期は19世紀の後半です。タイラーはこの言葉で、いわゆる「未開」社会の人びとの「宗教」を取り出そうとしました。というのも、この時期に、人類には宗教を持たない社会もあるという議論が出され、それに対してタイラーは、人間社会には必ず宗教があるんだということを主張したんです。

――キリスト教や仏教とは異なる宗教の一形態として「アニミズム」というものを措定したと。

 そういうことです。つまり石や木や草や水といったものの中に魂を読み取るような信仰、あるいは信念のことをタイラーは「アニミズム」と呼んだわけです。

  タイラーのアニミズムの背景にあるのは、西洋哲学の「認識論」です。認識論は精神と物質を切り分けて捉える二元論がベースになっていて、元はデカルトの心身二元論から始まっているわけですが、タイラーは「未開」社会の人びとの信仰をこの図式で捉えようとしたのではないかと思われます。つまり、本来人間にしかない精神を石や木や草といった物質にまで投影することで、宗教としては最も原初の段階にあるアニミズムが生まれたと考えたのです。

――「アニミズム」という概念は、西洋的な世界観・価値観を「未開」社会に当てはめることで生まれてきたわけですね。

 同じ19世紀には、ダーウィンの進化論を文化に応用した「文化進化論」が唱えられるようになりました。 すなわち、人類の文化はすべて、未開社会から文明社会へという進化の道筋を辿るものであると。

 そうした見方に拠りながら、文明社会の頂点に位置するヨーロッパは、「未開」社会の人びとに正しいものの見方を教えて引き上げてやらなければならないし、自分たちにはその使命があるといって、植民地主義を正当化したわけです。そして、人間だけの持つ精神を草木や無生物に投影する「誤った」アニミズムもまた、それを低い段階にある宗教と捉えている点で、文化進化論の枠組みの中で理解されたのです。

 しかし、20世紀になると、思弁だけに頼って論じられる文化進化論は衰退し、その流れでアニミズムもあまり論じられなくなりました。その状況が20世紀後半まで続いたわけです。

トーテミスムとアニミズム

 20世紀後半になると、アニミズムが再び議論されるようになります。そのきっかけをつくった一人がフィリップ・デスコラ(1949-)というフランスの人類学者です。デスコラは構造主義を提唱したクロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)に学び、南米のアシュアールという先住民の社会の研究を通してアニミズムを再定義しました。

――デスコラの話に入る前に、いま名前が挙がったレヴィ=ストロースは、トーテミスムを批判したことが知られていますよね。それについて教えていただきたいのですが、まず、そもそもトーテミスムというのはどういうものなんですか。

 トーテミスムは、アニミズムと同じく、「未開」社会の人びとの持つ非合理的な信仰として「発見」されたものです。たとえば、ある「未開」社会の人びとは、「自分たちはクマだ」「あいつらはワタリガラスだ」というように、集団を動物や植物の名前で語ることがあるのですが、それぞれの集団を動植物に結びつける考え方、これがトーテミスムです。

 トーテミスムがヒステリーと結びつけて論じられたことにレヴィ=ストロースは注目しています。それらは、研究者たちが、自分たちの中にある望ましくない部分を「未開」人や精神病患者に投影して、自分たちの正常性を確かめようとして生み出された「幻想」だったのだと批判したのです。

 彼の議論は要するに、人類学者が「トーテミスム」と呼ぶものを持っている社会では、集団間の差異がトーテム――いちおう「動物」ということにしておきましょう――の差異によって分類されて思考されているというものです。Aという集団とBという集団があったとしたら、その両者が違うということを認識し、さらにはそのことを説明するために、Aはクマだ、Bはワタリガラスだと語るというわけです。

――集団Aとクマ、集団Bとワタリガラスに意味的な結びつきはないというわけですね。よくわかりました。では、そのレヴィ=ストロースに学んだデスコラのアニミズムについて教えてください。

 さっきも言った通り、デスコラは南米のアシュアールの社会に入って調査をしたのですが、そこで正にアニミズム的なものを目にしました。アシュアールの人びとは動植物や自然に対して、主体性を付与していたのです。これは先住民社会ではよく見られることなのですが、かれらは人間だけでなく、動植物もまた主体的な存在であると考えている。だから、それらとの間で友情を育んだり、逆に敵対関係になったりするわけです。

 興味深いのは、動物たちは自分の村に帰れば人間の姿になり、人間と同じように家族や親族とともに暮らしていると、アシュアールの人びとが考えている点です。高畑勲のアニメ『平成狸合戦ぽんぽこ』でも、タヌキたちは自分の村では人間の言葉で話していますが、南米先住民のアニミズムはまさにそういうものだったのです。

――動植物の主体性を認めるというのは、動植物にも魂があるという以上に、人間と対等な存在として認識しているように感じますね。

 デスコラは、人間が周囲の自然環境をどのように感じ、それとどのように交渉するのかを「アニミズム」「トーテミスム」「アナロジズム」「ナチュラリズム」という4つのパターンに分類しています。

 この議論の前提として、人間は必ず主体と対象という図式で世界を捉え、さらにその両者の間に「身体性」と「内面性」というものを想定するとデスコラは考えています。身体性はフィジカリティー、内面性はインテリオリティーなので、前者を「物質性」、後者を「精神性」と言い換えてもいいかもしれません。そして、デスコラはアニミズムを、人間(主体)と自然(対象)との間に「身体的(物質的)な非連続性」と「内面的(精神的)な連続性」を認める思考だと定義しました。

――人間と動物は、体は違うけど内面は同じだというわけですね。

 そういうことです。われわれは直立二足歩行ですが、動物は四足で走り回ります。しかし、動物もわれわれと同じように喜怒哀楽を感じている。両者の間には、身体性が断絶しているのですが、内面性は共有されている。そのような思想がアニミズムだとデスコラは定義したわけです。すると、これはかなり普遍的な定義なのではないかと考える人類学者が1990年代以降で増えてきました。

 この定義を基にすればアニミズムの概要が見えてくると思います。私自身はアニミズムを「人間だけが地球の主人ではないとする思想」だと考えていますが、その基礎になっているのも、このデスコラの定義です。

――先ほどの4つの分類でアニミズム以外についてもお聞きしておきたいのですが、集団をそのまま動物の名で呼ぶトーテミスムは、動物との間に身体性と内面性の両者で連続性を認めるということですか。

 その通りです。そして、その真逆で、身体性も内面性もどちらも非連続なのがナチュラリズムです。

――自然と完全に断絶しているのがナチュラリズムなんですね。

 これは人間以外の存在を材料や機械と捉える西洋の自然観です。

――最後に、身体性は連続で内面性は非連続なのがアナロジズム。アナロジー(比喩)なので、身体的あるいは物質的に共通している部分を認めるわけですね。

 そういうことです。こういったことをデスコラは『自然と文化を越えて』という本の中で精緻に体系化しています。