イメージとは何か

――今日は人間にとってイメージとは何かというテーマでお聞きしていきたいのですが、「イメージ」ってわりといろんな場面で使われる言葉ですよね。写真やイラストを指すこともあれば、「日本人のイメージ」だったり、「イメージできる」のように動詞的に使われることもあります。なのでまずは、イメージという言葉の定義を教えていただけますか。

 それについては「イメージ人類学」を構想したハンス・ベルティングの定義がいちばんわかりやすいと思います。ベルティングによると、イメージというのは、それを介してそこにないものを呼び起こしてしまう媒体です。たとえばネコの画像を見ると、目にしているのはスマホやパソコンの無機的な画面なのに、私たちはそこにそのネコの存在を見てしまう。ここで重要になるのが「アニメーション」という概念です。アニメーションというと普通はアニメ映画のような映像技術を思い浮かべますが、ベルティングによればそれは対象にアニマ(ラテン語で「生命」や「魂」の意)を付与する行為のことで、つまりイメージとはアニメーションを引き起こす媒体だということになります

―― 一種のアニミズムですか?

 その通りです。アニメーションとアニミズムはつながっていて、要するに生きていないものを生きているかのように見てしまうことです。

――それを引き起こすものがイメージ。

 私なりの解釈も入っていますが、ベルティングは大体そういうことを言っています。

表象の世界へ

――それを踏まえてということになりますが、ジャック・ラカンは主体の形成には自己イメージが不可欠だと言っています。ラカンによると、幼児は生後6カ月から18カ月頃に、鏡に映る自分の姿を見てそれが自分だと認識し(鏡像段階)、そこから自我が芽生えるとのことですが、自己イメージを持つことがなぜ主体の形成につながるのでしょうか。

 それについてはピエール・ルジャンドルという法制史家・精神分析家で人類学者の議論が参考になると思います。ルジャンドルは「イメージ」や「表象」という言葉をあまり区別なく使っているのですが、人間というのは表象の世界に生きていて、つまりは表象しか見ていないんだと言います。

 この表象には視覚的なものだけでなく言語も含まれていて、たとえば私がこの机を見た瞬間に「机だ」と思ってしまうのは、机という表象にとらわれているからです。もし仮に机という表象を持たない状態で、たとえば生まれてすぐに「これ」を見たとしたらまったく違うように見えていたかもしれません。しかし今となってはもう「机」としてしか見ることができない。

――表象以前には戻れないと。

 私たちが知覚する世界はすべてが表象で完結している。机だとか、壁だとか、窓だとか、空だとか……。その表象の世界に入ることが人間になるということであり、そのためのとっかかりが自己イメージの獲得なんです。

――鏡像を自分として認識することは、「自分」という表象を獲得することなんですね。

 ここで注意したいのは、鏡像は自分そのものではないということです。左右は反転しているし、鏡が歪んたり白く濁ったりしていたら当然見え方は違う。にもかかわらず、どんな鏡を見ても瞬時に自分だと思うのは、私たちがまさに表象の世界に生きているということであり、そこから抜け出せない運命にあるということを意味しています。

 一方で、表象の世界に生きているからこそ、私たちは意思の疎通ができる。みんなが机と呼んでいるものを、私だけ別の呼び方をするというのは認められない。呼ぶこと自体はもちろん自由ですけど、他の人と話は通じませんよね。それが社会性ということであり、そこには法律や制度の問題が全部関わってくる。つまりこれは「机」ではり、鏡像は「自分」であると認識することが、社会的な人間であることの条件になっているんです。


――変な話ですけど、鏡がなかった時代っていうのはどうだったんですか。

 鏡がなくても、それこそナルキッソスの神話のように水面に映るということはあるでしょうから、何らかの形で自己イメージを獲得することができていたと思います。一方で、そういう文化的、あるいは技術的な違いによって、自己認識の仕方が異なるということはありえます。ルジャンドルも、表象の世界に入るということ自体は人類共通だとしても、その入り方は文化によって異なるのだという話をしています。

――水面なのか、鏡なのか、スマホの画面なのかってことですね。ただ、いずれにしても、そこで獲得される自己イメージが表象の世界への第一歩であると。

 「第一歩」と言ってしまうのは少し語弊があって、表象の世界にどうやって入ってきたかというのは実はわからない。入る前の自分がどうだったのかを思い出そうとしても、入る前にはその自分がそもそもない。なので、この議論自体がある種のフィクションというか神話でしかありません。逆に言えば人間には常にそのような「第一歩」についての神話がつきまとっているということです。

――幼児のある段階で表象の世界に入り、それからずっと表象の世界に生きているということは、私たちが知覚するものは、自分も含めて、すべてがイメージだということになるのでしょうか。なんか、カントの現象界と物自体の議論みたいになるかもしれませんが、イメージじゃないものは、仮に存在していたとしても、私たちには知覚できない?

 難しい問題ですが、これには西洋の価値観が関係していて、西洋では伝統的にイメージを軽視する傾向があると思います。アニミズムが、19世紀にこの概念を提唱したエドワード・B・タイラー自身によって未開社会の劣った思考段階とみなされたように、アニミズムや「アニメーション」、そしてそれを引き起こすイメージは単なる「フィクション」であり、そうではない現実や本質があるのだと考えられがちです。

 私に言わせればそれすらもイメージ、「イメージではないものがあるというイメージ」に過ぎないと思うのですが(ルジャンドルは西洋文化が「自らをフィクションとは認めないフィクション」である、というような言い方をします)、いずれにしても、イメージの先には本質のようなものがあるのかどうかを議論しても、建設的な議論にはならない気がします。重要なのは、西洋でもどこでも、主体化が鏡像のようなイメージを介してなされているということ、そして今日の私たちもやはり、イメージを介して「アニメーション」すなわち無生物をあたかも生きているように見てしまっているのだということを、あらためて認識し直すことだと思います。

主体との関係

――いまお聞きして思ったのは、イメージは独立して存在しているのではなく、それを見る主体とセットになっているというか、それをまさに「イメージ」として捉える主体との関係の中に位置づけられるものなのかなと。

 まさにその通りです。イメージはイメージだけでは存在しないというのは、近年のイメージ研究の前提になっています。以前は絵画にしても彫刻にしても作品そのものが研究対象であり、見る側のことはほぼ考慮されていなかった。あくまでも作品ありきだったわけですが、最近では見るということがそのイメージの本質に関わっているというか、見ている側の問題も含めてイメージを考えるという流れになってきています。

――それで、アニメーション=生気を付与するという話になるわけですね。

 そうですね。見られることではじめてイメージはイメージになる。パソコンやスマホ画面の電子素子に私たちが「魂」を吹き込むことで、初めて、ネコのイメージが立ち上がるわけです。