今回は、書簡の「往復」は、お休みして、もう一度、詩について自分なりに考えてみたい。吉本隆明は、『言語にとって美とはなにか』(一九六一年)を書き始める直前に、「詩とはなにか」という小文を発表する。このあたりから、改めて考えてみよう。
吉本は、『言語にとって美とはなにか』で詳しく説明する「自己表出」という概念を使って、詩の本質を解明しようとする。
わたしたちは、詩をかくという意識状態がある緊張した放出状態のつづきであることを体験的にしっている。これは、いわば意識をたえず叫びの状態でみたし、言葉をその状態でうら貼りしながら表出していることを意味している。これは、わたしたちが言語をもたず、ただ有節の音声だけしかないとしても表出しなければならないはずの意識の自発的叫びであり、それは詩が発生のときもっていた初原的な形での芸術だということができる。詩はいつもこれ以外の形を散文の方へふりわけることによってじぶんを醇化してきたものとかんがえてさしつかえない。(『詩とはなにか』思潮社、2006年、36頁)
このことが当たっているかどうかはべつとして、たしかに散文的な文章が何かを描写している(指示表出)ように思えるのに対して、詩はもっと詩人の叫びそのものである(自己表出)かのようだ。それを「叫び」と言っていいかのどうかや、言ったとしても、その「叫び」が何であるかは、不問に付せば、そうかもしれない。何か(自己)が、表出する(叫び)のかもしれない。
そして、このことをつぎのようにも言う。
詩をかく状態では、「海」とか「河」とか「恋人」とかいう指示性のもっともおおきな言葉でさえ、意識の自己表出の状態で発せられるといえる。その憑かれた状態は詩の発生のときの初原的なこころの状態をはらんでいるようにみえる。また、とおい未来の言語の行手をもはらんでいるといえるかもしれない。ハーバート・リイドが「作詩過程にあっては、言語は、詩人の強烈な精神状態に応じて、同じくらい明確な力を持つ独立した客観的な“もの”として、意識にのぼってくるのである。」(『現代詩論』和田徹三訳)といっているのは、詩の言語が自発的な表出としてあらわれることをいいたいのにちがいない。(同書、37頁)
詩人自身の意識の自己表出としての詩においては、言語は“もの”であって、何か他のものを記述したり(指示表出)、ほかの何かを意味したりはしない。それは、詩人自身の初源的な叫びであり、叫びであると同時に、言語そのものが“もの”になり、その“もの”そのものが表出されるというわけだ。
そして、本人も詩人である吉本は、詩を書き終わったときの感じをつぎのように表現する。
また、この充実感や放出感は、憑いた感じに似ている。神憑った(ママ)のでもなければ、狐が憑いたのでもなく、イデオロギイが憑いたのでもなく、自然が憑いたのでもなく、自己が自己に憑いた感じである。(同書、39頁)
詩人の憑依による言語化は、「自己が自己に憑いた感じ」なのであって、何か他のものを意味したり(指示表出)、詩人が自身の気持を吐露(単純な自己表出)したり、などというのでもない。しかも、この憑依は、リイドがいう言語の“もの”化によっておこるのだ。言語の“もの”化こそが、吉本の言う自己憑依のことだと言えるだろう。
私流の言い換えをすれば、これは、「ことばがことばに憑依した」ということになるだろう。詩人という魂のなかで、言語が本来の“もの”になり、その“もの”が、“ものそのもの”としてごろっと現れるのが、この憑依現象だと言えるのではないか。詩人の自己は、その憑依がおこる場所を提供しているにすぎない。
吉本は、つぎのようにも言う。
この自己が自己に憑いた感じは、まさしく詩の言語が、たとえば名詞のように事物を指す言語でさえ意識の自発的な表出としてかかれていることに対応している。(同書、39頁)
ここで言われている「意識」は、もちろん、詩人という人間の意識のことであろうが、しかし私に言わせれば、これは、言語そのもののもつ「意識」とでもいいたいものだ。この意識は、「もの」(ことばの憑依体)となった<ことばそのもの>が、われわれの意識の場をかりて、現れている現象を指しているだけだからだ。だからこそ、名詞のような指示表出を第一の働きとする語さえも、すでにその働きを失い、憑依体としての「もの」(もののけ?)になっているのだ。
吉本は、あきらかに、このことと対応している事態、つまり、散文と詩のちがいをつぎのように簡潔に述べる。
ひとくちにいえば、散文は想像的現実であるが、詩は想像的なもの自体であるということだ。(同書、42頁)
とてもわかりやすい。散文は、想像力を駆使して、ある特定の現実を創りあげる。もちろん、それが言語芸術であるからには、散文も、われわれが住むこの「現実」(そんなものがあれば、の話だが)とは乖離した想像の産物だ。しかし、詩は、そのような想像による現実もつくらない。詩は、「想像的なもの自体」なのだ。形も色も筋も何もない不定形の<想像そのもの>の渦巻状態とでも言えるだろう。「カオス」と名づけられる以前の<カオスそのもの>と言ってもいいだろう。
これが、“もの”そのもののうごめく場(詩の成立する場所)ではないのか。吉本は、言語の三つの位相を、とてもクリアにまとめている。
現実の社会で交通の必要からとびかわされる生活語の世界を第一の現実とすれば、散文芸術の世界は第二の想像的な現実であり、詩の世界は第三の想像的な根元であり、詩をかくということはこの第一の現実において、第三の想像的な根元、自己が自己に憑く状態に励起されることである。(同書、45頁)
つまり、詩の世界は、われわれの生活語の日常世界の二層下の「想像的な根元」の領域だということになるだろう。
比喩についても、吉本は、面白いことを語っている。つぎのように言う。
修辞学は直喩や隠喩や提喩や……の別があることをおしえる。しかし、詩の本質は、喩にはひとつの本質があり、それは像的な喩と意味的な喩のいずれかのアクセントをひいてあらわれることをおしえるのである。(同書、53頁)
「像的な喩」と「意味的な喩」とは、何だろうか。北村太郎の詩を例につぎのように説明していく。
彼は一九五〇年にインターンを終えた
若い開業医である。彼の
サファイアの瞳にうつるのは、貧しい
病める器である。 (北村太郎「pride and prejudice」)「サファイアの瞳に」は、古事記の「沫雪の 弱る胸を」とおなじようにあらわれている。しかし、古事記の歌謡で直喩的な「沫雪の」は、現代詩人北村太郎の「サファイアの」では、隠喩的である。しかし、わたしにいわせれば、「サファイアの」が、像的な喩であることが重要なのであって、直喩か隠喩かはけっして重要なものではない。サファイアの像(イメージ)が、「瞳」という言葉に当り、それが「瞳」という表現の自己表出性をたかめている。(同書、53-54頁)
「サファイアの像(イメージ)」が「瞳」という言葉に「当る」という。イメージが言葉に当る。ここで吉本の言う「当る」とは、どういうことなのか。
「サファイアの瞳」という隠喩のばあい、瞳がサファイアのようにかがやいているというのでもなく、瞳がサファイアで造られているということでもない。まさしく「サファイアの瞳」そのものであっても、サファイアという言葉のもつサファイアの像が、瞳の像と直結する。それは像が像に当って表現性をたかめる。(同書、54頁)
イメージ、あるいは、語が、ほかの語に「当る」のであって、譬えたり、説明したり、意味を重層化したり、べつの意味になったりするわけではない。語が語に「当って」表現性をたかめるのである。「サファイア」という語が「瞳」という語に当る。たしかにイメージが「当る」のだが、語とイメージとは、べつものとして分けることなどできない。だから、あきらかに言語だけの世界で起こる事態だとも言えるだろう。私に言わせれば、「当る」とは、言語の世界で、「サファイアの瞳」という「もの」になるということなのだ。
このような事態こそ、吉本の言う「喩」の本質であり、想像的なもの自体の領域(詩の世界)で起こっていることだと言えるだろう。だから、いわゆる「隠喩」と「直喩」とのちがいも、つぎのように説明していく。
いいかえれば、「サファイアの瞳」は、わたしのいう想像的な表出そのものでありうるのにたいし、「サファイアのような瞳」は、想像的な現実にほかならないのである。(同書、55頁)
「サファイアの瞳」という隠喩の領域、つまり、語が語に直接「当っている」場こそが、詩が生成してくる場所なのであり、「サファイアのような瞳」という直喩の世界は、散文的な領域だということになるだろう。
さて、この吉本隆明の考察を前提にして、いま私が一番注目している(後飯塚僚以外で 笑)詩人・小笠原鳥類の詩を見てみよう。
最初の詩集<素晴らしい海岸生物の観察>のなかの「腐敗水族館」の最初の六分の一ほどをまずは引用してみる。
暗い人形のガラスの棚は、のように数年間放置され、コンクリートも生きた魚礁・魚醤、腐敗水族館・あえかなくさっていておかしい、やわらかくくる緑色の寒天ゼリーみずうみ、湖・完全水槽、紫色の湖・水槽全集緑色の怪物という。ブロッコリーが浮かぶ、海底から沼になっていて、中で、脚を持ち上げて廊下を私たちは歩く。持ち上げられる、置かれた肉色金属のテリーヌ。冷たい、ゼリー寄せ、冷えたオードブルである、やわらかい、ひっひっの野菜も置かれた。食器の磁器が。液状粉末が肉色にひっひっ、わたしはやわらかくくるという、皮膚付着も害はないが緑色の逃げた。あらゆる船の上で、お魚を元気に食べる。歯は食べる。健康のための、健康によい青白い並んだポップコーン、砂の上のゼリー。人工魚礁・人工魚醤、緑色ゼリー巨大水槽。水から見える、緑色の眼が動いた。動いている、意外に大きなものが沼の中で潜ってしまったという、水はスープであった。(『小笠原鳥類 詩集』思潮社、二〇一六年、11頁)
吉本の言う「想像的な現実」に結実するようなイメージや語群は、ここにはない。つまり、直喩的なわかりやすさは、ここには微塵もない。多くのはっきり形にならない像以前の像たちが、ほかの言葉に「当り」、跳ねかえされて四散しつづけている。「、のように」「あえかなくさっていて」「やわらかくくる」「ひっひっ」などの品詞や意味からも解放された原液が流れていく。
たしかに「私たち」や「元気に食べる」や「健康のための」など、われわれが慣れ親しんだ言葉たちもときどき顔をのぞかせるが、しかし、それらはもはや、これら(意味以前の)原液のなかでは、日頃の親しみやすさはなく、何者か得体のしれない不気味な異貌をさらしている。
物質(もの)として語たちは生き生きと蘇り、おのずと屹立し、塊としてゴロゴロころがりつづけていると言えるだろう。これが、詩の本来の姿なのだ。言葉たちは、安易な関係性のなかでの都合のいいイメージやうわっつらの意味などとは、きっぱり絶縁している。
ほかの詩も見てみよう。同じ詩集の、ややわかりやすい(?)「怨念が鬱積する」の二つの部分をとりだしてみよう。
ここで、怨念が鬱積し、捕獲に使用する鋭い爪のある、水の生物が水から出て来ることは期待だ。このようにして怪物は水から出て来る。アライグマが、水に関連する鋭い生き物である、ということについて何か言いたいと思った。動物は強靭な、破壊する、ではない、あらゆるものを破壊してしまいたい、建築物を破壊したい、いつまでも、ええ、今でも鬱積する。緑色の、水槽が何かを言うのではないだろうかと思った、緑色の。人が深呼吸すると、暗い場所で、紫色の斜めの機械・奇怪がいくつか見えるようだ。宇宙で活躍する、記録する機械に似ているかもしれない。紫色の鋭い、あざやかな線が画像に、次々に健康に出現し、いろいろなことがわかると思った。(同書、21頁)
アライグマを洗う。アライグマが動かない、白い、健康な、ここで怨念が鬱積している、動きたいと思っている、歩く、これから動くことになるだろう、模型であったとしても標本であったとしても、内部が白い充実した、重い綿であったとしても、だが現時点ではまだ動いていないので、水の中に入れ、持っている人が腕を動かしていると、切り裂かれた見事な、実際には切り裂かれず、くねくね丁寧に内部まで観察され、見える腹から、紫色のさまざまな内臓が次々に出てきて、複数の内臓を洗っていた、いろいろなオーケストラだった、このようにして弦楽器を形成すると思った内臓が、水に洗われて、精密によく見えるようになった。(同書、23頁)
この詩には、わかりやすい主人公が登場する。「アライグマ」である。アライグマについて、さまざまな角度から記述されている。アライグマという現実の生物のイメージが、小笠原鳥類によって、つぎつぎと細かく切り刻まれ破砕されていく。「緑色の、水槽」や「紫色の斜めの機械・奇怪」や「宇宙で活躍する、記録する機械」が登場し、アライグマそのものを四分五裂させ、液状化させ、さらには逆に、強大な化け物にし、べつの強固な完全体にもしていく。
アライグマが、わかりやすい現実の世界(そんなものは、本当はない)に存在しているかのように思いこんでいるわれわれの錯覚を的確に指摘している、とも言えるだろう。アライグマは、「怨念の鬱積の建築物のような、腐敗が生き生きする暗い、ゆっくりとした液体が入っている容器」(同書、22頁)に入っているのであり、そこからとりだして洗わなければならないのだから。それが、<本当のこと>なのだから。
アライグマという、いわば「反面イメージ」があるからこそ、この鳥類の詩は、「腐敗水族館」よりもイメージしやすいだろう。しかし、そのことによって、われわれの住み慣れた(虚構の)現実(いわゆる「リアルな」などと言われているもの)がより深く剥がされていくことになるだろう。そして、われわれが知っていると思いこんでいる「アライグマ」という存在は、この詩の最後で「怨念が鬱積している」という動詞によって定義される。この詩の最後の一文は、「ここで、怨念が鬱積している、怨念が鬱積している―」なのだから。
さて、小笠原鳥類は、いったい何をしようとしているのか。
『現代詩が好きだ』(ライトバース出版、二〇二四年)のなかでは、「動物」という冒頭の文章で、自分が目指していることを、つぎのように赤裸々に(?)語っている。
愛読する詩を一つ。吉岡実「動物」(詩集『サフラン摘み』青土社、一九七八、一二八~一三〇ページ)。図鑑の解説でもあるような、ある動物についての記述、という形式に支えられた多彩なイメージが展開し、言葉によってのみ存在し得る新しい動物が創造される。その動物は、ここに、いるのだけれど、読者の頭の中で決して明確には画像化されず、読者はこの詩の解かれない謎に取り付かれるだろう。
からだを中心で折って
毛や骨をテーブルの下へ置き
さびしい巣の方へ
ゆっくり歩いてゆく
<動物>とは
いったいなんだろうか
いつまで眺めていても飽きない、動物(たとえば鳥)の魅力、謎、に取り付かれている私は、魅力、謎のある詩―—動物そのものである詩――を書きたい。これまでに書かれた詩から多くのことを学びつつ、新しい動物を創造していかなければならない。(12頁)
「魅力、謎のある詩――動物そのものである詩――」を小笠原鳥類は書こうとしているのだ。「動物そのものである詩」とは何か。もちろん、「何か」という問いに対して、わかりやすい答がでるなどいう馬鹿げたことはありえない。「動物そのものである詩」という名詞を、われわれが日常つかう言語に着地させてならない。
「動物そのものである詩」とは、吉本の言いかたをかりれば、「想像的な表出そのもの」であり、私の言葉をつかえば、「自己指示の塊」の領域にあるものなのだ。ようするに鳥類の言う「言葉によってのみ存在し得る新しい動物」であり、言い換えれば、何も意味していない<ただのことば>なのである。

