1300年前後に絵画に大きな革新をもたらしたジョットが登場した後、フィレンツェから 60キロ程離れたシエナでは、ロレンツェッティ兄弟やシモーネ・マルティーニがジョットの様式を基盤に、様々なアイデアを加えた独特な表現を行っていきました(第31~35回コラム参照)。それに対してルネサンス絵画の誕生の地、フィレンツェでは1330年以降、どのような展開がなされたのでしょうか。
今回はジョット工房で長年、第一助手を務めていたとされるタッデオ・ガッディの作品を中心に、14世紀のフィレンツェ絵画の状況を概観していきます。
バロンチェッリ礼拝堂の壁画
フィレンツェの有力な金融業者バロンチェッリ家は一族の魂の救済のために、1328年、サンタ・クローチェ聖堂内に礼拝堂[図1]を創建しました。

それに合わせてジョットに祭壇画を委嘱したのです。現在も礼拝堂内に置かれている《聖母戴冠》は、ジョットの署名が作品中に銘記されている数少ない板絵ですが、実際にはジョットの弟子たちによって制作されたと考えられています。60歳を過ぎた師匠は実制作をほとんど行わなくなっていたようです。
そのような状況の中、堂内の壁面装飾は弟子のタッデオ・ガッディによって、1328年から1330年代半ばにかけて行われました。祭壇後方の壁面では、上層に《受胎告知》と《エリザベツ訪問》が配され、それに続いて中層と下層には、イエスの降誕をめぐる「幼児キリスト伝」が展開しています。
一方、左側壁[図2]には福音書には言及されていない「受胎告知」以前のマリアの物語が表されています。そのエピソードは聖書外典(ヤコブ原福音書、偽マタイ伝、聖母誕生伝)に記されていますが、それらを1260年代に編纂した『黄金伝説』をこの時代の画家たちは主に参考にしたのでしょう。

このように「受胎告知」を軸に、その前後のマリアに関するエピソードを展開していく空間構成は、ジョットがパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂で実践していますが(第28回コラム参照)、弟子のタッデオ・ガッディはそれを本礼拝堂で応用したのでしょう。というのも、ここはスクロヴェーニ礼拝堂同様、「受胎告知」に捧げられているからです。
マリアの両親であるヨアキムとアンナの物語の内容については、すでに第29回のコラムで触れているので、ここではその要旨を簡単におさらいしておくことにとどめましょう。
ガリラヤ地方のナザレに住むヨアキムはユダヤ教の「仮庵の祭り」の際に、親族と共にエルサレムに赴きました。しかしながら神殿では彼の捧げ物は受け取りを拒否されてしまいました。というのもヨアキムは既婚者であるにもかかわらず子供がいなかったため、神に呪われた者と見なされたからです。
ショックを受けたヨアキムは家に帰ることができず、自分が雇っていた羊飼いのもとに身を寄せました。そして自からの手で羊を神に捧げると天使が現れ、その捧げ物は神によって受け入れられたと伝えたのです。
さらに天使はヨアキムに対し、エルサレムへ行きアンナに再会することを命じるととともに、ふたりの間にようやく娘ができることを告げました。アンナもナザレの自宅で同様のお告げを天使から受け、ふたりは数か月ぶりにエルサレムの金門で再会し、その後、神の言葉通りに、夫婦の間に娘マリアが誕生したのです。
バロンチェッリ礼拝堂の左側壁[図3]では、上層に《神殿から追放されるヨアキム》と《ヨアキムへのお告げ》、そして中層に《金門での再会》と《マリアの誕生》が表されています。さらに下層には、3歳のマリアがエルサレムの神殿にあずけられることになった《マリアの神殿奉献》と、10代前半のマリアがヨセフと婚約する《マリアの婚約》が描かれています。

この6場面の内、今回、取り上げるのは中層の左側に配された《金門での再会》[図4]です。

師匠と弟子の違い
背景には城壁を伴うエルサレムの街が表され、右側の金門の前ではアンナと3人の召使いたちがヨアキムを迎えています。そこに左側から羊飼いを連れたヨアキムが現れ、夫婦は再会を喜び合います。主役の2人は画面の中央に置かれ、脇役たちはその左右に配されており、バランスの良い構図になっています。ですが、こうした安定性ゆえに、画面から動的要素が消えてしまっているのです。
タッデオ・ガッディは本壁画を描く際に、師ジョットの同主題作品[図5]を参考にしたはずです。そこでは、弟子の壁画には見られない明確な動きが感じ取れます。

羊飼いの身体が画枠によって一部切り取られていることで、ヨアキムがエルサレムの街にようやく到着したという雰囲気が創出されています。反対側では、召使いたちが微笑みながら、まさに金門を通り過ぎているところを表すことで、アンナ一行が勢いよく城内から出てくる様子が伝わってきます。こうした左右からのエネルギーが橋のたもとでぶつかり合う構図にすることで、画面全体に緊張感が生み出されているのです。
ヨアキムとアンナの抱き合うしぐさも、タッデオ・ガッディの壁画では久しぶりの再会をふたりが歓喜しているようには感じられません[図6]。妻が夫の頭を抱え込み、しっかりと唇を合わせるジョットの描写こそ、両者の一体感を高め、この後にマリアが誕生することを予感させるのです[図7]。

[図7]図5の細部(右)
タッデオ・ガッディは1330年以降、フィレンツェ美術界では第一人者となりますが、彼は師匠の秀逸な表現を上回ることができませんでした。美術史を変革するほどの才気溢れる師匠と比べてしまうと、弟子がいかに凡庸であったのかが分かるのです。
ある美術作品に対して、その好き嫌いを聞かれたら、誰もが即座に答えることができるでしょう。ですが作品の質に関してはそう簡単ではありません。なぜならそれは相対的なものであり、他の作品と比較する必要があるからです。つまりタッデオ・ガッディの《金門での再会》における作品としての質を問われた際、この壁画だけを何時間も凝視していても答えは出ません。同主題のジョットの作品と比較してはじめて、判断することが可能となるのです。
聖母子像における違い
師と弟子の能力の違いは、伝統的な祭壇画でも見て取れます。現在、ウフィツィ美術館に所蔵されているタッデオ・ガッディの作品[図8]は、元々、フィレンツェの南40キロ程にあるポッジボンシのサン・ルッケーゼ聖堂に飾られていました。玉座の足台にはフィレンツェの名家セーニ家の紋章とタッデオ・ガッディの署名が、その下の赤い床に年記(1355年)と依頼主名(ジョヴァンニ・セーニ)が記されています。
1340年代後半、ペストがヨーロッパ中で流行し、各地で猛威をふるいました。フィレンツェでも1348年に壊滅的な打撃を受け、流行前は10万人前後だった人口が半減したということです。したがってこの祭壇画は、ペスト流行直後のフィレンツェ絵画の動向を知り得る重要な作品と言っていいでしょう。その特徴を浮き彫りにするために、師匠のジョットが約50年前にフィレンツェのオニサンティ聖堂のために描いた《荘厳の聖母》[図9]と比較してみることにしましょう。

[図9]ジョット 《荘厳の聖母》 1305-10年 フィレンツェ ウフィツィ美術館(右)
このジョットの祭壇画が当時、いかに革新的であったかということは、以前、検証しました(第27回コラム参照)。「玉座の聖母子」という主題は6世紀に図像が確立されましたが、それはイエスやマリアの神性を強調する表現でした。つまり彼らから人間らしさをあえて消し去るように描いていたのです。
13世紀まで続いていたこの表現を大きく変革したのがジョットでした。彼は人物像に明確な彫像性を与え、顔を柔和な表情にすることで、聖なる者に人間らしさを与えようとしたのです。さらに周囲の天使の視線が聖母子に向くように、何人かの天使をプロフィール(真横向き)で表しています。中世美術では、聖なる者は両目を描くことが基本であったので、この顔の向きも革新的でした。
一方、空間表現に眼を向けると、主役の聖母子像の前後に天使や預言者を配すことで、画面に奥行きを創出しています。また玉座をゴシック建築様式で表すことで、空間全体に現実性と同時代性を与えていることも中世の聖母子像には見られなかった表現です。
この革新的な祭壇画に対して、弟子のタッデオ・ガッディは何か独自の工夫を加えているのでしょうか。イエスは祝福のポーズを取っているわけではなく、自身の十字架上での死を象徴するヒワをつかんでいます[図10, 11]。とはいえ、イエスやマリアが悲しみや戸惑いの表情を浮かべているわけではなく、ジョットが創始した顔のタイプをほぼそのまま継承しているだけです。

[図11]図9の細部(右)
また聖母子の衣には細密な金の装飾文様が施されていますが、このことにより彼らの彫像性は失われてしまっています。同様のことは手前に配された天使にも言えるでしょう[図12, 13]。したがってジョット以上に、人間らしい聖母子像が表されているわけではありません。

[図13]図9の細部(右)
では、空間表現はどうでしょうか[図8, 9]。

[図9]再掲(右)
ジョットと同様、脇役の天使を聖母子の周囲に配してはいますが、師の祭壇画ほどは奥行きが感じ取れません。それは聖母子の後方に置かれていた天使や預言者を省いてしまっているからです。つまりジョットの祭壇画では、脇役たちが主役をしっかり取り囲み、前景、中景、後景が明確に感じ取れたのに対し、ガッディの作品では後景が表されていないのです。また玉座はジョット同様、同時代のゴシック建築様式で描かれていますが、その表現は明らかに師と比べると簡略化されています。
ヴァザーリの『美術家列伝』(1550/1568年)によると、タッデオ・ガッディは「ジョットが亡くなった後、その判断力と才能ゆえに絵画における第一人者となり、すべての弟子たちのなかで一頭地を抜いていた」(訳:谷古宇尚・森田義之)ということです。しかしながら、実際に師と弟子の作品を比較してみると、ふたりの間には技術的な面以外に、発想力や構成力、さらには絵画表現に対する執着といった点で、明確な違いがあったように思えます。
世紀末の状況
ペスト流行後のフィレンツェにおける経済と文化の停滞は、14世紀末になっても続いていました。そのことは1391年の年記とスピネッロ・アレティーノの署名が記された三翼祭壇画[図14]が示しています。

この作品はもともとルッカ(フィレンツェの西約80キロの都市)のサンタンドレーア聖堂に置かれていました。スピネッロはアレッツォ出身の画家ですが、1384年以降はフィレンツェに滞在し、サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂(1387-88年)やサンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂(1387-91年)の壁画を制作しています。
この祭壇画の中央パネルには「玉座の聖母子」[図15]が表されていますが、その図像と様式はジョットやタッデオ・ガッディから引き継いでいることは明白です。しかしながら、タッデオ・ガッディの板絵[図8]と比べてみると、作品の質がさらに低下していることが認められます。

[図8]再掲(右)
頭部はジョットやガッディのタイプを繰り返しているに過ぎず、人物像の彫像性はさらに失われています。玉座はより一層、簡略化され、天使は上方に浮遊しており、3次元的な空間性を創出することに役立っていません。
こうしてみると、美術表現とは単に芸術家個人の能力に由来するのではなく、社会情勢や経済状況と密接に結びついていることがあらためてわかります。13世紀後半に一気に経済的繁栄を遂げ、1300年前後に他のどの都市よりも早く、伝統的な中世美術からの脱却を成功させたフィレンツェも、ペスト流行後の14世紀後半における衰退は目を覆うばかりです。この危機をフィレンツェ美術はどのように克服していったのでしょうか。次回は新たな変革の始まりを見ていこうと思います。
講演会のお知らせ「レオナルド・ダ・ヴィンチにしか描けなかった“顔”」
講師:松浦 弘明(多摩美術大学 教授)
日時:10月31日(土)14:00~15:30(13:30開場)
会場:国立新美術館 3階 講堂
定員:250名(申込不要)
