13世紀末に登場したジョットは、14世紀の画家たちに大きな影響を及ぼします。なかでもロレンツェッティ兄弟は、ジョットの様式や図像を模倣するだけではなく、そこに新たな要素を加えて、独自の表現を確立させていきました(第31~34回コラム参照)。こうして数多くの美術家が写実的な表現へと向かうなか、その動向に疑問を抱いた画家がいます。それはロレンツェッティ兄弟と同様、シエナ出身のシモーネ・マルティーニです。

サン・フランチェスコ聖堂の壁画

 シモーネ・マルティーニ(1284年頃-1344年)はドゥッチョの工房で修行した後、1310年頃から画家としての活動を開始しました。1315年にシエナ政庁舎(パラッツォ・プッブリコ)の評議会室に《荘厳の聖母》を描いた後、アッシジに赴き、サン・フランチェスコ聖堂のマルティヌス礼拝堂[図1]を装飾したのです。

[図1]アッシジ サン・フランチェスコ聖堂マルティヌス礼拝堂

 それはピエトロ・ロレンツェッティが同聖堂下堂の左翼廊に「キリスト受難伝」連作を描いていた時期と重なります。

 堂内に表された「聖マルティヌス伝」連作の内、《聖マルティヌスの埋葬》[図2]を見てみましょう。この聖人は4世紀末にトゥールの近郊、カンデで没したのですが、本壁画では、完全に14世紀の空間として再現されています。

[図2]シモーネ・マルティーニ 《聖マルティヌスの埋葬》 1310年代後半

 というのも、星空が描かれたリブ・ヴォールト(肋骨穹窿)や細かく分割された尖頭アーチの窓は、ゴシック建築の典型的な特徴だからです。そしてこの建物が画面中央からの視点に基づいて遠近法的に再現されているので、聖人の埋葬がまるで同時代の聖堂内で繰り広げられているかのように見えるのです。

 一方、人物像に目を向けると、横たわる聖マルティヌスの遺体やミサを執り行う聖アンブロジウスをはじめとして、しっかりとした彫像性を携えています。また画面中央付近で燭台を持つ2人の助祭は、天を見上げながら驚きの表情をしていますが、彼らには天に昇っていく聖人の魂が見えているのかもしれません。

 こうした現実的で同時代的な空間や、彫像的で感情を明示する人物像の表現は、明らかにジョットから直接的な影響を受けていることを示しています。つまりこの連作を制作していた1310年代においては、シモーネもロレンツェッティ兄弟同様、ジョット様式に従っていたと言えるでしょう。

後期の代表作

 ところがアッシジの壁画から15年程後に、シモーネ・マルティーニがシエナ大聖堂の聖アンサヌスに捧げられた祭壇のために手掛けた作品[図3]では、様式がかなり変化してきたことがわかります。

[図3]シモーネ・マルティーニとリッポ・メンミ 《アンサヌス祭壇画》 1333年 フィレンツェ ウフィツィ美術館

 シモーネ・マルティーニとリッポ・メンミの署名、および1333年の年記が施されたこの祭壇画は、左翼パネルに聖アンサヌス、右翼パネルに聖女マルガリータ、そして中央パネルには受胎告知が描かれています。そのうち中央部[図4]は、一般にシモーネの手に帰せられ、彼の後年の代表作とされています。

[図4]シモーネ・マルティーニ 《受胎告知》 1333年 フィレンツェ ウフィツィ美術館

 そこでこの《受胎告知》に絞って、図像と様式の特徴を見ていくことにしましょう。

「受胎告知」における図像と様式の変化

 神から遣わされた大天使ガブリエルがナザレに住むマリアにお告げをするエピソードは、『ルカによる福音書』(1:26-38)の記述に基づけば、以下の3段階に分けられます。

(1)大天使ガブリエルはマリアに対して、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と挨拶するのですが、マリアはそれがどういう意味なのかわからず戸惑います。

(2)するとガブリエルは「恐れることはない」と言った後、「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げます。それに対して処女マリアは、そのようなことはあり得ないと反論します。

(3)そこでガブリエルは、受胎は聖霊によってなされるので、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」とし、「神にできないことは何一つない」と語ります。するとマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と、大天使のお告げを受け入れるのです。

 すでに第28回のコラムで紹介したように、ダフニ修道院(11世紀末)を始めとする中期ビザンティン美術では、上記の第1段階を視覚化しており、その影響を受けた13世紀のシエナでも、グイード・ダ・シエナの板絵[図5]に見られるように、マリアは戸惑いの表情をしつつ大天使から逃れるようなポーズを取っています。

[図5]グイード・ダ・シエナ 《受胎告知》 1270年頃

 このような中世の伝統的な図像は、ジョットによって大きく変更されます。スクロヴェーニ礼拝堂の凱旋アーチに描かれた《受胎告知》[図6]では、マリアはひざまずき、両手を胸の前で交差させており、明らかに第3段階を視覚化しています。

[図6]ジョット  《受胎告知》 1303-05年 パドヴァ スクロヴェーニ礼拝堂

 ジョットが変えたのは図像だけではありません。ガブリエルとマリアは奥行きのあるゴシック建築の室内に置かれ、彼らは豊かな彫像性を備えています。まさにこのフィレンツェの画家から「受胎告知」におけるルネサンス的な表現が始まったと言えるでしょう。

ロレンツェッティ兄弟による《受胎告知》

 ピエトロ・ロレンツェッティはシエナの画家ですが、アッシジの壁画(第31~34回コラム参照)で認められるように、ジョットから大きな影響を受けています。彼の《受胎告知》[図7]では、マリアが右手を胸のあたりに置くという第1段階の要素を残してはいるものの、大天使に対して前傾姿勢を取り、彼の言葉を受け入れているように見えます。ふたりの衣は肉体をしっかりと内包しているように表され、明確な存在感が提示されています。

[図7]ピエトロ・ロレンツェッティ 《受胎告知》 1320年  アレッツォ ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア聖堂

 またマリアの家は人物像に比べると小さすぎますが、壁面に装飾が施され、同時代の民家のように表されています。そのため当時の人々には、この聖なる場面が身近で行われているかのように思えたことでしょう。

 ジョットの革新的な表現をピエトロ・ロレンツェッティ以上に的確に理解したのは、弟のアンブロージョです。彼が1344年にシエナ政庁舎のために制作した祭壇画[図8]では、マリアは両手を胸の前で交差させて天を見上げていることから、スクロヴェーニ礼拝堂壁画[図6]同様、「受胎告知」の第3段階を表していることがわかります。

[図8]アンブロージョ・ロレンツェッティ 《受胎告知》 1344年 シエナ 国立絵画館

 そのことは大天使ガブリエルとマリアの間に刻印された文字からも明らかです。そこには、“NON ERIT IMPOSSIBILE APUD DEUM OMNE VERBUM”( 神にできないことは何一つない)という大天使が最後に発した言葉が記されているからです。

 ここには建築モティーフそのものは表されていませんし、ふたりの人物像の背後は金地になっていますが、中世の非現実的な空間を感じ取ることはありません。というのも、上方の半円アーチによる額縁が建築モティーフに見立てられ、床が遠近法的に処理されているからです。そのため明確な奥行を持つ室内が再現され、金字背景は部屋の奥の壁のように見えます。

シモーネ・マルティーニの《受胎告知》

 このようにジョット登場以降、画家たちは「受胎告知」の第3段階を、彫像的な人物像で表すことを目指したのです。そのような状況の中、シモーネ・マルティーニは明らかにこの流れに逆らう傾向を示しています。

[図4]再掲

 大天使ガブリエルから発せられている言葉は、“AVE GRATIA PLENA DOMINVS TECVM” (おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる)と記されており[図9]、このことからシモーネは中世の図像に従って、第1段階を表していることがわかります。

[図9]図4の細部

 実際にガブリエルを避けるように身をよじらせているマリアのポーズや、戸惑いや怖れを示す表情は、ジョットの描いている聖母とは大きく異なります[図10]

[図10]左:図4の細部   右:図6の細部

 また彼女の体は細長く引き伸ばされ、頭部が小さいため、その優美さが強調されています。またマントは均一に彩色が施されているため、縁の金線の織り成す曲線の美しさが際立っています。

 一方、大天使ガブリエルに目を向けると[図11]、衣や翼、風に舞うマントに細密な装飾が施されているため、ジョットの描く人物像に見られるような彫像性はほとんど示されていません。その代わりに、聖なる人物ならではの壮麗さが強く感じ取れるのです。

[図11]左:図4の細部   右:図6の細部  

 では、この理想化されたふたりの像を取り囲む空間はどのように描かれているのでしょうか。背景は中世絵画にしばしば見られる金地背景になっていますが、床の大理石文様は写実的に再現され、奥の方は手前に比べると色調が濃くなっています。また額縁の三連アーチは建築の一部のようであるため、この場面が室内で行われているように感じられるのです。

[図4]再掲

 つまり前述したアンブロージョ・ロレンツェッティの祭壇画[図8]につながるような特徴がすでに確認できます。

 こうした現実的な要素は、マリアの座す玉座や、床に置かれた花瓶の表現にも明確に提示されています。聖母像のかたわらに彼女の処女性を象徴する白百合を花瓶と共に表すことは、ジョットも《荘厳の聖母(オニサンティの聖母)》(第27回コラム 図6)で行っていますが、シモーネが描いている百合や花瓶は、ジョット以上に写実的であることがわかります[図12]

[図12]左:図4の細部   右:ジョット《荘厳の聖母》の細部

 シモーネは空間や静物に関しては、時代の流れに従った表現を実践していますが、その一方で人物像については、ジョットやロレンツェッティ兄弟の手法に対し、明確な疑問を抱いていたのではないでしょうか。彼はこの祭壇画を通して、人々に問いかけているかのようです。「神の使いや神の母から聖性や優美さを奪うべきではないのではないか」と。

 この祭壇画を完成後、1330年代後半にシモーネ・マルティーニは、教皇庁のあるフランスのアヴィニョンへと活動の拠点を移します。その理由は明確になっていませんが、自身の優美な表現が、ルネサンスの発祥の地では受け入れられないと感じ取ったからかもしれません。

 彼は1344年に没するまで、教皇庁のために数多くの作品を制作したとされるのですが(現存作はわずか)、理想化された聖人の表現と、写実的な静物や奥行をもつ空間表現を融合させた独自の様式は、14世紀後半、この都市からヨーロッパ中に広まり、それを「国際ゴシック様式」と呼ぶようになるのです。