ドイツの選択

――産業革命をきっかけに、衣食住に関わる物や人間の労働力までもが「商品」としてやり取りされるようになる中、その市場の論理を分析する学問として経済学がはじまったとのことでした。そこから100年ほど経った19世紀後半のドイツで、経済学の担うべき理念と方法をめぐって「方法論争」が起こります。 

 経済学の歴史ではどうしても、イギリスから見た世界が中心になります。これは18世紀の終わりから19世紀にかけてイギリスが世界を牽引したからですが、もちろん世界はイギリスだけではありません。

 私の大学時代の恩師は西川潤(1936-2018)という経済学者で、フランスの経済思想を研究しておられました。あるとき西川先生から「フランスは僕がやるから、君はドイツをやってくれないか」と言われました。そうすればイギリスから見たものとはぜんぜん違う絵が描けるからと。 

――それでドイツの研究をされるようになったんですね。

 ドイツは国家としての成立が遅かった(ドイツ帝国成立は1871年)こともあり、ヨーロッパのなかでは「後発国」でした。なので、ドイツを見ていくということは、遅れた国の立場から考えるということを意味していました。なお同じ頃に日本も近代化(明治維新は1868年)しますが、まずお手本にしたのはドイツでした。イギリスへの憧れはもちろんありましたが、それよりも「遅れて出発した国」としてのドイツのやり方の方が参考になると。ちなみにドイツ帝国の成立により、そこに含まれなかったオーストリア(ハプスブルグ帝国)は切り離されましたが、この二国間には学問上の強いつながりが続きました。

 それと、これはイギリスに限った話ではありませんが、先進国は自分たちの世界観や価値観が地球上のどこにでも通用する普遍的なものだと信じており、人間とは、社会とは、あるいは経済とはこういうものだと、他国に押し付ける傾向にありました。そのため、「後発国」はそれを受け入れて追いつくことを目指すか、別の道を選ぶかの選択を迫られることになります。ドイツが選んだのは後者でした。

 経済学の理念と方法をめぐる「方法論争」の背景には、このような構造的問題があり、「個人の自由」こそが重要だというアダム・スミス以降の自由主義経済学を支持する立場と、国をおさめて民をすくうこと――「経国済民」あるいは「経世済民」――こそが経済学の役割であり、そこにはドイツ固有の歴史に即した「公正」や「正義」といった観点が不可欠だとする立場が対立したわけです。 

――「自由」か「公正」かの論争であると同時に、イギリスが主張する「普遍」とドイツの「特殊」をめぐる争いでもあったんですね。

 もっとも、自由主義の論陣を張ったのは、イギリスではなく、オーストリアでした。ドイツと近接しながらも、国際都市ウィーンを首都にもつ国だったからこそ、オーストリアは普遍を標榜する先進国の側に立とうとしたのかもしれません。

科学になった経済学

 19世紀がイギリスの世紀であったことは確かですが、古典派経済学自体はミルあたりで行き詰まっていました。ただ、ミル自身は資本蓄積や経済成長が進まなくなった定常状態を評価したり、社会主義にも目を向けたりしていました。一方、そんな状況で出てきたのが、カール・メンガ―(1840-1921)らを中心とするオーストリア学派でした。

 メンガーらはスミスの自由主義経済学を受け継ぎつつ、それをより純化していきます。すなわち、道徳感情だとか社会正義といった諸要素を経済学から取り除こうと考えました。こうした諸要素を入れるから、経済学から科学的な普遍性がなくなるのだ、自然科学にならって要素をもっとも単純なものにまで還元し、「自由な個人」を単位として一般理論を構築すれば、世界中のどこでも通用するものにできるだろう、と考えたのです。

  これはつきつめれば市場原理主義と通じており、実はかなり資本主義「推し」なのですが、彼らはそうは思っていませんでした。とにかく経済学を科学として、理念や価値とは無関係にも成立させたかったのです。それでいて、富を蓄積することが是であるという価値づけは基本的に疑いませんでした。こうして経済学は科学であるという考えが出てきて、社会を個人に還元するミクロ経済学へとつながっていくわけです。

 ――常に自分の利益が最大になるように行動する個人(=ホモ・エコノミクス)を「原子」として、市場の法則を導き出そうというわけですね。

 すでにお話ししたとおり、「ホモ・エコノミクス」が現実の人間とは異なるとしても、抽象しないと一般化も中立化もできません。19世紀は全体的に、学問の体系思考というか、専門領域として完成させようという志向性がありました。フランスではこうだ、ドイツではこうだといった個別の要素を入れると、そこでしか通用しないものになってしまう。それよりも、科学の「世界のどこにでも通用する」という普遍性が、高く評価されていたのです。

――とにかく普遍を目指す、その流れにのったのがオーストリア学派だったわけですね。もう一方の「公正」を主張したのはどのような人たちだったんですか。 

 グスタフ・フォン・シュモラー(1838-1917)を中心とした「ドイツ歴史学派」と呼ばれる人たちです。彼らは科学的普遍性よりも、ドイツという国の個別、具体的な歴史や状況を重視しようとしました。こうした考えの根底にはドイツ特有の事情が深く関わっています。

 先ほども触れましたが、ドイツは国家としての成り立ちが遅く、「鉄血宰相」ビスマルクによって統一されたのは19世紀の後半(1871年)です。しかし、ドイツはそうそうたる哲学者や文学者を輩出しており、「ドイツ精神」と呼ばれる文化的独自性も、それへの誇りもあった。また早くから官房学という国家学の体系をもっていました。こうしたことから国家への意識が非常に高かったのです。この官房学・国家学はいかに国を統治するかという学問ですが、そこには国民を食べさせていくという使命が含まれていました。経済学という名称はなく、国家学の一部に経済学的な要素が組み込まれていたわけです。 

――官房学・国家学においては、市場がどうこうというより、国家を構成する国民を生きられるようにすることが重要だったわけですね。

 そこでドイツの経済学者たちが重視したのは社会政策でした。資本主義の発展とともに、資本家が富を蓄積していく一方、労働者は一日一食で10時間以上働かされたり、食べるものや住む家がない人が街中にあふれていたり、という状況が生じていました。資本主義によるこうした歪みを正すのが国家の制度であり、それをつくるのに必要な理論やデータ――「エンゲル係数」でおなじみのエルンスト・エンゲル(1821-1896)もドイツ歴史学派の一人です――を提供するのが経済学であると。そしてかれらは政策や制度の改善を目指しました。

 ちなみに、資本主義が生み出した問題を、革命などにより根本的に解決しようとしたのがマルクスです。なので、彼にしてみれば「ぬるい」のかもしれませんが、制度によって改善できることも決して少なくありません。社会政策のための考え方やデータ収集に寄与したのが「国家学としての経済学」であり、ドイツ歴史学派の経済学者たちでした。

――「科学としての経済学」と「国家学としての経済学」。同じ経済学でも、目指しているものがまったく違ったんですね。

 そういうことです。「方法論争」は双方のリーダーの不和によって打ち切られ、後にマックス・ヴェーバーがどっちも大事だといって収めたという経緯がありますが、今ではこうした論争があったこと自体が忘れ去られています。

 現代の経済学者には「自分たちは結構『理系』的なんだ」という変なプライドや、「経済学は科学なので理念や価値にはタッチしない」という考えを持った人が少なくありませんが、その端緒となったのは「方法論争」におけるオーストリア学派の議論に他なりません。そこで生まれた科学としての経済学や普遍化という幻想が、100年の時を経た今も亡霊のように生き続けているように思います。