700年以上続いた中世美術を大きく変革し、ルネサンスへの扉を開いたのはフィレンツェの画家ジョットであり、彼の描いた聖母子像が当時、いかに革新的であったかということを前回のコラムで確認しました。今回から数回に渡って、この画家が手掛けたスクロヴェーニ礼拝堂の装飾を見ていきましょう。

礼拝堂の建造とジョットへの依頼

 北イタリアの都市パドヴァの資産家エンリコ・スクロヴェーニは1300年、古代ローマ時代の円形競技場があったアレーナ地区に土地を購入し、自邸に隣接する場所に礼拝堂[図1]を建造させました。

[図1]スクロヴェーニ礼拝堂 1305年献堂 パドヴァ

 当時、富裕な一族が教会内に礼拝堂を設けることはありましたが、スクロヴェーニ礼拝堂のように独立した建造物(内部の大きさ:奥行20.8m、幅8m、高さ10m)として建てられることはきわめて珍しいことです。

 エンリコが大金を投じてでも立派な礼拝堂を建てさせたのは、高利貸であった父レジナルドの罪を贖うためであったと言われています。というのはキリスト教社会では、貸し付けた金の利子で儲ける一方で債務者を苦しめる高利貸は、「最後の審判」の際に地獄に落とされると考えられていたからです。実際、本礼拝堂の建造と同時期にダンテによって著された『神曲』の地獄篇(1304-09年頃)においても、第17歌にレジナルドを想起させる高利貸についての記述があります。エンリコは来るべき「最後の審判」に備えて、父レジナルドの贖罪と一族の魂の救済のために本礼拝堂を建造させたのでしょう。

 献堂式は1305年3月25日に執り行われていることから、おそらく1300~1303年頃に建物が建てられ、その後、1305年までに内部の壁画がジョットによって描かれたと考えられています。その壁画群はルネサンス絵画の幕開けを告げた装飾として、美術史的にきわめて重要です。

 その一方で、これだけ大きな規模の仕事を、なぜスクロヴェーニ家があえてフィレンツェの画家に委嘱したのかはわかっていません。エンリコがフィレンツェで活躍していたジョットの才能にいち早く気づいて、彼を招いたのかもしれません。あるいはジョットをパドヴァに招聘(しょうへい)したのはこの都市のフランシスコ修道会であった可能性もあります。彼らはアッシジのサン・フランチェスコ聖堂におけるジョットの仕事(1290年代)を評価して、パドヴァのサンタントーニオ聖堂(聖フランチェスコが信頼していた聖アントニウスの遺体を聖遺物として所蔵)を飾る作品を依頼していたのかもしれません。いずれにしてもジョットは2年程パドヴァに滞在し、壮大な構想のもとにスクロヴェーニ礼拝堂の壁画を描いていったのです。

装飾の概要

 献堂式が執り行われた3月25日は「受胎告知の祝日」であることから、この礼拝堂は「マリアの受胎告知」に捧げられたと考えられています。実際に正面入口から堂内に入ると、最初に目に飛び込んでくるのは凱旋アーチ上部の大壁面[図2, 3]で、そこには《マリアのもとに大天使ガブリエルを遣わす神》[図4のn.13]と共に《受胎告知》[図4のn.14]が描かれています。

[図2]スクロヴェーニ礼拝堂内観(左)
[図3]凱旋アーチ上部の壁面(右)

[図4]スクロヴェーニ礼拝堂見取り図

 側壁の連作はこの《受胎告知》を軸に展開しており、上層には「受胎告知」以前のマリア伝(図4のn.1~12)が、中層と下層には「受胎告知」以後のキリスト伝(図4のn.15~38)が表されています。いずれの層でも、右側壁では祭壇側から入口側へ、左側壁では入口側から祭壇側へとエピソードが順に進んでいきます。つまり聖書や外典に記された40程のエピソードは、右側壁上層の祭壇近くに配された《神殿から追放されるヨアキム》[図4のn.1]から始まり、左側壁下層の祭壇寄りの《聖霊降臨》[図4のn.38]で一旦、終結し、そのまま天井の《天上のキリスト》[図4のn.42]へと続き、最終的には入口上の大壁面に表された《最後の審判》[図4のn.44]で完結するのです。

 これらの壁画群の内、今回は連作の軸になっている《受胎告知》を中心に見ていきます。

聖書の記述とジョット以前の表現

 まずは聖書の記述を確認することから始めましょう。「受胎告知」について記されているのは『ルカによる福音書』(1:26-38)です。それによると神に遣わされた大天使ガブリエルがナザレに住むマリアのもとを訪れ、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と告げるのですが、マリアは何の挨拶かわからず戸惑います。するとガブリエルは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と神の子の出産を予言します。

 それに対し彼女は、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と反論します。そこでガブリエルは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と語ったので、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と応えるのです。

 このように「受胎告知」はマリアの反応によって、戸惑い、反論、受け入れといった具合に3段階に分けられます。中世の東ローマ帝国における「受胎告知」の基本的な表現は、ダフニ修道院中央聖堂のモザイク(11世紀末)[図5]に見て取れます。そこでは祝福を与えているガブリエルに対して、玉座に腰かけたマリアは右手を胸のあたりに置き、戸惑っているように見えます。

[図5]《受胎告知》 11世紀末 ダフニ修道院 中央聖堂

 こうしたビザンティン美術の影響を強く受けた12世紀のシチリア王国の聖堂装飾、例えばパレルモの宮廷礼拝堂(1140-70年頃)やモンレアーレ大聖堂のモザイク(1180年代)[図6]でも、明らかに「受胎告知」の第1段階が視覚化されています。

[図6]《受胎告知》 1180年代 モンレアーレ大聖堂

 そしてその図像伝統がジョットと同時代でも続いていることは、ローマのサンタ・マリア・イン・トラステーヴェレ聖堂のカヴァッリーニによるモザイク(1296-1300年頃)[図7]で確認できます。

[図7]ピエトロ・カヴァッリーニ 《受胎告知》 1296-1300年頃 ローマ サンタ・マリア・イン・トラステーヴェレ聖堂

《受胎告知》の表現から推察されるジョットの思考

 ではスクロヴェーニ礼拝堂に描かれているジョットの《受胎告知》[図8]はどうなのでしょうか。

[図8]ジョット 《受胎告知》 1303-05年頃 パドヴァ スクロヴェーニ礼拝堂

 ガブリエルは跪きながら祝福を与え、マリアは両手を胸の前で交差させて大天使の言葉をしっかりと受け入れています。この図像は中世の先行作例とは明らかに異なり、第3段階の「受け入れ」を表しているように思われます。

 なぜジョットはこのような変更を行ったのでしょうか。いくつか考えられる理由のひとつとして、この画家がアーチによって左右に大きく離されているガブリエルとマリア[図3]の間に緊密な関係を作ろうとしたことが挙げられます。

 《受胎告知》の全体像を見ようとすると、祭壇から数メートル離れた地点に立たなければなりません。それはちょうど礼拝堂の中央付近ということになるでしょう[図9]

[図9]礼拝堂中央付近から見た凱旋アーチ

 そこから凱旋アーチ全体を俯瞰してみると、下層部に描かれた建築モティーフ[図10]は、明らかにこの場所から見られることを想定して表されていることがわかります。まさにこの地点から見ると、遠近法の効果で内陣(プレスビテリウム)側に空間が広がっているように見えるのです。

[図10]ジョット 建築モティーフ 1303-05年頃 パドヴァ スクロヴェーニ礼拝堂

 同様にこの地点から中層を見ると、全く異なる主題である《ユダの裏切り》[図11]と《マリアのエリザベト訪問》[図12]が関連付けられていることに気づきます。どちらの場面でも主役の2人(ユダと祭司、エリザベトとマリア)は鮮やかな黄と赤の衣を、傍らにいる脇役は緑と青の衣をまとっています。

[図11]ジョット 《ユダの裏切り》 1303-05年頃 パドヴァ スクロヴェーニ礼拝堂(左)
[図12]ジョット 《マリアのエリザベト訪問》 1303-05年頃 パドヴァ スクロヴェーニ礼拝堂(右)

 このような共通する色面構成や右側に建築モティーフを配す構図の類似性が、離れているふたつの壁画を結び付けているのです。さらに両壁画には、主題の面でも「出会い」という共通の要素があることに気づきます。ただし前者はイエスを死に導く「悪人の出会い」であり、後者はイエスと洗礼者ヨハネの誕生へとつながる「善人の出会い」という、正反対の性質を持ってはいるのですが。

 では上層の大天使ガブリエルとマリアに密な関係性を創出するために、ジョットはどのような工夫をしたのでしょうか。

[図8]再掲

 まず彼は同一の建築モティーフをどちらの画面にも表し、その室内にふたりを置きました。そして両者を跪かせ、視線を交錯させるためにふたりとも真横向き(プロフィール)で描いたのです。つまりジョットは礼拝堂の中央付近から《受胎告知》全体を見ようとする人の視点を考慮して、左右の対称性を重んじたのではないかと推察できるのです。そのため、彼は中世の伝統的な図像を採用せず、「受胎告知」の第3段階を視覚化したと思われます。

 前回のコラムで、ジョットの革新性は主に彫像的で人間らしい人物表現と現実的で奥行きが感じられる空間表現にあることを検証しましたが、この《受胎告知》[図8]においてもそのような要素は確認できます。ジョットに影響を与えたと言われているカヴァッリーニが制作した同主題作品[図7]でも、人物像の彫像性や同時代の建築モティーフによる3次元的な空間は見て取れます。しかしながら、真横向きの頭部を描くことで人物像どうしを密に結び付けることや、建物が人物を完全に内包するような室内表現は、カヴァッリーニをはじめとする先行作例には見られない要素です。

 これらの革新性に加えてスクロヴェーニ礼拝堂では、訪れた人が各壁画を見る位置をある程度、画家が特定し、そのうえで複数の場面を関連付けて見せようとしているのではないかと考えられます。次回はこの特徴について、本礼拝堂の右側壁上層部に表されているヨアキムとアンナの連作を例に、より具体的にお話ししていこうと思います。