「自由」の限界

――価値判断を放棄し(あるいは市場に委ね)、科学としての経済学を標榜してひたすらに経済成長を追い求めてきた新自由主義ですが、最近になってようやくその問題を指摘する声が大きくなってきました。

 このままでは、さすがに持たないということですよね。SDGs(Sustainable Development Goals)は目下大流行中ですが、「成長(Growth)」には限界があり、「発展(Development)」の方が大切だということは、世界中がネオリベの方向へと転じ始めた1970年代頃から言われていました。「成長」というと、GDPが何パーセント伸びたなど、数値的な増加を意味しますが、「発展」は必ずしもそうではなく、より高次の段階に進むというニュアンスがあります。それで経済学者も好んで使ってきましたが、その発展が「持続可能(Sustainable)」なものでなければならないというのは、資源の有限性に照らせば当然ですよね。人間社会を含んでこれを取り巻く自然の再生プロセスが機能しなくなり、生産ができなくなれば、そもそも経済活動自体が止まってしまいます。

  地球は有限であり、その限界はどんどん近づいてきている。それは人類に対する警告であると同時に、圧倒的な価値観を強いてくる事実です。この制約条件の中でやりくりするには、何を選び、何をあきらめるかの基準を持ち込むしかありません。19世紀や20世紀のように天井知らずの夢を見て、「自由」にやっていればよかったときとは状況が異なるわけです。

――地球が有限であるということ自体はずっと変わらないわけですけど、ここにきてやっとそれに気づいた。考えてみると間抜けな話ですが……。 

 なので、経済学や経済活動においても、その価値観が必要なのは間違いありません。ただ、最近はそれが唯一の「倫理」になって、人びとや社会を締めつける危うさがあると思われます。

――たしかに最近「エシカル」という言葉をよく耳にしますね。

「倫理」が厳しく適用され、それ以外の価値観を認めない状態になると、人や社会にとって逃げ道のない、「倫理全体主義」の状態になるでしょう。そんな状況を招くとすれば、価値という言葉を持ち出すだけで嫌がられるのも、わからないわけではありません。ナチズムが出てきたときのように、「正しい」とされる価値観だけが狂信的・盲信的に称揚され、自由の否定につながる恐れがある、と人びとが感じるからでしょう。たとえサステイナビリティに関して倫理が重要であるとしても、正しさ、つまり正義が上から一通りにだけ決められてしまう状態は、避けなければならないと思います。

 つながりを取り戻す

――ナチズムに利用されてしまったという面もありますが、「国民をどうやって食べさせるか」というドイツ歴史学派の問題意識には、個人的には共感します。

 私は「経済」とか「金融」といった言葉がよくわからないというか、どうも腹落ちしない感じがずっとしているんですけど、それはこれまで主流を占めてきた新自由主義や金融資本主義にリアリティーがないからだと気づきました。「無限の成長」なんかはその最たる例ですけど、自分が日々の生活で触れるものや生きているという実感とこれらの概念が、どうしても結びつかない。でも、「みんなが食っていけるようにするのが経済だ」と言われたとき、それならわかると思ったんです。これがそのまま価値になるかどうかはわからないのですが。

 食べることは生きることの基本なので、そこから考えるのが私もいいと思います。結局、食べるためには誰かとつながらざるを得ないのですよね。一人でお米をつくることはできないし、獲物を捕らえるにしても限界がある。それで人間は社会というものを形成していったと思うのですが、そう考えると社会の構成要素は、ミクロ経済学がいうように「個人」ではなく、最小でも二人だということになります。自分と必ずもう一人、他者がいる。

  そしてその両者の関係は、自分の利得を最大化するために利用し合うのではなく、助け合い、頼り合うようなものになるはずなのです。食べ物を分け合うにせよ、お金を貸すにせよ、「あなたを助けることは私を助けることと表裏一体なのだ」という意識が共有されて、はじめてパスが回っていくのではないでしょうか。

――助けられる側もその意識を持つというのがポイントですね。助けられることに過度の引け目を感じる必要はない、次は自分が助ければいいんだから。 

 そうなのです。でもいまの若い人たちを見ていると、人に優しくしなければならない、怒ったり否定したりしてはならないという意識が強く、とても辛そうだと感じます。他人に迷惑をかけてはいけないという規範を驚くほど内面化し、怯えているように見えます。

――日本社会では特に、その意識がまん延していますよね。

 新自由主義の何が決定的にまずいかといえば、先ほども出てきた自己責任の過剰な内面化です。老後は何千万円必要だとか言われるままに、生涯、必死にお金を貯めて、それがなくなったら一人で死ぬしかない。たとえ人口減少や高齢化社会という現実があるとしても、個々人の自助努力だけで問題を解決しようとするのは、あんまりではないでしょうか?

 「生まれる」は受け身だと言われるように、私たちは必ず誰かに産んでもらい、そして食べさせてもらうわけです。私たちの生はそういうつながりの中から始まり、成り立っています。それは大人になっても続いており、だからこそ社会に出れば食べていくことができる。

 食に関する優れた研究者である藤原辰史さんが、「食べものは全部無料に!」と言うヴィジョンを語っていらっしゃいますが、そこにある究極のアナキズムは人の心を解放します。私も大いに共感しております。今回、初めの頃に少し言及したラスキンではないですが、突き詰めればいのちこそが富であり、ゆたかさであるはずです。お金がないと食べられない、イコール生きていけないというのは、原理的におかしいでしょう。『レ・ミゼラブル』ではないですけど、空腹に耐えかねてパンを盗んだ人がいたときに、その罪を問う前に考えることがあるのではないかと。最低限、食べることだけは担保する公的な支援があって欲しいですし、そういったしくみを作ることは、意外と可能なのだと思います。子ども食堂などの数も、ここ数年でずいぶん増えましたよね。

 近年、私が注目してきたのは「非国家貨幣」です。貨幣というのは国がつくって管理している法定貨幣がおもな形態ですが、それと並行して、あるコミュニティーの中だけでやりとりする「お金」もあります。「地域通貨」などもその試みの一つですが、たとえば夏に草刈りを手伝ったらその分を受け取って、秋になったらそれでお米がもらえるといった仕組みもその一つです。それを貨幣と呼ぶかどうかはともかく、国や自治体といった規模ではなく、日々の暮らしで顔を合わせるくらいの範囲で、互いに支払ったり支払われたりしながら共に生きていけるようなしくみは可能ですし、すでに各所でさまざまに取り組まれています。 

――「みんなが食べていけること」が重要である一方、ご著書『経済学の堕落を撃つ』では農業のビジネス化によって食物が工業製品になることの問題点にも触れておられますね。

 食べられる、食べさせられるという点だけに着目し、効率的な生産性だけを求めて、心身にいいかどうかわからない食物が大量に作られるのは、悲しいことです。それは一人ひとりの暮らしだけでなく、それぞれの地域に根付いた食文化もやせ細らせてしまいます。「食べられること」が大切なのはもちろんですが、だからといって食べられれば何でもいいわけではありません。

 お金がある人は時間をかけてつくられた安全でおいしいものを食べ、そうでない人は身体に悪いかもしれない成分を含む、安い弁当を食べればいいというのは、結局、市場原理に基づいた貧しい考え方ですね。被災した人びとに賞味期限の切れた食物を送るという発想も同じです。「みんなが食べられる」という点では、一見、意見が合っているように思えますが、根本の価値観がまったく違っているんです。

――今お聞きしていて思い出したんですけど、自分が着なくなった服を貧しい地域の人たちに送るという運動がありますよね。私も何度か参加したことがあるのですが、あるときそういう服を送られた地域の方が「同じ人間なのに、なぜ自分たちは、誰かがいらなくなった服で満足しなければいけなんだ」と言っている記事を見て、ショックを受けました。本当にその通りだと。自分ではもう着ないし、誰かの役に立つのならという気持ちで送ったのですが、その誰かを無意識のうちに下に見ていた自分に気づかされて、恥ずかしくなりました。

 根底にあるのはたぶんWin-Winの発想だと思います。自分はいらない服がなくなってクローゼットが片付くし、相手は服が手に入るしでお互いにハッピーでしょという理屈ですが、いま言われたように、それが成り立つのは、相手側を固定的に低く見るという視点の中だけなのです。自分が欲しくなるようなものを上げるのが本来の贈り物だと思いますが、自分という個人だけを見つめる自由主義では、そこに矛盾が生じてしまいます。結局、自分が欲しいものは、自分で買って持っておくから、人に渡す必要はないことになりますので。 

――マルセル・モースのいう「贈与交換」みたいなやりとりができればいいんですけど……。 

 とはいえモースの贈与概念にも、返しきれないほどの贈り物をおくって相手を威圧するという一面がありますし、純粋に「無私」あるいは「利他」という言葉で表されるものが、どのように成り立つのかは、簡単ではありません。母乳や献血がその一例であるという議論もありますが、母の無償の愛を自明視するのは自分の子どもを愛せない母たちを圧迫しますし、献血が献身的な気持ちだけから行われているかどうかも、まったく自明ではありません。無私や利他の中にも利己心が紛れているという分析を行った経済学者もおります。

――先ほど「非国家貨幣」のお話がありましたが、コミュニティーの大きさというか、枠取りの仕方というか、どの辺りの人までを共に生きていく「自分たち」と捉えるのかがポイントになるような気がします。

 そうですね。町内の誰かの家が困っているのであれば素直に渡せるけれど、国が税金として徴収し、困っている人に配りますと言われても、実際に見ることができない分、誰に配るのか、そもそも本当に配っているのか、と疑問が生じてしまうところがありますね。

 ただ、うまくいくかどうかの基準は空間の大きさだけである必要はないし、国籍でも、もちろん「人種」だけでもない。それこそ、そこにどのような価値を置くかということでしょう。価値が共有されていれば、ある程度は方向性がそろいます。広い意味での貨幣が重要なのは、そのためです。結局、社会のあり方を一緒に考えることができる複数の価値を議論し、問い続けることこそが、経済学において重要な意味をもつと思います。

(取材日:2023年11月16日)