この世を良くする思想
――18世紀は「啓蒙の世紀」と呼ばれますが、その元となった啓蒙思想はざっくり言うとどういう考え方なんですか。
近年一般的になっているのは、この世を良くしていこうとする思想であるという捉え方です。啓蒙思想にはいろいろな思想家の議論があってまとめるのが難しいのですが、神様やあの世に救いを求めるのではなく、自分たちで考えてこの世を変えていこうという点は共通していると考えられています。
――個人的には人間の理性と自由を大事にする思想みたいなイメージでしたが、世の中や社会全体のことまで視野に入っているんですね。
最大公約数的に言うとそうなるということであって、クローズアップされるのはいま言われたように、自律した個人が理性的に考えて行動するという部分です。思想家でいうとヴォルテールやロック、あとはルソーなどですね。ただ、ルソーは良くも悪くも弱い人で、人間はそんなに理性的には生きられないみたいなことをぽろっと言ってしまうのでちょっと微妙ですが……。
――三権分立を提唱したモンテスキューなんかは、この世を良くするという定義がわりとしっくりきます。
そうですね。ただ彼は貴族などの特権階級を許容・肯定していたため、個人の自由を全面的に擁護したとは言い切れない部分があります。啓蒙思想家のなかにも古い体制に従順だった人はそれなりにいて、ヴォルテールも王様がいること自体は認めていたりするんですけど、大まかに言えば、人間はより良く生きられるということを前提に、あの世ではなくこの世を良くしようと考えたことは共通しています。
――進歩主義的だったと。
その点は重要で、中世ヨーロッパの人びとは自分たちの文化や学問が古代ギリシャ・ローマの水準を超えて発展するとは思っていませんでした。これには聖書が現世を古代の黄金時代からの堕落として描いていることなどが影響していますが、18世紀以降はこうした歴史観が徐々に塗り替えられていったと言えます。
――つまり、聖書や教会の影響力が弱まっていったということですか。
長い目で見るとそうなんですけど、18世紀の初頭はまだ宗教的な世界観の方が圧倒的で、神や聖書を信じないなどと大っぴらに言うことはとてもできない感じだったようです。
たとえば、当時のフランスの思想家たちは正規の出版ルートではなく、オランダやドイツで印刷した「地下出版」や手書きの文章によって互いの思想を交換していました。内容は「異教徒も異教徒なりに幸せだ」とか、現代の感覚だとごく当たり前のことだったりするんですけど、この程度のことでも地位のある人が言うと大問題になっていたようです。
ただ、信仰や道徳の問題に対する教会の目は厳しかったのですが、自然科学に関しては17世紀の後半、つまりはガリレオの異端審問の数十年後には、教会があれこれ言える感じではなくなっていました。というのも、さっきお話したアカデミーを王権が取り立てるようになり、王立の科学アカデミーが生まれるんです。フランスとイギリスが早いのですが、そこではある程度自由な議論を王が保障していたので、地動説くらいでは教会が口をはさむことはできなくなっていました。
――教会と王権の対立構造によって、ある意味では学問の自由が実現したと。
地域による違いも大きいのですが、宗教改革が起きた国では検閲が事実上廃止されたので、さっきもすこし触れた通り、出版自体は自由にできるようになります。ただ、出版した後にあれこれ言われて差し止められるということ普通に起こりえました。他方、フランスやイタリア、スペインといったカトリックの国々では教会の検閲と王権の検閲の両方があり、両者が自分たちのシマを守るために競り合うような状況になっていきます。なので、学問の自由という感じではないですね。
人間が決める道徳
――18世紀の終わりから19世紀にかけては経済学や社会学といった新しい学問が生まれてきますが、これらは「この世を良くする」という啓蒙思想の影響を受けていると考えられますか。
影響は絶大だったと思います。というのも、今お話した科学アカデミーは、人間社会のこと、とくに道徳の議論は一切しない組織なんです。
――王権に庇護されているのでめったなことは言えない。
それもあるんですけど、17世紀の哲学者というのは――デカルトやフランシス・ベーコンでさえ――、道徳については基本的に宗教に従うんですよ。神がつくった二つの書物があり、一つは聖書でもう一つは自然そのものである。われわれの仕事は後者を読み解くことであり、前者は神学者に任せるべきだ、というのが彼らの考えです。なので聖書に明確な記述がない道徳やしきたりのかかわるテーマ、たとえば同性婚は是か非かといった問題はそもそも扱うことができない。
これに対して啓蒙思想家は、既存のアカデミーでは扱っていない人間理性や道徳感情、公共の利益といったテーマに積極的に取り組みました。道徳や社会のルールについても人間が自分たちの経験やデータから考えて決めていく(あるいは発見していく)のでよいという考え方が、啓蒙思想において可能になりました。。これは観察や経験に基づく科学的なアプローチを、自然だけでなく人間や社会にまで広げた営みの一環という部分もあり、後の経済学や社会学の誕生につながったと考えられます。
――神や常識に頼っていてはダメだと。
そうですね。ただ、これに対する反対意見も当然あって、たとえば、19世紀に福沢諭吉が『学問のススメ』を書く際に参照したとされるフランシス・ウェーランド(1796-1865)というアメリカの学者は、道徳に関することは観察や経験ではなく、神が直接人間に与える啓示的な知識(特に聖書)やそれにともなう常識に依拠すべきだと考えていました――ただし福沢はこの問題については触れていません――。こうした発想はいまも根強く、現代のトランプ政権の支持層である福音派とも親和性があります。
――社会学を創始したオーギュスト・コントは科学が宗教の代わりになると考えていたそうですが、これはまさに神からの自立という啓蒙思想の文脈で捉えることができそうですね。
これにはフランス革命の影響が非常に大きいです。革命前の絶対王政では、「第一身分」である教会(や聖職者)が実質的に信者として市民を把握し、教育・福祉を肩代わりするなど、かなりの程度、国家のインフラとしての役割を担っていました。その体制、いわゆるアンシャンレジームが革命によって打倒されたため、政治的判断や道徳の基準を聖書や教会に頼ることができなくなったわけです。
もうひとつ重要なのは社会的なつながりの喪失です。革命によって国家と民衆の間にあった中間共同体が取っ払われた結果、社会が混乱し、宗教が持つコミュニティをつくる力をまざまざと思い知らされたのです。こうしたことが要因で、宗教に代わるものをつくらなければという強い思いが生まれたと考えられます。
ただ、これは割とフランス特有の文脈で、イギリスはピューリタン革命によって一旦は王の首を切ったものの後に王政を復活させ、中世の封建的共同体やその名残を残存させたまま近代化していきます。アメリカは一つの大きな国というより複数の州がそれぞれ国のように機能しており、その中には強固な宗教コミュニティが維持されていて、各地域の慣習も多く残っています。なので、一口に「欧米」と言っても、国ごとの違いはかなり大きいですね。
二つの自由
――中世の大学は広い意味では教会の枠内にあり、東方からの新しい知識と聖書の記述を調停するような役割も担っていたというお話がありましたが、啓蒙思想はそうした大学のあり方にも影響を及ぼしたと言えますか。
そう言っていいと思います。18世紀の半ば以降、各地で哲学する自由や言論の自由の問題が表面化していきました。大学の事例で有名なのは、ハレ大学で起きたクリスティアン・ヴォルフという哲学者の追放事件ですが、啓蒙思想の代表格であるカントも筆禍事件に見舞われています。彼はプロイセンにある大学の教授だったのですが、1790年代に、政府によって宗教に関する言論や出版を禁じられてしまいました。この時期のドイツ語圏では、プロイセンなど宗教については比較的自由に発言できるようになっていたのですが、政権や地域によって状況はかなり違いました。
その後プロイセンはナポレオンのフランスに敗れて地域によっては支配を受けるわけですが、そんな中でヴィルヘルム・フォン・フンボルトが国家からの学問の自由を掲げてベルリン大学を設立します(1810年)。そこでは、大学は国家の干渉を受けずに真理を追究する場であるという理念のもと、諸学を束ね指導する学としての哲学と、それによる人格陶冶(とうや)が重視されました。
こうして19世紀以降は宗教による大学への圧力はだんだんなくなっていくのですが、現代の学問の自由のレベルに達するには、第二次大戦が終わるのを待たなければなりません。
――19世紀と現代とでは何が違うんですか?
現代における学問の自由は、個々の学者が自由に発言できるという「個人の学問の自由」だけでなく、そうした学者を大学やアカデミーがちゃんと守れているかどうかが問われます。「制度的な学問の自由」という言い方をしますが、要は大学やアカデミーの自治ということです。学問の自由の萌芽として13世紀のパリ大学の例を挙げましたが、教会や国家といった権力から自立し、自治的な運営が可能になって初めて、組織内の学者やその発言を守ることができるわけです。
このような考え方は1930年代のドイツには既にあったようですが、制度としては確立されておらず、そのうちにナチスが台頭してきます。大学はナチズム(国家社会主義)を実現するための機関へと改造され、多くのユダヤ人教師が大学から追放されました――現象学を創始したフッサールもその一人です――。こうした事態への反省を踏まえ、ドイツ(西ドイツ)は1949年の「ドイツ連邦共和国基本法」において、制度的な学問の自由を保障したという経緯があります。


