後飯塚さんの「狂っていくテレパシー(3)~幼形成熟体~」、良かったですね。その前の回(1)(2)について中村さんが「『自己指示の塊』(物質としての言語そのもの)に私的な記憶が付着している」と書き、私が「詩の理想にはたどり着けなくても、中井久夫のいう“ゆらめく世界”を感じることはできるかもしれません」と書いたことへの、(3)は応答と読めます。中村さんが言う「自己指示の塊」とは、通常の言語コミュニケーションでは言葉が外界の事物を指示していると想定されているが、本当はそんなものはなく、発話者の記憶を言葉の中で指し示しているにすぎない、ということでしょう。言葉は個人の記憶が封じ込められた塊。その証明として「(3)~幼形成熟体~」があり、また、私へは「これが“ゆらめく世界”だよ」と教えてくれているように思えました。本来なら秘すべきであろう幼形の作を開陳してくれて、ありがとう。そうした幼形進化の事態を、松岡正剛は「遅ればせ」と『世界のほうがおもしろすぎた』で語っていましたよ。

 とはいえ(3)は、実は『病める舞姫』より文脈がつかみづらい感じがします。『病める舞姫』は風景としての場面がある程度イメージできるが、(3)は風景が解体している。それでも何となく伝わる感じがするのは、後飯塚さんの若い頃を私が知っていて、「自己指示」の指し示すところがうっすら見えるからでしょうか。例えば次のような文。らしいなぁと、思わず笑ってしまいました。

偶然、他人が骨を折る音を聞いたが、それが病みつきになって、身体中の骨を残らず叩き折って、酸素をストローで吸っているような発育を、何度か繰り返してきたわけだが、その度に、手を抜かれて、いや、手を抜いて、発育したためか、後ろ指や寝首などという、忌まわしい器官に代用されている<略>そういう手続きを必要としない身体は全て皮膚にして、一緒に育ってきた骨格の人体模型に着せてしまって、借用したものだけで済ませている。

 そして中村さんに言わせると、(1)(2)では「自己指示の塊(語)が、他の自己指示の塊(語)と関係をもつことを毛嫌い」している。後飯塚さん本人も将棋倒しに喩え、「読点でみじん切りにされた文字列は、意味やイメージを形成するかと思うと前に倒れて、次のイメージへ雪崩込んで、自己破壊を繰り返し、最後に至る」と解題する。私が書いた言葉では「“外延なし・内包のみ”の詩の理想」(※1)です。読み手が外延(指示対象)をつかめず、めくるめく内包の変転を感受する。私もこれから老境に入り、耄碌して固い頭も柔らかくなれば、それができるかもしれないと期待しています。

内包の変動性・先行性と、外延の安定性・後続性

 さて、今度の私の回では、前回の文で分析装置として唐突に導入し、まともな説明もしなかった「内包・外延」について立ち入って考えます。言葉は何かを指し示すとともに、その指示対象の理解・解釈を表している。それを言葉の内部構造として見るために、前者を外延、後者を内包と言い換えました。そのうえで、内包は流動的なために、不安定な状態を嫌う私たちは外延によって内包を固定しがちで、この外延の固定化を解除するのが詩であり『病める舞姫』だと述べました。これは、内包の変動性・先行性、外延の安定性・後続性を言っており、その根拠を説明したいのですが、はたして成功するかどうか? さらに、この内包・外延の作用をレトリック分析に用いた佐藤信夫に学び、隠喩から言葉を解放する方法を探ります。

 私が用いる「内包・外延」は、伝統的論理学の定義に基づいています。内包=言葉が適用される事物に共通する性質・状態の総体。外延=内包が適用される事物の集合。内包によって外延が決まり、外延によって内包が決まる。内包・外延は相互規定であり、表裏のような関係です。ただし、伝統的論理学では内包・外延を“生物-動物-鳥-カラス-ハシブトガラス”といった図鑑的な分類体系として捉えているようで、しかし実際の言葉はもっと幅広く奥深く柔軟なものでしょう。「トイ人」のインタビューにも登場した哲学者の野矢茂樹先生は、言葉が表す概念について、『語りえぬものを語る』で、「典型的な物語」を込めて見ること、と述べています。(※2)

鳥のプロトタイプとは現実に存在する鳥ではなく、われわれの通念上の鳥なのである。つまり、ふつうの鳥について語られるふつうの事柄──羽と嘴をもち、空を飛び、卵を産み、鳴き、ある鳥は水面を泳ぎ、ある鳥は渡りを行い、ペットとして飼われているものもいるし、あるいは人間の食用にされるものもいる、等々──の全体である。~ そこで私は、プロトタイプに関わるわれわれのもつ通念を、「典型的な物語」と呼ぶことにしたい。~ ある概念を理解するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語を理解することなのである。(p.401)

 この引用の中で重要だと思うのが「等々──の全体である」の指摘です。p.410では「典型的な物語は芋づる式に、というよりも竹林の根のように、あらゆる方向へと伸び、網目状に絡み合うものとなる」「ある概念が開く典型的な物語は世界全体に広がっている」と書きます。野矢氏は犬を例に説明していますが、鳥に置き換えると、鳥に関する典型的な物語は、さらに、ふつうの鳥がいるふつうの場所、ふつうの鳥が食べるふつうの餌、ふつうの鳥がつくるふつうの巣、ふつうの鳥を飼うふつうの家庭など隣接する典型的事象へと延び広がり、「鳥」の概念を豊かにしていきます。

 野矢氏がプロトタイプの観点を参照した認知言語学では、語の意味を「その語から想起される(可能性がある)知識の総体」としています。前回の繰り返しになりますが、これは百科事典的意味観とよばれ、その知識にはフレーム(※3)や背景知識、さまざまな捉え方、個人的な体験も含みますから、とても広大で茫洋としたものです。野矢氏は、そこに「典型的な物語」という「初期設定」(p.405)のレイヤーを置いたわけです。言葉を使う際、あるいは何かを見る際に、まずは典型的な物語のフィルターを通して捉え、それ以上関心が高まらなければ別の言葉や事物に関心が移り、もっと詳しく見たければ具体方向のレイヤーに移る。典型例がなぜ初期設定になるかというと、言葉はそもそも抽象的で一般的なものだから、鳥なら鳥一般を代表する「典型的な鳥らしい鳥」(p.398)をその物語の主人公に据えるためです。

 そして、初めは典型的な物語の網の目で捉えられた世界も、具体レベルに移れば、鳥から海鳥へ、海鳥からカモメへとズームインし、カモメの典型的な物語として把握され、世界は別のレイヤーの網の目で見られます。ズームインの方向を変えれば、羽、嘴、足、心臓、骨……と部分へ、ズームアウトすれば鳥がとまっている木、森、山が視界に入ってきます。また、鳥を見る人によっても鳥の見え方が異なります。豆を植えた農家にとっては害鳥と、ペットショップの店員にとっては商品と見えるでしょう。「鳥を飼う」ときは飼われる鳥として鳩や文鳥やカナリヤを、「鳥を撃つ」ときは撃たれる鳥としてキジや鴨を、「鳥が騒ぐ」ときは群れ騒ぐ鳥としてカラスをイメージするでしょう。「鳥を真似る」と言えば鳥の仕草を、「鳥は恐竜から進化した」と言えば系統樹上の鳥を示すでしょう。「鳥になりたい」と言うときは、空を飛ぶ鳥であって、卵を産む鳥ではないでしょう。私などは「鳥を埋める」という言葉で昔飼っていたインコのトンガとキクちゃんを葬ったときのことを思い出します。こうした個人的な記憶も、中村さんが語るように言葉には付着しているでしょう。

 「鳥」という単一の言葉からさまざまに展開する概念の運動。のちに参照する佐藤信夫は、こうした概念の運動を「意味の弾性」や「自己比喩」とよびました。

 認知言語学では、「個々のコンテクストによって、ある語の百科事典的意味の一部が活性化される」(『認知言語学大事典』p.109)と説明します。そこで活性化する意味とは、まずは性質や状態であり、その理解や解釈であるというのが私の考えです。「鳥を飼う」の言葉で、典型的な鳥は「飼われる鳥」へと内包(性状)がより詳しくなって膨張し、その膨張運動を固定するために「鳩」という外延(集合)を与えて限定する。典型的なふつうの鳥から、関心や文脈次第で内包が膨張したり収縮したりし(変動性・先行性)、その変化を(特に視覚的な)イメージとして定着させるために外延が限定されたり拡張されたりする(安定性・後続性)と私には見受けられます。

 なお、野矢氏は「典型的な物語」を内包とはよんでいません。しかし、前記の氏の論考は、分析哲学系の言語哲学が伝統的に意味を外延的に捉えていると批判し、それへの反論として提示しているので、ちょっと我田引水ぎみに引用させてもらいました。

内包はコト、外延はモノ

 次に、「内包・外延」を「コト・モノ」と対応させて考えてみます。内包はコト的であり、外延はモノ的であり、だから内包の変動性・先行性と、外延の安定性・後続性が生じるという趣旨です。援軍はないかと探すうちに、中村さんが「トイ人」で連載した『哲学者は何を言っているんだ?』の「27~33.日本語と哲学」に教えられ、「コト・モノ」の考察が和辻哲郎の『続日本精神史研究』と長谷川三千子先生の『日本語の哲学へ』にあることを知り、読んでみました。

 長谷川氏は、和辻の語る「こと」「もの」が、ハイデガーの「存在」「存在者」を日本語で的確に捉えていると評価する一方、翻訳語にとどまっていると批判しています。それでやや気落ちしつつ『続日本精神史研究』の中の「日本語と哲学の問題」を読むと、ありました、私が求めていた記述が。

例へば『赤いといふこと』は、或るものが『赤くあること』によって、この『赤きもの』に於いて実現せられてゐる。(p.447)

 ここで述べられた『赤いといふこと』は、「赤いと云う言」です。それは、直前のp.444で「『目前に起こった事といふこと』は、『云はれたこと』として(即ち言として)一般的なことである」と説明していることから分かります。「言」は、コトによって、モノにおいて(一般的に)実現されているのだと和辻は語っています。文中の「よって」「おいて」の意図するところは、p.419にある「『こと』は『もの』に属すると共に『もの』を『もの』たらしめている基礎である」との記述を参照すると、コトは、モノをともなって出現すると同時に、そのモノのあり方を規定しているということでしょう。

 和辻の論は、木村敏が『時間と自己』で語っていることと重なります。木村は、「ことことばによって語り、それを聞くことによって理解する以外にない」(p.15)としつつ、「われわれは『落ちる』ということを眼で見ることはできない。見えているのはあくまでリンゴであり、その落下である。~ 眼には見えないけれども、われわれはそれを確実に経験している」(p.11)と述べます。

 ひとつの言葉にコトを表す側面とモノを表す側面があり、コトがモノの現れ方を決め、モノがコトを実体化させる。「赤い」コトは、赤いモノや赤色というモノ化された色彩に、「落ちる」コトは、落ちるモノや落下というモノ化された運動に結びついてイメージされ、実体的に把握される。ここから、コト/モノが、内包(性状)/外延(事物の集合)と相同であると考えられると思います。内包がコト性を帯びて、外延がモノ性を帯びて発現すると見なせるのではないでしょうか。

 しかし、和辻と木村があげた例は、そもそもコトを表す形容詞や動詞です。モノを表す名詞の場合はどうでしょう。名詞におけるコトはどう発現するのか、以下、木村が『あいだ』であげている事例を参照します。

 木村は、ハエがしきりにぶつかっている窓ガラスを前にして「『窓ガラスというもの』は、もはやなまのままの『もの』ではない」と語ります。「それを『窓ガラス』と見、『窓ガラス』と言うことによって、私はその『もの』を私の生活世界の──ハエの生活世界とはまったく違った──複雑な意味関連の中に位置づける」(p.150)とし、つまり記号としての「窓ガラス」と捉えたうえで、「『窓ガラスというもの』であるという『こと』が成立してきた」(p.151)と断言します。その「こと」とは、以下のような「こと」です。

それが大きいという「こと」、うっかりぶつかると怪我をするかもしれないという「こと」、その向こうに美しい庭が見えているという「こと」、外は寒いのに窓ガラスを閉めておけば室内は温かいという「こと」、これらすべての言葉は、窮極的には私の生存への関心によって規定される実践的な世界関与の目で、私が窓ガラスを経験している「こと」を言い表している。(p.156~157)

 物は、知覚する人の関心に応じて「こと」として経験される。これらの「こと」は、目の前にある具体的な窓ガラスについて言われていますが、そう認知する手前には、窓ガラスの典型的な物語としての把握があるはずです。すなわち、ガラスという硬く、板状で、表面がなめらかで、透明で、冷たい物でできており、枠や取っ手があり、窓にはめられている。暑ければ開け、寒かったり雨が降ったりすれば閉める。これら初期設定の性質・状態や使い方も「こと」として把握されているはずです。名詞で表される言葉も、コトが根底にあるのです。

 では、コト・モノから見た内包の変動性・先行性、外延の安定性・後続性はどう考えればいいでしょうか。これについては、中村さんの『哲学者は何を言っているんだ?』(32)の記述に頼りたいと思います。

 中村さんは、長谷川氏の『日本語の哲学へ』にある次の結論に同意しています。

本当のところは、「もの」も「こと」も、どちらも「時間的」なのである。ただ、「こと」が時の到来し出現する、その「つぎつぎになりゆく」側面に目を向けているのに対して、「もの」は、出で来ったものが過ぎ去ってゆく、その後姿を眺めやっている。(p.232)

 その同意の前提として述べた次の文が、私の考えを支えてくれているように感じました。

この連続的世界を最初に切りとり分節化する際の語は、「こと」であり、これは生成変化する連続状態から、その瞬間の出来事をとりだし、「こと」(事・言)と名づけるというはたらきをする語である。そして、その「こと」が、瞬間の出来事だというだけではなく、繰り返し起こり、固定的な物(「もの」)や不変的な原理・法則になったとき、その「こと」は、「もの」という言い方へと変化する。

 内包はコト性を帯び、コトは生成変化し連続する世界を瞬間的に切り取っているから変動性を宿している。一方、外延はモノ性を帯び、モノはコトの生起が反復されて固定化・抽象化されたものだから安定している。う〜ん、我ながら、かなりの牽強付会でしたね。この内包・外延とコト・モノの相同性のテーマは、これからも考え続けます。暫定的な結論とさせてください。

佐藤信夫について

「内包・外延」を提喩と隠喩の構造分析に用いたのが佐藤信夫(1932-1993)です。若い読者には馴染みがないと思うので簡単に紹介します。

 佐藤がレトリック研究に革命をもたらしたことに異論をはさむ研究者はいないと思います。古代ギリシアの昔からレトリックは言語表現に説得力と魅力を与える技法とされていたところ、佐藤は「発見的認識の造形」(『レトリック認識』p.12)と捉え直しました。同書から引用します。

常識的なことばづかいによっては容易に造形されえない発見的な認識は、やむをえず常識からやや逸脱した表現を必要とする ~ そればかりではない。言語表現がときどき見せる風変わりな姿態は、ある意味では言語表現一般の底にひそむ本質的な仕組みを考察するたよりになるかもしれない(p.18)

 レトリックが効果を生むとすれば、それは受け手の、ひいては人間の言語的認識がそもそもレトリカルに働くからであり、レトリックの型を追及すれば言語の本質に迫れる。その研究成果は、認知意味論(認知言語学の分野)を先取りしているとされています。

 佐藤の著書に認知言語学への言及や参照はまったくありません。佐藤が病に倒れ研究活動を停止したのは1987年。認知言語学が日本に紹介された時期と重なり、すれ違いだったようです。

『認知言語学大事典』でまるまるひとつの章を佐藤の業績紹介にあてた瀬戸賢一先生は、佐藤の8冊の単著について「それらは個別的にも総合的にも認知言語学的であり、かつその枠を豊かに超えでる可能性をもつ。しかし現実を直視するならば、その功績が専門家の間でも十分に評価されているとは言い難い」(p.502)と嘆いています。その継承されていない功績のひとつに、「内包・外延」を提喩・隠喩の分析装置に用いる方法があると私はにらんでいます。

 と、ここまでで今回書こうとしていたことの半分ほど。残りは次回にします。

<次回予告>

●佐藤信夫による提喩・隠喩の構造分析(内包・外延を用いて)

●隠喩にしないで提喩で止める

●隠喩における文脈外しの可能性

●『病める舞姫』の「けむり虫」

●「おいしい生活」の隠喩を解除する

<脚注>

(※1)“外延なし・内包のみ”は、読み手にとっての詩の感じ方であり、書き手にとっては、中村氏が“言語は私的な記憶が付着している自己指示の塊”と言うように外延はあると思われる。中村氏の指摘を受け修正したい。

(※2)野矢氏は、『語りえぬものを語る』で「相貌」をキーワードとして提示している。「相貌とは、あるものをある概念のもとに知覚することである。~ 相貌を知覚するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語をそこにこめて知覚することにほからない」(p.402) 今回の私の論では、この「相貌」に触れない範囲で引用を行っている。

(※3)日常の経験を一般化することにより身につけた知識の型。

<参考図書>

野矢茂樹『語りえぬものを語る』(講談社学術文庫)

『認知言語学大事典』(朝倉書店)

中村昇『哲学者は何を言っているんだ?』(トイ人)

和辻哲郎『続日本精神史研究』(岩波書店)

長谷川三千子『日本語の哲学へ』(ちくま新書)

木村敏『時間と自己』(中公新書)、『あいだ』(ちくま学芸文庫)

佐藤信夫『レトリック認識』(講談社学術文庫)