ジョットが1303~1305年頃に描いたスクロヴェーニ礼拝堂の壁画群は、ルネサンス絵画の幕開けを告げる重要な装飾ですが、前回のコラムではそのうち、中心的な役割を果たしている《受胎告知》を取り上げ、人物像や空間の革新的な表現を明らかにしていきました。さらに、この画家は各壁画をどの位置から見て欲しいのかを、ある程度、特定しているのではないかと推察したのです。今回は本礼拝堂装飾の内、最初の6壁画で表されている「ヨアキムとアンナ伝」連作[図1 赤枠]に焦点を当てて、場面間の連続性について考えていきたいと思います。

[図1]スクロヴェーニ礼拝堂見取り図

基になっているテキスト

 聖母マリアの親であるヨアキムとアンナのエピソードは聖書正典にはいっさい記されていません。それは外典にあたる『ヤコブ原福音書』(2世紀末)、『偽マタイ伝』(7~9世紀)、および『聖母誕生伝』(9世紀)に語られているのです。そして12~13世紀に聖母崇拝が高まったこともあり、これらの文書が簡潔にまとめられて「聖母マリアの誕生」にまつわるエピソードとして、『黄金伝説』(1267年頃)に掲載されました。

 これらの内、ジョットがおおよその内容を把握するために活用したのは同時代文献である『黄金伝説』であったように思われますが、以下に示すように『偽マタイ伝』にしか記されていない内容が本礼拝堂には描かれています。画家は本連作を細部まで入念に表すために、この中世の外典からも多くのインスピレーションを得たように思われます。

ヨアキムの捧げ物

 『黄金伝説』によると、ガリラヤ地方のナザレに住むヨアキムとアンナは結婚して20年経っても、子宝に恵まれませんでした。そこで彼らは、もし子供が生まれたら、その子を神に仕える者として捧げることを誓約し、毎年、ユダヤ教の三大祭り(過越祭、七週祭、仮庵祭)の時期にエルサレムを訪れていました。ある年の仮庵祭の際にも、ヨアキムは同族の者たちと共にこの聖都の神殿に行き、供物を捧げようとしました。ところがその様子を見た祭司が怒ってヨアキムを突き飛ばし、祭壇から追い払ったのです。子供がいない者は神の民を増やしていないがゆえに呪われており、そのような者は供物を捧げることはできないというのです。

 第1場面[図2]では、ユダヤ教の神殿はジョットと同時代のキリスト教会における内陣部として再現されています。

[図2]《神殿から追放されるヨアキム》

 主祭壇はチボリウム(天蓋)によって守られ、周囲はイコノスタシス(聖障壁)で囲まれています。その内側ではひとりの男が祭司から祝福を与えられていますが、それはヨアキムの親族だと思われます。どのテキストにも記されていないこの男をジョットが描き加えているのは、供物が拒否された哀れなヨアキムと対比させるためでしょう。祭司によって追いやられた彼は羊を抱えながら、悲痛な表情で祭壇の方を振り返っています。

 この様子を見ていた親族から同様の批判を受けるかもしれないと危惧したヨアキムは、彼らと共に帰ることを拒み、自身が雇っている羊飼いたちのもとに身を寄せることにしました。第2場面[図3]では、頭を垂れて申し訳なさそうに懇願するヨアキムに対して、羊飼いたちは突然の主人の来訪に戸惑っています。その一方で牧羊犬はヨアキムのことを認識し、歓迎しているように見えます。

[図3]《羊飼いのもとに身を寄せるヨアキム》

 このような細やかな感情描写もまた、どのテキストにも記されていません。ジョットがイマジネーションを膨らませて各登場人物に精神性を付与し、この場面をリアリティあるものにしているのでしょう。

 2つの壁画はどちらも主役であるヨアキムを画面の中央には置かず、片方の隅に寄せています。そして第1場面では建築モティーフを左上から右下に向けて斜めに傾け、第2場面では反対に背後の岩山を左下から右上に向けて高くなるように表しています。そのため、それぞれの場面を単独で捉えようとすると、左右非対称でバランスが悪いように感じられるのです。ところがふたつの壁画の中央に立ち、両場面を合わせて見ると様相は一変します。左から右に向かう運動性が明確に感じられ、主役を取り巻くグループは2場面の中心に配されることになり、画面の傾きも左右対称になるからです[図4]

[図4]第1場面と第2場面の関連性

天使からのお告げ

 『偽マタイ伝』によると、ヨアキムが家に戻ってこないまま5カ月が過ぎ、夫は死んでしまったのではないかと考えたアンナは、泣きながら神に祈っておりました。するとそこに天使が現れ、彼女は「すべての者から讃えられる」子供を産むと予言するのです[図5]

[図5]《アンナへのお告げ》

 この幻影を見た後、アンナは「死んだように寝台に身を投げ」、召使いが気を遣って彼女の部屋に入らなかったことが『偽マタイ伝』には記されていますが、ジョットの壁画ではアンナの背後に寝台があり、部屋の外では召使いが糸を巻きながら中の様子をうかがっています。

 さらにこの天使は山中で羊の番をしていたヨアキムのもとにも現れ、アンナが女児を授かったことを告げ、子宝を授けてくれた神に感謝するようにと命じます。そこでヨアキムが「汚れなき子羊」を捧げると、天使は「いけにえの香りと共に、煙に包まれたように空へと昇って」行きました。ジョットの壁画をよく見ると、祭壇の上にすでに骨と化した子羊が置かれ、そこから立ち上る煙の中に天使の姿が確認できるのです[図6, 7]。

[図6]《供物を捧げるヨアキム》(左)
[図7][図6]の細部(右)

 天使のお告げがあったにもかかわらずアンナのもとに戻ることを迷っていたヨアキムですが、眠りに落ちた彼の夢のなかに再び天使が現れ、安心して妻のところへ帰るように告げます。彼は目覚めた後、天使から言われたことを羊飼いたちに話すと、彼らは「神の御使をないがしろにせぬよう気をつけなくては。さあ、起きて、出発しましょう」とヨアキムを促しました[図8]

[図8]《ヨアキムの夢》

 第4場面の天使が煙に包まれて天に上がっていく状況や、第5場面のヨアキムの夢については『偽マタイ伝』のみに記されているので、ジョットがこの文献を参考にしたことは間違いありません。

 第3場面[図5]と第5場面[図8]はどちらも、天使からのお告げを対角線構図で表しているという点で共通します。それぞれ右上から左下、左上から右下に向かう動きが明確に感じられますが、それは単独場面として見た場合、いくぶん不安定な構図のように思われます。それに対して第4場面[図6]は、実に安定した画面になっています。画面右側で大地に立つ天使は左側で跪くヨアキムに祝福を与え、ふたりの上方に置かれた神を象徴する手と合わせて二等辺三角形を形成し、この三者が緊密に結びついていることを感じさせるのです。

 おそらくジョットは第3場面と第5場面もこの第4場面の下から見られることを望んでいたのではないでしょうか。というのもそこから3壁画を合わせて見ると、神を象徴する手のもとからアンナとヨアキムそれぞれに向けて、天使が派遣されているように見え、全体のバランスも整っているように思えるからです[図9]

[図9]第3~第5場面の関連性

ヨアキムとアンナの再会

 『偽マタイ伝』によると、天使から金門に行くように告げられたアンナは、急いで召使いたちと共にそこに赴き、ヨアキムの到着を待ったということです。そして夫の姿を目撃するやいなや彼女は駆け寄って彼に抱きつき、神に感謝して言いました。「私は寡婦でした。もはやそうじゃない。私はうまず女でした。いまやみごもっているの」。その様子を見た周囲の者たちも大層喜んだということです[図10]

[図10]《金門での再会》

 ジョットは金門を画面いっぱいに描き、その手前に橋を設定して、そのたもとでふたりがしっかりと抱き合ってキスを交わすように表しました。画家は左端の羊飼いをフレームで少し切ることで、画面の外から内へ入り込むような動きを創出しています。反対に金門からは、ヨアキムの到着を待ち望んでいたアンナが召使いたちと共に一斉に出てくることで、右上から左下へ向けての運動性が感じられます。こうした左右双方からの動きが、ヨアキムとアンナにおいて激しくぶつかり合うことにより、ふたりの間に実に緊密な関係が生み出されているのです[図11]

[図11]《金門での再会》に見られる運動性

 このヨアキムとアンナの物語におけるクライマックスをジョットは上述した他の場面とは異なり、単独で提示しようとしているように思われます。

 したがって右側壁上層に表されている連作は、第1-2場面、第3-5場面、第6場面と3つのグループで構成されていると言っていいでしょう。それぞれのグループを見る際に立つ位置を変えていくと、画家の意図した物語の連続性をしっかりと感じ取ることができるのです[図12, 13]

[図12]「ヨアキムとアンナ伝」連作における場面間のつながり

[図13]「ヨアキムとアンナ伝」連作を見るための立ち位置

 中世の聖堂装飾では、聖書の内容をできるだけわかりやすく視覚化することを基本としているため、ひとつの場面を隣接する場面と連動させる手法はほとんど取られることがありませんでした。ジョットは単にひとつひとつのエピソードを伝えるだけではなく、物語のスムーズな流れを演出するために、各壁画の構図を工夫しているようです。こうした場面間の連続性もまた、ジョットの革新性のひとつと言えるでしょう。