佐藤信夫による提喩・隠喩の構造分析

 前回の最後に、佐藤信夫の「継承されていない功績のひとつに“内包・外延”を提喩・隠喩の分析装置に用いる方法がある」と書きました。その続きです。(以下、佐藤の著書は『レトリック感覚』を『感覚』、『レトリック認識』を『認識』、『レトリックの意味論(意味の弾性)』を『弾性』、『レトリックの消息』を『消息』と略記。)

 まずは佐藤の『感覚』(p.194)から提喩の定義と解説を引用します。

 提喩とは、「①外延的に全体をあらわす類概念をもって種を表現し、あるいは、②外延的に部分をあらわす種概念によって類全体を表現することばのあやである」(①②の符号は筆者補記。①は類による提喩、②は種による提喩)

 佐藤があげている例を引くと、①「その日一日時折思い出したように舞っていた白いものが……」(井上靖『比良のシャクナゲ』)、②「人はパンのみによって生きるのではない」(『旧約聖書』)。①については「白いもの」がより具体的な「雪」を指していることを、②については「パン」がより抽象的な「食糧」を指していることを読み違える読者はいないだろうと語り、①の「白いもの」の分析に以下の図をあげています。

外延的には「白いもの」は類であるから、種としての雪を含み、いわば雪の意味のまわりを雪以外のありとあらゆる白い存在物でかこみ、つつんでいる。そして内包的には、この文中の「白いもの」という表現は、雪のもつさまざまの特性のなかで特に白さにだけ集中的に照明をあてていることになる。

 こうして「より抽象的な表現が結果としてよりいっそう具体的なイメージを生むメカニズム」(p.198)が「(白さ×雪)という二重の効果を発揮する」(p.197)と、類による提喩を説明しています。

 次に、この図を土台に、私がよく用いる様式の図に書き替えます。

【図1】との違いは、内包と外延の対応を行い、かつ媒体(表示されている言葉)を太線で、趣意(暗示されている意味)を細線で区別して表した点、そして、意味の動きのベクトルを書き加え、佐藤がいう「二重の効果」を図中に表現した点です。「白いもの」の大きな外延集合が「雪」に特殊化され、限定されて読者に受容された。これを内包として見ると、「白さ」に焦点が当たると同時に雪の他の特性(冷たい、空から降る、地上に積もる……)が読者の想像力によって加わり、内包が膨張したと言えます。

 そして佐藤は、隠喩(※1)について『消息』(p.112)で同様の図を描き、「媒体と趣意が外延的には無関係に分離しており、内包的にのみ交差し合っている」と説明しています。 同書の他の章で、アリストレテスが『詩学』で述べたメタポラの4分類の「Ⅲ 同類のなかの種から種」が隠喩に該当するとしており、この判断を基に作図していると思われます。アリストレテスの定義の「同類」に関して、佐藤は、媒体と趣意の「ふたつのどれほど相反するように見えるものを取り合わせてみても、なおそれらを包括しうる虚構の上位概念を考案することはできるだろう」(同p.158)と、隠喩で臨時的につくられる仮想の類的内包・外延について語っており、これは後述するアドホックカテゴリーに通じる考え方です。

「二重の提喩」から「二重の提喩的な運動」へ

 佐藤が載せている図を基に私が用いる様式に書き替えます。例としては「白雪姫=白雪とよばれる色白の女の子」を用いています。

 この図は、グループμが1970年に提唱した「二重の提喩」を佐藤がかなり評価していたことも反映しています。二重の提喩とは、隠喩が「種による提喩」と「類による提喩」を繰り返し適用したものだとする理論です。「白雪」の内包が、いったん抽象化されて「白い」へ収縮し(種→類)、その後ふたたび具体性を獲得して「色白の女の子」へ膨張(類→種)。外延が、いったん「白いもの」一般の集合へ拡張し(種→類)、その後ふたたび「色白の女の子」へ指示対象を限定(類→種)。つまり、隠喩の「媒体→根拠(隠喩のココロ)→趣意」の動きを「種→類→種」と捉えたわけです。この概念の運動を図中に矢印で表しました。〔なお、佐藤の説明では順番が逆で、「色白の女の子」→「白い(白いもの)」→「白雪」の順です。確かに、何かを隠喩で表そうとする動機からすればその順番ですが、概念の運動としては逆なので方向を反転させています。隠喩では、媒体の特性の一部が抽出されて趣意に投射される。これは、概念メタファーや類推が、起点領域から目標領域への写像とする考え方と同じです。佐藤自身も、隠喩で表される趣意を「《言表されている意味》を手がかりとして新しく成立する何ものか」(『消息』p.108)と語っており、その意図もくんでいます。〕

 佐藤は、二重の提喩について「九割かた当たっており、その鋭い着想は評価されなければならない」と述べています。しかし不思議なことに、そう語った直後に「隠喩はつねに二重の提喩だと言い切ってしまうのは考えものであろう」(『感覚』p.200~201)と矛盾した意見を書いています。これはどういうことでしょう。私の推測では、隠喩を二段階の提喩とする考え方はいいが、提喩というテクニカルタームを使うのは慎重であるべきだとの警告だと思われます。実際、佐藤の懸念どおり、認知言語学界では「二重の提喩」は不評なようです。

 例えば、瀬戸賢一先生は、二重提喩の媒介項となる「類(カテゴリー)は、本当に私たちの頭の中にあるのか」(『よくわかるメタファー』p.293)と、森雄一先生は、「はっきりした媒介項が設定しにくく、従って明らかに二重の提喩とは解釈できない」(『メタファー研究の最前線』p.167)と指摘しています(※2)。二人とも佐藤を高く評価する代表的な研究者なので異例な言及です。確かに、特に二段階目の「類による提喩」は、語の正当な意味では提喩ではないでしょう。提喩なら、その類概念は常識的な分類体系上に位置し、言語化できなければなりませんが、隠喩における根拠は、作為的で臨時的で、複合的で曖昧で、必ずしも言葉で表せるとは限らないからです。その意味で、瀬戸氏・森氏の批判は的確だと思います。二重の提喩ではなく、「一般化→特殊化」「種→類→種」「具体→抽象→具体」の「二重の提喩的な運動」とすれば容認してもらえるでしょうか。

 隠喩は類似に基づく比喩だと言われますが、そもそも認知言語学では「類似」は軽んじられる傾向にあるようです。認知言語学の草分けとなったレイコフ&ジョンソンの『レトリックと人生』では、メタファーを生じさせる基盤として「身体性」と並んで「類似」が重視されていましたが、その後の研究は身体経験に基づく共起性が中心になり、類似は扱われなくなっていることが影響しているようです。また、認知意味論では概念メタファーが研究の基幹であり、概念メタファーは起点領域(媒体)から目標領域(趣意)への写像だとして、媒介項を設けません(※3)。起点と目標の二項関係で捉えるため、類似性を見て共通項を抽出することをしないのです。それは、言葉で表現された隠喩ではなく、認知として暗黙裏に働く“見なし”の仕組みを解明することに主眼を置いているためでしょう。イメージスキーマやプライマリーメタファーといった原型に還元し、いわば、根拠の根拠を求めることに力を入れているようです。(※4)

 なので隠喩の理解のためには、「類似」を重視している認知心理学が参考になると思います。認知科学者の鈴木宏昭は、『類似と思考』で「類推(※5)においては写像が可能になっているのはなぜだろうか」(p.200)と問い、「そもそも異なったものを、少なくとも主観的に同一にする心的なメカニズムが必要」(p.203)として、「類推はベース(起点領域・媒体)とターゲット(目標領域・趣意)とその二つを包摂するカテゴリーとの間の三項関係として捉えなければならない」(p.205)と書きます。〔引用中の( )は筆者補記〕 何かを何かに喩えて理解したり、説明したりしようとするとき、いきなり「さて何に喩えようか」と無数の可能性から検索するより、いったん抽象化したほうが経済的だとの考えです。そして抽象化は、喩える動機や目的によって制約(バイアス)が加わり、効率的に行われるとします。先の白雪姫の例で言うと、女の子にあだ名を付けようと目論んだとき、外見の特徴を捉えるのがあだ名として通用しやすい。そこで肌の色が白いという特徴を捉え、白いもので喩えようと(識閾下で)考える。これで概念領域が限定され、媒体の検索が容易になります。白いものは雪以外にも雲、百合の花、餅、紙、白髪……といろいろ思い浮かぶ。その中から女の子に合った清潔さ、みずみずしさ、輝かしさのイメージをもつ雪が採用される。

 この類推の第三項を鈴木は準抽象化の名前で提示していますが、隠喩においてはアドホックカテゴリーが担うとしています。アドホックカテゴリーとは、その名のとおり“場当たり的”に生じるカテゴリーで、認知科学者のグラックスバーグ&カイザーが「類包含モデル」を提唱する中で示したものです。例えば「火事のときに持ち出すもの」というカテゴリーでは、預金通帳、パソコン、アルバム、ペット……といった通常の分類ではひとくくりにならないものが集まります。「火事のときに窓ガラスを割るもの」なら、椅子、フライパン、ゴルフクラブ、分厚い辞書……。そのときどきの必要や関心に応じてモノの内包(コト)が変わり臨時のカテゴリーがつくられる。楠見孝先生は『メタフォリカル・マインド』(p.29)で、「心は沼だ」の顕在型隠喩を題材に、「沼」が典型例となる「深い、濁った、ドロドロした……」もののアドホックカテゴリーに「心」が包摂されていると説明しています。一方「心は湖だ」なら、「湖」が典型例となる「澄んだ、美しい……」といったアドホックカテゴリーに包摂されます。このように、アドホックカテゴリーは喩える媒体の特性に由来し、その多様な特性の中でどれを抽出するかが趣意によって決まり、抽出された特性が趣意に投射されるわけです。アドホックカテゴリーは「二重の提喩的な運動」が生み出す媒介項、類概念だと言っていいでしょう。

内包を操作し、外延を生成する

 説明が長くなりました。「二重の提喩的な運動」を基にした図を考えたのは、内包の動きを視覚的に把握する方法がほしかったからです。前回、「内包の変動性・先行性、外延の安定性・後続性」について仮説を述べ、「内包は流動的なために、不安定な状態を嫌う私たちは外延によって内包を固定しがちで、この外延の固定化を解除するのが詩であり『病める舞姫』だ」と書きました。この“内包優先主義”にかなう分析ツールがありません。一般に、概念は外延的に捉えられがちで、“カテゴリー”にしてもメンバーの集合として見られ、輪の重なりでイメージされます。論理に「包摂」という言葉が使われるのも概念を外延として捉えているからでしょう。通常の分類体系を表すにはそれでもよいのですが、語の意味を「その語から想起される(可能性がある)知識の総体」とする認知意味論には不向きです。この知識の総体である意味は、国語辞典の字義的な意味と対比させて百科事典的意味とよばれ、「個々のコンテクストによって、ある語の百科事典的意味の一部が活性化される」(『認知言語学大事典』p.109)とされます。私の2回目の原稿では、潜在する百科事典的意味を、糸井重里氏が『イトイ式コトバ論序説』で唱えた「コトバの素」としました。今後もコトバの素と言い表します。

 文において活性化するコトバの素は文脈に応じて異なるから、佐藤は「語の意味はけっして確定されることなく、もちいられるたびに弾性を発揮し、~まったくおなじ意味は二度とくりかえされはしない」(『弾性』p.93)と語ります。そして、レトリックを意味の弾性を生む仕掛けと捉え、「換喩」=「意識の遠近法のなかに流動」(『感覚』p.164)、「提喩」=「意味の膨張・収縮」(『感覚』p.198)、「緩叙法」=「揺れる心情がここに造形」(『感覚』p.298)、「転喩」=「相を転じて見ること」(『認識』p.118)、「対義結合」=「とりわけ多義的なことば」(『認識』p.118)、「反語」=「振動しつつある意味」(『認識』p.248)と、レトリックごとに生じるさまざまな意味変動を記述します。このように弾性変動するコトバの素の姿を見える化したいと思うのです。コトバの素はまずは内包に現れるので、提喩や隠喩に限らずあらゆるレトリックについて、その働きによる内包の動きを記述できるはずです。

 広告コピーから例を紹介します。岩崎俊一による傑作(※6)「一軒の家が所有する風景。」です。神戸の六甲アイランドシティに建った分譲マンションの広告で、発表は1988年。当時、タワーマンションはまだ珍しく、窓からの眺望を売りとし、広大な夜景写真をビジュアルに使った分かりやすい広告です。以下、内包図を示します。「一軒の」は省略し、「家」「所有する」「風景」の3語の関係を捉えました。外延は「高層マンションの窓から見た風景」に集約される単純なものですが、外延に結実する前の内包の動きは複雑です。

 このコピーは、2つの隠喩が組み合わされています。普通は「家が所有する」とは言いませんし、「所有する風景」とも言いません。同様の事態を「家から見える風景」と言えば通常の表現ですから、「見える」を「所有する」に置き換えたところがミソです。この置き換えが概念メタファーを発動させ、まず「家」が擬人化されます。人と見なされた家は何かを「所有する」ことができるのです。(これは循環ですが、ニワトリとタマゴが循環しているように、概念と言葉は循環しています。) 細かく言うと、人と、人と見なされた家はともに何かを「占める」ことができるので、「占める」を媒介項(類)として「所有する」という動詞の隠喩が成立します。そして通常は所有できない「風景」を所有するわけですが、風景は物ではないので、所有されるのはその「権利」でしょう。そうして「風景」を由来として、「風景」と「権利」の媒介項(類)、「眺望」が抽出されます。「権利」によって「眺望」が、人と見なされた家によって独占的に占められるのです。次に、「眺望」は「見る」ものなので、「見る」の連想が生じます。これは、隣接による換喩です。「見る」のは、人としては「目」であり、家としては「窓」です。家の部分である「窓」が換喩として引き出され、「窓」=「目」の第3の(どちらが媒体か趣意かも判然としない)隠喩が識閾下に生じます。

 この第3の隠喩を発生させるところが凄い。これにより、高層マンションの窓がマンションの住人の目と一体となり、未来の区分所有者は、結果として「高層マンションの窓から見た風景」という外延をありありとイメージするでしょう。広告の広大な夜景写真がその外延を実体化させるでしょう。

 ここで示した「人」「占める」「権利」「眺望」「見る」「目」「窓」といったコトバの素は、表現された言葉には現れていません。また、ここで示したような明確な単語で表せる概念としては存在していません。しかし、それを感じることができる。だから、私たちは広告コピーのレトリックを瞬時に了解できます。それはコトバの素がいま生起したコトとして、流動状態のまま意識の底で動いているからでしょう。そのコトバの素が外延を得て、「高層マンションの窓から見た風景」のイメージとなって定着したとき、消費者は欲望が喚起されます。かつて広告は、内包を操作することにより外延を生成する技術でした。

溶けて流れる雪姫

 さてようやく、表題に掲げた「隠喩からの自由」に進む準備が整いました。これまで隠喩のメカニズムを喜々として語ってきたのに、ちゃぶ台返しのようですが、隠喩の読みは読者の権利の放棄につながると思うのです。なぜそのような考えをもつに至ったか、情けない体験を書かなければなりません。カズオ・イシグロ氏の小説『クララとお日さま』を読んでいたときのことです。

 クララはAF(人工親友の略)とよばれるAIロボットで、人間の子どもに買い与えられ、その子と生活をともにし、成長を助ける役目を担います。AFは太陽光をエネルギーとしており、クララはお日さまを信頼し、敬い、慕っています。お日さまが物乞いと犬を生き返らせた(と思った)り、愛し合う老爺と老婆が再会したときに祝福の光を送った(と思った)りした情景を見て崇拝の念を強めていきます。そして、クララが寄り添う子ども、ジョジーの病気がよくなるように特別な栄養を与えてほしいとお日さまに助力を求め、お日さまの怒りを鎮めるためにいろいろと取り組みます。

 お日さまとは、要は神さまなのですが、それと私が気づいたのは小説のほとんど最後。「お日さまの顔」の描写(クララの錯覚でした)を読んだときでした。なんと鈍い、と自分の感度の悪さにあきれました。ところがそれから「お日さま=神さま」と思って読むと、つまらないのです。「お日さまの顔」で気がついたせいか、顔が真ん中に描かれた太陽の絵がちらついてダメです。その絵を振り払っても、髭を生やして杖をついた神さまの像が浮かんできてしまいます。

 神さまの隠喩を意識する前、お日さまがただのお日さまだったときは、読みがもっと豊かだったような気がします。子どものころ、母親と縁側に並んで寝転び、目を閉じて太陽の残像がどう見えるか話し合ったこと。叱られて蔵に閉じ込められ(家が質屋だったので蔵があった)、見上げる格子窓から差し込む光が埃の筋になっているのをながめていたこと。そうした些末な記憶が、偉い神さまの登場で消えました。取り込んだ洗濯物の日の匂いも、プールサイドのコンクリートの焼けた熱さも、夕焼けとともに聞こえてくる豆腐屋のラッパの音も、これら日常の記憶も消えました。お日さまの自由な読みができなくなったのです。私の理屈に引き寄せて言うと、多様な記憶がコトバの素となって支えていた「お日さま」の内包が、隠喩になったとたんに、趣意の「神さま」と共有する媒介項(類)に収縮するとともに、顔のある神さまの像(種)に膨張し、「お日さま=神さま」の外延が確定してしまった、となります。

 隠喩が隠喩として成立するためには、状況や文脈の助けが必要です。その助けがなければ、隠喩は何が根拠で、何が趣意なのか分からない二重の謎です。本論の前段であげた白雪姫の例にしても、実は分かりやすいように隠喩の掟破りをしています。根拠が「白」だとネタバレしているからです。これが、「白」がつかない「雪姫」だったらどうか? もし「色白の女の子」を指していると事前に分かっていなかったらどうか? 「雪」の内包は「白い」以外に「冷たい」「空から降る」「地面に積もる」「光を反射する」「溶けて流れる」「泥で汚れる」「だるまをつくる」「雪合戦をする」……と無数にあげられます。どの内包に焦点を当てて収縮させるかで「雪姫」の隠喩は異なった意味をもつはずです。「冷たい」なら雪女のような雪姫を、「溶けて流れる」なら京都先斗町(ぼんとちょう)の舞妓さんの雪姫(※7)を想起します。「泥で汚れる」だと、ちょっと切ない雪姫になり、「だるまをつくる」だとコミカルな雪姫になります。どんな雪姫を想像するか、本当は言葉の受け手にまかされている。いや、雪姫の具体像に向けて内包を膨張させず、内包をさまざまに収縮させたまま、コトの生起にまかせて遊ばせておけたら、きっと言葉は自由を獲得できるでしょう。

 私の2回目原稿で参照した広告コピーの金字塔「おいしい生活」も、作者の糸井氏自身の自己批判「なんでも“おいしい”に流し込むのはファシズムだ」に至らないですむかもしれません。

 字義の「おいしい①」の内包が共通感覚としての「おいしい②」に収縮し、そこから「おいしい③生活」に向けて膨張する際に、さらにより具体性を求めて商品に向けて膨張させるから広告になり、またファシズムになる危険性があります。

「おいしい生活」の再膨張を、もっと根源的な生活のほうに膨張させることができるのではないか。見田宗介が『現代社会の理論』(p.141)で、バタイユの消費理論を読み解くかたちで書いた次の文が胸を打ちます。ちょっと長いですが引用します。

生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいること、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。

 しかし、なかなか『病める舞姫』の話にならず、看板倒れのそしりを免れません。次回は書きます。

<脚注>

※1 以下、特に断らない場合は潜在型の隠喩、つまり媒体のみの表現で趣意を言外に暗示する形式とする。「AはBだ」と趣意・媒体をともに表示する顕在型の隠喩はその旨を表記する。

※2 森氏のその後の論文「隠喩と提喩の境界事例について」では、慣用句を題材に「典型例だけを考えれば隠喩となるのであるが、用法の適用範囲を拡げて考えれば提喩となる」と述べ、提喩が具体事例を得て隠喩となる場合について指摘している。

※3 概念メタファーも、構造のメタファーについては起点領域のイメージスキーマを投射する(不変性原理)とされており、このイメージスキーマを媒介項と捉えることはできる。また、レイコフと並ぶ認知言語学のもう一人の始祖ラネカーは、多義語の研究の中で、上位概念であるスキーマを介した意義拡張として隠喩を捉えている。

※4 この段落の記述は、鍋島弘治朗『日本語のメタファー』、籾山洋介『実例で学ぶ認知意味論』を参考にしている。

※5 鈴木氏の定義によると、類推とは「ターゲットに類似したベースの要素を、ターゲットに写像する認知活動」。なお、鈴木氏は、自身の準抽象化理論と概念メタファーを補完関係にあると捉えている。

※6 筆者は傑作だと思うが、なぜか岩崎氏の自選作品集『幸福を見つめるコピー 完全版』に採用されておらず、『日本のコピーベスト500』(2011年刊)にも収録されていない。

※7 松尾和子&和田弘とマヒナスターズの「お座敷小唄」より、「富士の高嶺に降る雪も、京都先斗町に降る雪も、雪に変わりはないじゃなし、溶けて流れりゃ皆同じ」。

<参考図書>

佐藤信夫『レトリック感覚』『レトリック認識』『レトリックの意味論(意味の弾性)』(講談社学術文庫)、『レトリックの消息』(白水社)

瀬戸賢一『よくわかるメタファー』(ちくま学芸文庫)

楠見孝編 森雄一 他『メタファー研究の最前線』(ひつじ書房)

鍋島弘治朗『日本語のメタファー』(くろしお出版)

籾山洋介『実例で学ぶ認知意味論』(研究社)

鈴木宏昭『類似と思考』(ちくま学芸文庫)

楠見孝『メタフォリカル・マインド』(有斐閣)

『認知言語学大事典』(朝倉書店)

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(早川書房)

見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書)