価値とは何か

――次に価値について考えていきたいと思います。価値といえば、古典派経済学の「労働価値説(労働〈時間〉が商品の価値を決めるという考え)」が有名ですが、古典派から自由主義経済学を受け継いだオーストリア学派は、それとは違う考えだったようですね。 

 はい。オーストリア学派のメンガ―が唱えたのは「主観価値」というもので、ざっくり言うと、価値とは個人の欲求と欠乏に基づいて現れたり消えたりするものだという考え方です。つまり、お腹がすいているときには食べ物にすごく価値があるんだけど、ぱくぱく食べてお腹いっぱいになるとその価値はゼロになります。

――変動していくというか、刹那的なもの?

 刹那的という言葉に含まれる否定的なニュアンスも込みで、その通りです。人が何か欠落を感じて、それを埋め合わせられると思わせるもの。たとえば空腹なときに青果売り場に出ているリンゴとミカンを見つけ、リンゴを買ったとすれば、ミカンよりもリンゴに価値があったということになります。 

――理屈はわかりますけど、なんというか、価値ってその程度のものなんだっけって感じがしますね。

 そのとおりです。価値とは本来は、世界の構造や、人がそこでいかに生きていくかに関わるものだったはずが、メンガ―らの理論をきっかけに、選択肢のリストに並ぶだけのとるに足りないものへと矮小化されてしまったのでした。20世紀の前半には同じ学派に属すフリードリヒ・ハイエク(1899-1992)が、価値を論じなくても価格理論を構築できるとして、価値を切り捨てました。一方、ハイエクとは異なる方向で思考を展開したのがカール・ポランニー(1886-1964)であり、経済人類学や文化人類学の流れへと連なるのですが、今はこれ以上立ち入らないことにしましょう。

 ネオリベとナチズム

――「方法論争」以後、オーストリア学派の議論は「新自由主義(ネオリベラリズム)」へと結実し、やがて世界を席巻していくわけですが、彼らの考えがこんなに広まったのはなぜなんでしょうか。

  「個人の自由」を標榜する彼らの議論には地域性がありません。まさに「普遍的」で、どこにでも持っていけるわけですが、その拡大に大きく貢献したのがアメリカです。アメリカという国は歴史が浅く、ヨーロッパから見ると「新しい国」ですが、国土は広いし、食糧も資源も豊富にある。つまり、元々大きなポテンシャルがあった。そんな中、世界を主導していたイギリスが第一次大戦、第二次大戦の影響などで次第に傾いていき、アメリカのプレゼンスが20世紀の初頭以降、大きく向上していきます。

  こうした流れの中で経済学の議論も場所を移し、自由主義そのものをどう考えるかといったことが俎上にのるようになり、ルードヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881-1973)やハイエクといったオーストリア学派の普遍的な議論が注目されるようになったわけです。

――そもそもになっちゃうんですけど、「新自由主義」というのはどのような考え方なんですか。

 ひとことで言うとグローバルな自由主義です。世界全体を市場とみなし、個人や企業が自由に(国家に介入されることなく)消費や生産、投資あるいは投機といった経済活動を行う。特に最後の投機を重要視し、金融市場の拡大によって富が増殖し、世界=市場が無限に成長していくことを良しとする考え方です。

 ――なるほど。それで歴史や伝統に縛られていない「自由の国」アメリカが、そのインキュベーターとなったわけですね。 

 ただし新自由主義を支持したハイエクやミルトン・フリードマン(1912-2006)らが自身の考えの対極に置いたのは、ヒトラーのナチズムでした。ナチズムは、ドイツ歴史学派の国家重視の考えが最悪の形で具現化したものとも言えますが、ハイエクが著書『隷従への道』で言うには、政府が正義や倫理的価値に基づいて方向を決めたり計画したりすると、やがて必然的に個人の自由が奪われてしまう。それに対してグローバルな自由主義であれば、どこに生まれようとも国家や歴史といった「変なもの」に絡め捕られることなく、自分の生き方を自由に決めることができるのだと。

 個人の自由は古典派のときから自由主義経済を推し進めていく原動力でしたが、それがナチズムという、現実の差し迫った脅威によって、より先鋭化していったとも言えるでしょう。

――全体主義を否定するものとして新自由主義があるんだと。そういわれると、新自由主義がいいもののように思えてきますね。 

 たしかにヒトラーは人びとに食事や仕事を与え、代わりに自由を奪った。国家に生殺与奪の権利を完全に握られる全体主義と、自分の意思で生きていく新自由主義のどちらがいいのかと迫られたら、後者の方がよいように思えてくるかもしれません。ただしそれはネオリベ側のロジックであって、実際はそんなに単純な話ではありません。

  そもそもナチズムや旧ソ連の社会主義の体制をまとめて「全体主義(totalitarianism)」ととらえる政治思想が出てくるのは1950年代以降であり、それも自明ではありません。ところが新自由主義の見方では、国家が大事だと言うものを十把一絡げに「そっち系」に分類します。明確な定義や確認なしに、何となくのイメージだけで名指すやり方です。そこには社会主義や共産主義はもちろん、ケインズ的な「大きな政府」の考え方なども「危ないもの」に含められており、批判の対象となりました。

 「完全競争」という欺瞞

――先ほど、ハイエクは自身が属するオーストリア学派の「主観価値」をも切り捨てたというお話がありましたが、それはつまり市場に全部まかせればいいんだという考えですよね。彼がそこまで市場を信頼するのはなぜですか。

 ハイエクには、市場にはある種の社会性があるという信念がありました。彼は個人(=市場の参加者)が持っている知識を価値として捉え、そのバラバラな価値が市場における競争によって暗黙の調整を受け、価格として体現されると信じていました。そしてその結果、社会は一定の秩序に至るのだと。

 こうした考えの根底には、古典派の時から受け継がれてきた「市場はいいものだ」という認識があります。市場の中で人は「自由」に行動できるし、何にどれだけの価値があるのか、何をするのが正解で何が誤りなのかといったことは、市場が社会の意思を汲み取り、結果的にはすべて体現するのだと。たとえば戦争の是非を問うときにも、戦争は多くのモノや人を破壊して大きな損失が出るからやめようと、市場的なコストとベネフィットを比較して意思決定することになります。それで平和になるからOKという主張は、たしかに一応筋は通っているかもしれません。しかし、もし儲かるなら戦争をする方がいいということになってしまいますので、大いに問題があるのです。

――ぜんぶ市場が決めるのであればそうなりますよね。

 それに加えて、市場は多くの平等な個人による競争の場だといいますが、実際にはわずかな数の大企業や銀行だけが大きな声をあげて結果に影響を及ぼすので、とうてい完全競争とは言えません。ミクロ経済学が依拠する多数、無数の「個人」という前提は、すでに20世紀の初めには現実と乖離しており、市場の参加者には競争前から圧倒的な「勝ち負け」がついていました。

 それが二度の世界戦争と規制緩和によってさらに増幅し、既得権益を持つものと持たないものの格差が、さらに拡大しました。負けた人びとには「自己責任」だからといって、何ら救いの手を差し伸べない。完全競争を謳いながら、強いものをさらに強くするための論理になっているところが、新自由主義は二枚舌であると言わざるを得ません。

――機会の平等さえもないと。

 実はないのです。市場に出せるものを持っている人だけが参加できるしくみです。働くにしても、その人自身に市場価値があるとか、企業の市場価値を高められる人だけが、スタートラインに立つことができる。家庭の事情や、心身に障害があって普通に働けない人などは、最初から眼中に入っていないのです。