教会と大学

――ご著書『文系と理系はなぜ分かれたのか』によるとヨーロッパで大学が定着したのは12世紀頃とのことですが、そもそも大学はどういう経緯でできたんですか。

 大学の歴史を語る上では教会の存在が非常に重要です。中世のヨーロッパ世界における学問とは主に教会の周りで行われており、聖職者や弁護士、医者を育てるためのものだったと言っても過言ではありません。また、真理は聖書の中にあると考えられていたので、それを読み解き体系化していく神学が学問の最上位に置かれていました。

 この構図自体は基本的に近代まで受け継がれていくのですが、11~12世紀になると十字軍の遠征等をきっかけに、イスラム世界に伝わっていた古代ギリシャ・ローマの知識がヨーロッパに編入されます。アリストテレスの自然哲学や倫理学がその代表であり、こうした書物を研究しようとする人たちが自発的に集まってできたのが大学です。そのため、ボローニャ大学やパリ大学といった最初期の大学は、公立の機関というよりはギルドのような組合組織だったようです。

 このときに問題になったのは、新しく入ってきた知識と聖書の記述に齟齬があるということでした。アリストテレスはキリスト教が生まれるずっと前の人物なので当然なのですが、たとえば聖書には宇宙は神が創ったと書かれているのに対し、アリストテレスの議論では宇宙は永遠で始まりも終わりもないとされています。大学はこうした食い違いを調停していたようです。

――新しい知識が入ってきても、聖書が真理であるという前提は覆らないんですね。

 そうですね。中世には古代ギリシャ・ローマだけではなく、アラビア辺りの文献や天体観測の記録なども入ってくるのですが、大学はその中からキリスト教の世界観に合うものだけを選択的に取り込むゲートキーパーのような役割を果たしていました。キリスト教の信仰と古代ギリシャ哲学の統合を試みた「スコラ哲学」の議論は現代から見ても驚くほど精緻ですが、その一方で、異世界の議論をいかにして聖書の記述に落とし込むかという、いわばゴールありきの議論である感は否めません。

 ただ、13世紀のパリ大学には、今日の学問の自由につながる萌芽も見ることができます。キリスト教世界には信徒の共同体を組織化する「教区」という行政単位があり、そのトップである司教には大きな権限があるのですが、パリ大学では教授たちが司教の意向とは無関係に教員を選ぶことを、当時のローマ教皇が許可していました。カトリック教会という大きな枠組みの中にあること自体は変わらないのですが、地域レベルの支配からは脱していたのです。

ルネサンスの成果

――14世紀以降のヨーロッパではルネサンスが本格化していきます。ルネサンスというと美術のイメージが強いですが、学問への影響という点ではどんなことが言えますか。

 14~16世紀における学問や文芸において重要なのは、それらが当時のヨーロッパの共通語であるラテン語ではなく、その土地その土地の言葉でなされたという点です。たとえば、人文主義の先駆けとされるダンテの『神曲』はトスカーナの方言で書かれています。

 16世紀のイタリアでは、都市のわりと富裕な人びとがサークルのように集まり、科学や文学、芸術、医学、演劇、魔術といったさまざまな事柄について自分たちの言葉で語り合う「アカデミー」が生まれました。教会と大学の外に、さらに自由な学問の場が生まれたわけです。

 当初のアカデミーは社交と研究が入り交じったスタイルで、学問談義の後は音楽を奏でながら晩餐会をするのが一般的だったようです。その背景には、あらゆることを学んで万能な知識人になるというルネサンス期の理想があり、大学ではできないことをやるというのが活動の中核にあったと思われます。

――ちなみに宗教改革って15世紀でしたっけ?

 本格的になるのは16世紀ですね。歴史にルターが現れるのが1517年なので。

――あ、そうでしたか。宗教改革の動機の一つが聖書を自分たちの国の言葉で読むことだったと聞いた覚えがあるので、いまのお話と通じるところがあるように思いました。

 つながりはあると思います。歴史的にはルネサンスをイタリア・ルネサンスと北方ルネサンスに分けて考えることがありますが、ルターらの宗教改革はまさに北方ルネサンスの一端です。

 ルネサンス期には文芸の復興だけではなく商業も劇的に進展し、それに伴って経済構造が大きく変化しました。銀行業で巨万の富を得たメディチ家が芸術家や学者を支援したのはよく知られていますが、北方(現在のベルギー、オランダ、ドイツ周辺)でも織物業などの商業が発展し、都市文化が大いに栄えています。

 一方で当時の教会は、聖書に利子をとってはいけないと書かれていることから、商業活動に制約をかけていました。しかし商人たちはスコラ哲学的な詭弁を弄してそれをかいくぐり、実質的には利子をとって儲けるということが横行していたようです。その結果メディチ家のような大富豪が生まれ教会との癒着関係が築かれるわけですが、ドイツ語圏のあたりでも商業活動が進展しすぎて司祭のポジションが事実上お金で買われるような事態になっていました。あとは有名な贖宥状(免罪符)ですね。

 こうした一連の動きや施策を教会の堕落であるとみなした人びとが、聖書を文献学者のように読み込み――文献学の方法が確立されたのもルネサンス期です――、自分たちの頭で考えて新しい宗教を立ち上げたのが宗教改革だと言うことができます。ルネサンスが、神ではなく個人としての人間を中心とした視点の獲得によって近代を準備したという意味で、ドイツにはルターの出現を近代の始まりとみなす議論もあります。

常識 VS 観察

――ルネサンスの末期には「近代科学の父」と呼ばれるガリレオが登場しますが、彼の学問はそれ以前の学問と何が違うんですか。

 教科書的には、ガリレオには二つの要素がそろっていたと言われています。一つは「世界像の数学化」、もう一つは「実験・観察の重視」です。

 このどちらか一つだけであれば古代にもあり、前者に関していえば、プトレマイオスの天動説が有名です。これは幾何学を駆使した非常に精緻な理論モデルで、その正確さゆえに1400年以上にわたって真理とされてきましたが、観測の精度を上げていくと理論との齟齬が生じることが明らかになりました。後者で代表的なのは、古代中国の天文学です。「天人合一思想」が信じられていた古代中国では高精度かつ継続的な天体観測が行われており、紀元前の記録を見ると既に太陽の黒点が記されています。しかしプトレマイオスとは逆に、数学的な理論化という点では弱かったという評価が一般的です。

 これらに対し、望遠鏡などによって精度の上がった観測結果を数学的に表現していくのがガリレオの手法であり、それが近代科学の基礎となったというのが通説です。

――ガリレオはアリストテレスともよく対比されると思うのですが、この両者の違いについてはいかがでしょう。

 アリストテレス本人がどう考えていたかはあまり詳しくないのですが、ガリレオと同時代のアリストテレス主義者(大学でアリストテレスを論じていた人びと)はおおよそ、人工的な実験や観察の結果より、日常の経験を経て人間の頭に直感的に浮かぶ常識の方が正しいという考え方でした。人間は神の被造物なので、その頭に自然に浮かぶ知識は神が与えた真理の可能性が高い、という考え方です。

 たとえば木の球と鉄の球を落とした場合、空気抵抗が無視できれば同時に落ちるわけですが、多くの人は重い鉄の球の方が先に落ちると感じてしまう。これは今風に言うとわれわれにそのようなバイアスがかかっているということですが、アリストテレス主義者に言わせれば、神が与えた知性でもって常識的にそう感じるのであれば、その方が正しいということになるわけです。

――直感に依拠するということであれば、天動説が正しいとされてきたこともうなずけますね。

 彼らはガリレオが重視した実験に対して、それは自然に人工的な手を加えて観察されただけの現象であり、自然の真の姿ではないといって反論したと伝えられています。他にも、望遠鏡を使って見えるものは本物か、つまり肉眼で見えないものを信じていいのかという論争もあったようです。

――そうしたアリストテレス主義が教会の主流派だったため、ガリレオは異端審問にかけられて(1633年)地動説を放棄させられてしまったと。

 異端審問の主因が地動説を支持したことであるのはたしかですが、背景にはガリレオを保護していたメディチ家の政治力の低下や、対立していたドミニコ会による訴えといった複数の要素があったと言われています。