意外と遅れてない日本
――次に日本の状況についてお聞きしていきたいのですが、西洋の学問が日本に入ってくるのはやはり明治以降ということになりますか。
国策として組織的に取り入れたのはそうですが、それ以前、特に18世紀の半ば頃からは長崎の出島を介して入ってきた蘭学の研究が盛んに行われていました。1720年に徳川吉宗が漢訳洋書(編注:西洋の学問書を宣教師たちが漢文に翻訳したもの)の輸入制限を緩和したため、当時の江戸には西洋の医学(解剖学)や天文学などについてかなりの知識を持った人がいたようです。『解体新書』を翻訳した杉田玄白と前野良沢、『蘭学事始』を著した大槻玄沢、エレキテルを復元した平賀源内などが有名ですね。
日本は古来、中国の学問を積極的に取り入れてきたわけですが、17世紀から18世紀にかけて日本独自の学問も発展しています。「和算」はその代表例で、ほぼ同時代に確立された微積分法の一部に匹敵するほど高い水準にあったようです。そのため、明治になって西洋の数学が入ってきたときに、比較的すんなりと理解することができたと言われています。
――江戸時代には土壌が整備されていたんですね。それもあって明治維新以降、西洋の学問を迅速に吸収し、短い期間で近代化に成功したと。
日本が先行する西洋の技術や制度を取り入れて近代化したというのはよく言われますし、そういう側面があるのも事実ですが、一方で、西洋と同時に近代化したと捉えた方がいい部分もあります。先ほどもお話した通り、西洋の大学は19世紀以降、宗教の統制から解放されて世俗化していき、産業化や近代国家の形成に対応する研究機関としての性格を強めていくのですが、それとほぼ同じタイミングで日本も東京大学を設立しています(1877年)。
また、小学校の無償化が実現したのはフランスが1881年、イギリスは1891年であるのに対し、日本は1907年なので、実は20~30年ほどしか遅れていません。時差はもちろんありますが、分野によっては一般に思われているほど「進んだヨーロッパと遅れた東アジア」という構図ではなかったと言えます。
――それは意外でした。明治政府はドイツを近代化の手本にしたという話もよく聞きますが、これはドイツが当時のヨーロッパでは後発国だったので、同じ後発国として参考にしやすかったからですか。
そう言っていいと思います。工業化が最も早かったのはご存知のようにイギリスですが、中世から続く多くの都市国家の集まりであったドイツ(神聖ローマ帝国)は法制度などが統一されておらず、近代的な中央集権国家の成立ではイギリスやフランスなどに遅れをとっていました。その後神聖ローマ帝国が解体され、プロイセンがドイツを統一すると同時に急速な工業化を進めていきます。その過程において大学が重要な役割を果たしていくわけですが、日本も江戸時代は藩という国の集まりだったので、工業化だけでなく、国の統合という面でもドイツの事例は参考になったのではないでしょうか。
エリート官僚の養成機関
――ご著書では日本の大学が、まずは法学と工学の実務教育を目的につくられたと書かれていますね。近代国家をつくる上でその二つが特に重要だったということですが、西洋の大学とは成り立ちが全然違うんだなと改めて思いました。
日本は西洋列強と不平等条約を結ばされていたので、法律に関する知識を急ピッチで輸入しなければならないという危機感があったのは確かだと思います。工学に関して面白いなと思ったのは、西洋と日本では都市の道幅がぜんぜん違っていたらしいんですよ。あっちは馬車が通ることを前提に大通りが作られていたので自動車に切り替わった後も割とそのまま行けたらしいのですが、日本は馬一頭とそれを引く人が通れるくらいの道幅が一般的だったので、まずはそれを広げることから主要都市の再開発が進められたそうです。
大学に関して言うと、日本の大学は近代化のためのインフラという位置づけであったり、エリート官僚の育成を目的にしていたという点で、当時イギリスの植民地だったインドの大学とかなり似ています。もちろん、インドは宗主国のイギリスが主体であるのに対し、日本はあくまでも日本人が主体だったという違いはあるのですが、最近読んだ歴史書には西洋による植民地化と並行して西洋型の大学が広がっていったという記述があり、その事例として日本も挙げられているんです。
――つまり西洋にとっては、日本も植民地のひとつのように思われていたと。
完全な植民地ではないにせよ、それに近い感覚だった可能性はあると思います。こうした記述がなぜ重要になるのかというと、近年の特に英語圏の歴史研究では、15世紀の大航海時代以降、西洋文明が世界各地に進出したことで、先住民の文化や知識体系を破壊してしまったという贖罪の意識があるためです――カナダやオーストラリア、アメリカ、アフリカといった地域では先住民の子どもが西洋人に誘拐されて寄宿舎に入れられ、強制的にキリスト教の教育を受けさせられた例が多数報告されています――。
日本では明治以降、むしろ「ぜひ来てくれ」といった感じで西洋文明を招き入れ、自ら進んで近代化したという意識が強いのであまりこうした議論にならないのですが、琉球やアイヌの人びとへの同化政策を省みる上でも、われわれと西洋の歴史観を見比べてみることは重要だと思います。
――先ほどドイツの大学における学問の自由のお話がありましたが、日本の大学がエリート官僚の育成を主な目的の一つとしていたのだとすると、国家からの干渉を受けやすい環境だったということが言えますか。
そう言える部分はあると思うのですが、日本の学問の自由について歴史的に調べている人が少なくて、はっきりしたことはわかりません。ただ、私が見た範囲でも、戦前の帝国大学の教員たちの中にはドイツに留学したりして、学問の自由についての知識を持っている人は少なからずいたようです。そのため、1933年に京都帝国大学で起きた「滝川事件」のように、学問の自由が侵害された際に教員が抗議の辞任をしたという事例は複数あります。その頃は法整備が間に合っていないので結局は国に押し切られてしまうのですが、かれらの知識と気概には畏敬の念を覚えます。


