1300年前後、フィレンツェの画家ジョットによって始まる写実的な表現は、明らかにそれまでの中世美術とは異なり、15世紀に本格化するルネサンス美術の萌芽を示しています。そのため、この時期の様式は一般にプロト・ルネサンスと呼ばれています。それは1310年代に入り、どのように展開していくのでしょうか。スクロヴェーニ礼拝堂装飾(第28~30回コラム参照)で提示された革新的な特徴がいかに継承されていったのかを、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂を飾るピエトロ・ロレンツェッティの壁画で見ていくことにしましょう。
聖フランチェスコとサン・フランチェスコ聖堂
アッシジはローマとフィレンツェの中間にあり、直線距離にするとどちらからも130キロほどのところに位置しています。この町の裕福な商人の息子として生まれたフランチェスコはアッシジ郊外のサン・ダミアーノ修道院に飾られていた十字架像(現在はサンタ・チェチリア聖堂所蔵)から「わたしの家を建て直してください」と呼びかけられて以来、イエスに近づくために徹底的に清く貧しい生活を貫いていきます。こうした彼の姿勢は多くの人々を魅了し、後に彼は “IMITATOR CHRISTI”(キリストに倣う者)、あるいは“ALTER CHRISTI”(第二のキリスト)と見なされるようになりました。
そのようなフランチェスコの身に起きた最も重要な出来事は、フィレンツェから東に65キロほどのラ・ヴェルナ山における「聖痕拝受」です。これは1224年9月14日の「十字架称揚の祝日」に、フランチェスコが山上で祈っていたところ、翼に包まれた人のようなものが天に現れ、それをじっと見つめていたら、両手と両足、脇腹に傷ができたという奇跡です。つまり十字架上でイエスが負ったのと同じ箇所に傷痕ができたということです。こうしてフランチェスコは1226年に亡くなった後、当時としては異例なことにわずか2年で列聖され、その遺体を埋葬するための聖堂[図1]が建てられることになりました。

二階建ての聖堂そのものは1253年に完成するのですが、その後もしばらくの間、内部の壁面装飾はほとんど行われませんでした。というのもフランチェスコ修道会では、「清貧」の実践こそがイエスに近づくための最も有効な手段であると考えられていたからです。
しかしながら、フランチェスコを崇拝する人々が次々と聖堂を訪れるのを見た修道会は、この聖人の偉業を彼らにはっきりと示したいと考えるようになっていきました。修道院長ボネヴェントゥーラによるフランチェスコの伝記、『レゲンダ・マイヨール』が1266年にパリ総会で正式に承認されて以来、その機運はいっそう高まり、1270年頃から聖堂の装飾が下堂(一階部分)の身廊[図2]から始まったのです。
このプロジェクトは1280年前後に上堂(二階部分)[図3]へと移ります。

[図3]サン・フランチェスコ聖堂上堂 内観(右)
まず後陣と左右の翼廊がフィレンツェの画家チマブーエによってなされ、続いて身廊上層部がヤコポ・トッリーティをはじめとするローマの画家たちによって進められていきます。その後、身廊の床に最も近い壁面に「フランチェスコ伝」が28場面で描かれるのですが、この連作の作者と制作年に関しては「アッシジ問題」として長年、学者たちの間で議論されてきました。
それは端的に言えば、作者はジョットなのか否か、描かれたのは1290年代なのか、それとももっと後年なのか、といったことです。前述したフランチェスコ伝のなかでも特に重要な「聖痕拝受」のエピソードは、第19場面[図4]として左側壁に描かれていますが、少なくともこの壁画に関してはジョットの手に帰して良いのではないかと思います。というのもその図像と様式は、ジョットの署名が記されたルーヴル美術館の板絵[図5]に非常に近いからです。

[図5]ジョット 《聖痕拝受》 1295年頃 パリ ルーヴル美術館(右)
14世紀に入ると、再度、下堂の装飾が行われることになりました。右翼廊と交差部をジョット工房が手掛けた後、1310年代半ばにピエトロ・ロレンツェッティによって開始されたのが左翼廊[図6 赤い部分]の装飾です。

ここに描かれた「キリスト受難伝」連作は、天井の西側と東側、そして側壁の3つの区画によって構成されています[図7]。

物語は天井西側から始まり、そこに《エルサレム入城》から《キリストの逮捕》まで[1~4]、反対の東側に《キリストのむち打ち》から《キリストの磔刑》まで[5~7]、そして最後が南側側壁で《十字架降下》から《黄泉に降るキリスト》まで[8~11]と展開していきます。
聖書に記された「エルサレム入城」
このサン・フランチェスコ聖堂の連作に見られるように、「キリストの受難」はイエスがエルサレムに入城するところから始まるとされています。イエスはイスラエルの人々に、ユダヤ教の律法は極めて重要ではあるが完全なものではないので、自分がそれを補うと説きました。そのため律法を絶対視するユダヤ教の高位聖職者たちはイエスを敵視していたので、彼はエルサレムから130キロほど離れたガリラヤ地方を中心に活動していました。
しかしながらイエスはある日、彼らによって捕らわれることを覚悟の上で、エルサレムに赴くことを決めます。それはユダヤ教の聖書のひとつである『ゼカリヤ書』(紀元前6~5世紀)の預言を実現させるためでした。
「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」(9:9)。
この「王」は、エルサレムに平和をもたらし、その支配は「海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」(9:10)ことから、ユダヤ教徒が長年に渡って待ち望んでいた「メシア(救世主)」のことであるとされます。さらにイエスが12使徒と共にエルサレムに到着すると、群衆は、「ダビデの子にホサナ。主の名によってこられた方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(『マタイ福音書』21:1-11)と叫んだのです。
ユダヤ教の預言者たちは、メシアは紀元前10世紀のイスラエル王ダビデの家系から誕生すると伝えていました。そして「ホサナ」とは「どうかお救いください」という意味なので、「エルサレム入城」とは、イエスがメシアであることを証す出来事であったということです。しかしそれはイエスを敵視するユダヤ教の高位聖職者を中心とした最高法院(サンヘドリン)のメンバーからすれば、あってはならないことだったので、彼らはできるだけ早くイエスを捕らえようと考えました。
中世の伝統的表現とジョットによる革新的表現
「エルサレム入城」を表した数多くの作品の内、中世における代表作のひとつはヴェネツィアのサン・マルコ聖堂のモザイク[図8]です。構図はきわめて簡潔明瞭で、画面の中央にろばに乗ったイエス、その背後に12使徒、前方にイエスを歓迎するエルサレムの人々を配しています。

使徒は手前の3人のみを全身像で表し、残りの9人は手前の人物の頭上に頭頂部のみを重ねることで示唆しているのですが、同様の手法はエルサレム市民のグループでも採用されています。イエスの乗るろばの足元には服が敷かれており、木の上によじ登っている人もいますが、これは「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた」という『マタイによる福音書』(21:8)の記述を表現したものです。
背景は金で覆われ、地面は線で示され、エルサレムの街は記号のように表されているため、現実的な広がりのある空間は創出されていません。一方、人物像に関しては、衣の襞(ひだ)に多少の陰影は施されているものの、彫像性は感じられず、金地背景のなかで浮遊しているように見えます。こうした非現実性はイエス・キリストの神性を強調するための表現で、6世紀以降の中世美術に継続的に見られる特徴です。
この伝統的な表現を大きく変えたのがジョットです。その革新性については、本コラムですでに見てきましたが(第27~30回)、ひとことで言い表すならば、イエスを始めとする人物像に人間らしさを与え、その周囲の空間に現実性を感じさせるようにするということでしょう。
スクロヴェーニ礼拝堂(1305年献堂)に描かれた同主題作品[図9]では、背景は青い空になり、画面の下層部には地面の存在がはっきりと感じられます。

また人物像は陰影表現により確固たる彫像性が示され、そのいずれもが同一の地面にしっかりと足を置いており、エルサレムの城門はもはや記号的な表現ではなく、重厚感のある建造物として再現されているのです。そこから出てくる市民は、様々な年齢層や男女が入り混じった自然な表現になっており、今、まさに服を脱ごうとしているところや、それをろばの足下に敷こうとしている様子が表されています。
木の上に上っている者も、枝を折ろうとしており、ジョットが福音書の記述をどのように可視化すれば、礼拝堂訪問者にリアルに感じさせることができるかを工夫しているようです。そして登場人物のほとんどは、サン・マルコ聖堂のモザイク[図8]のようなやや斜めを向いた姿ではなく、ほぼ真横向きで描かれています。中世では聖なる者は原則、上記のような四分の三面観で表されなければいけなかったわけですが、ジョットはその伝統を破り、画面内の人物像どうしがしっかりと視線を交わすように描いたのです。
こうしたジョットの革新的な表現を、シエナの画家、ピエトロ・ロレンツェッティはどのように継承し、そこにいかなる独自の要素を加えたのでしょうか。
ピエトロ・ロレンツェッティの独自性
サン・フランチェスコ聖堂下堂に「キリスト受難伝」連作の第1場面として表された《エルサレム入城》[図10]を見てみましょう。
ろばに乗ったイエスを中心に、画面左側に12使徒を、右側にエルサレムの街と市民を置く基本構図は、サン・マルコ聖堂モザイク[図8]やスクロヴェーニ礼拝堂壁画[図9]と変わりません。一方、空間の3次元性や人物像の彫像性といった画面全体の特徴のみならず、服を脱いだり枝を折ろうとする一瞬の動作を捉えた描写は、明らかにスクロヴェーニ礼拝堂壁画に由来するものです。
しかしながらロレンツェッティは単にジョットの様式を模倣しているだけではありません。両者の明確な違いはエルサレムの街の表現[図11]にあります。ジョットは城門を建築的に描きましたが、ロレンツェッティは城門だけでなく、城壁に囲まれた街並みも表しているのです。

そこにはバラ窓や2連窓を備えた聖堂や鐘楼、そして金の盾やメダイヨンで飾られた世俗の建物が見られますが、それらはいずれも同時代のゴシック様式の特徴を示しています。つまりこのシエナの画家は、1世紀のエルサレムを14世紀の中部イタリアの街並みで再現することで、壁画を見る者に聖書のエピソードを現実の出来事のように感じさせようとしているのです。
こうした手法は本壁画以前にも作例がないわけではありません。それはロレンツェッティの師とされるドゥッチョが手掛けたシエナ大聖堂主祭壇画(1308-11年)の裏側パネル[図12]を構成する一点です。

表側の《荘厳の聖母》とは異なり、裏側の「キリスト受難伝」連作はドゥッチョの弟子たちによって描かれたとする説もあり、《エルサレム入城》[図13]もE.カルリ(1951年)をはじめとして何人かの学者はピエトロ・ロレンツェッティの手に帰しています。

[図14][図13]の細部(右)
確かにこの板絵の背景部分[図14]は1280年代から活動していたドゥッチョとは思えない新しい表現なので、弟子であったロレンツェッティが描いた可能性は十分にあるように思います。
そうであるならば、この祭壇画の制作時に思いついたアイデアを、工房から独立した後に大規模な壁画で心置きなく具現化させた作品がサン・フランチェスコ聖堂の壁画ということになるでしょう。
ジョットに始まるルネサンス美術の基本的な方向性は、イリュージョニズムに基づいた表現であることは間違いありません。つまり画家たちは1200年以上も前に、遥か東方の地で起きた神聖なる出来事が、まるで今、眼の前で繰り広げられているかのように再現することを試みたのです。その点において、ピエトロ・ロレンツェッティはジョットの革新的な表現を確実に一段階、推し進めたということが言えるのではないでしょうか。
