自由民主主義とは
――まずは自由民主主義についてお聞きしたいと思います。戦後の日本はほとんどの期間でこれを党名に掲げる政党が政権を握ってきたわけですが、そもそもはどういう思想なんですか。
政治制度としての自由民主主義は、アメリカや西欧を中心として第二次大戦後に広まった政治思想・体制ですが、元を辿れば自由主義と民主主義という、実は起源も内容も異なる制度が巧みに結合したものだということができます。
自由主義はジョン・ロック(1632-1704)やアダム・スミス(1723-1890)らに由来していて、ごく簡単に言えば個人の生命や私有財産、精神的あるいは経済的自由を重んじる思想です。一方の民主主義は古代ギリシャのポリスに遡ると言われていて――異論ももちろんありますが――、戦争や外交といった国家に関わる重要な事は大勢―実際には成人男子市民だけですが―で決めようという考え方です。なので、民主主義の反対は何か問われると、ただ一人の王やごく少数の貴族だけで物事を決めてしまう王政や貴族制ということになります。
この自由主義と民主主義が、産業革命以降の市民権や選挙権の拡大などをきっかけに結びついたのが自由民主主義です。この両者は今ではまるで不可分なもののように思われていますが、ドイツの政治学者・法学者のカール・シュミット(1888-1985)はこれを強く批判しています。
――自由主義と民主主義は相容れないと。
その例としてシュミットが挙げているのは議会です。議会は国家規模で民主主義を実現するための仕組みであるという認識が現代では一般的ですが、近代議会の起源は17世紀のイギリスにあり、元々は王権に対抗するための装置でした。王様が好き勝手に課税したりできないように制約したり、王様に請願することが議会の役割だったんです。つまりこれは権力者に対して自由を要求する自由主義に属するものであり、それを民主主義にくっつけて議会制民主主義ができたわけですが、そもそもが国民による意思決定のためのものではないので、政治的な物事を決めていくのには向いてないと。
――政治に参加する人が増え、直接民主主義が規模的に不可能になったから議会ができたと思っていましたが、もともとは王の権力への対抗手段だったんですね。
議会は個々の権利を主張するのには有効かもしれないけど、国を治めるためには意思決定をしなければならない。そのためには決断する主体が必要であり、それこそが主権者だというのがシュミットの考えです。といっても王権に戻せと言っているわけではもちろんなく、彼は民主主義自体は評価しています。
――民衆が主権者であること自体は認めていると。
シュミットは、民主主義が機能するには集団の同質性が必要だと言います。たとえば言語が同じでなければ、人びとが意見を一致させることは難しいだろうと。ただ、シュミットには同質性をそのまま同一性にスライドしているきらいがあります。実際には言語が同じだからといって、考え方まで同じになるわけではありませんよね。その二つを一緒にしている所があるように思えるんですけど、いずれにせよ、政治的な決断を下すには共通する何かを持った「友と呼ぶべき集団」が必要であり、実態としては民族や国民がそれである、というのが彼の議論です。
これを踏まえると、絶対的な権力にNOを突き付けて個人の自由を守る自由主義と、似たり寄ったりの人びとが自分たちの社会のあり方を決める民主主義が噛み合わないというのは、一理あるように思います。
食い違う論理
シュミットの批判とは裏腹に、自由民主主義は戦後の世界を席巻していきました。それにはファシズムへの反省や福祉国家の形成、植民地からの独立の進行、冷戦とソ連の崩壊といったさまざまな要因がありますが、近年になって自由主義と民主主義の齟齬(そご)が広く議論されるようになっています。
理由のひとつは、新自由主義の台頭とそれに伴う経済のグローバル化です。世界全体を市場とみなし、あらゆる物事を経済合理性で計ろうとする新自由主義において、各国の政府や国境はヒト・モノ・カネの自由な流通を阻害する障害に他なりません。新自由主義はこれらの「抑制」から解放された資本主義といえるわけですが、民主主義の観点から見ると小さな政府は民主主義と結びついていた福祉や公共事業の縮小を、グローバル化は国民という集団意識の低下を招きかねません。
民主主義はほとんどの場合領土が前提となるので、国境を越えてモノが自由に売り買いされる経済のグローバル化とは相性が悪い。トランプ大統領は関税で調整しようとしているのかもかもしれませんが、サプライチェーンが全世界に複雑に張り巡らされている現代では限界があると思います。つまり、この物品には高い関税をかけるとか、あの国からは輸入しないといった政治による意思決定が新自由主義の原理とぶつかり、結果として自国の国益を棄損することになってしまう。
二つめは再分配をめぐる議論です。シュミットが言うように民主主義には同質性を重視する側面があるので、その「友と呼ぶべき集団」の中では平等であるべきだという考えになりやすい。そのため、福祉国家のような格差の小さい社会が、所得が高く多くの税金を払う層からも、ある程度支持されるということが言えると思います。しかし自由主義の観点からすると私有財産は守られるべきなので、自分の稼いだお金が税金でがっぽり持っていかれるのはおかしい。それが自分に関係あることに使われるならまだしも、見ず知らずの人のところに行くなんて納得できない。これは自分の財産が略奪されているのも同然だとして、富裕層の不満が高まっていく。
――経済的な自由主義と政治体制としての民主主義のズレがどんどん大きくなっていったわけですね。
抑制の解かれた民主主義
もうひとつ言うと、自由主義の特徴は多様性を重視することだと思うんですね。個人は多様であり、さまざまな意見や価値観がある。それを否定するのではなく、互いの違いを認め合いながら共存するにはどうすればいいかということを、自由主義はずっと考えてきた。一方で民主主義にはさっきも言った通り同質性を前提とする面があり、特に1990年代後半から2000年代にかけては、人民(people)の同質性を前面に押し出すポピュリズムが台頭してきます。
民衆が主権者となる民主主義においてポピュリズムは否定できない一要素だと思うのですが、ポピュリストは仲間の同一性に固執し、それを受け入れない奴は敵だという図式をつくることが多い。最近の国内の政治を見てもわかる通り、価値観や意見の異なる政党やその支持者を「あいつらは敵だ」とみなし攻撃することで勢力を増していくのがポピュリズムの特徴です。
――対立図式は誰にでもわかりやすいし、「味方」からの支持を集めやすいと。
でもこれは、いろんな人がいていいし、いろんな価値観があっていいよね、という自由主義の思想と嚙み合わないのは言うまでもありません。こうしたことが要因で、自由主義と民主主義の間の緊張が高まり、その結合が弱まってきているということが言えると思います。
――先生はポピュリズムのことを「抑制の解かれた民主主義」と表現されていますが、これはどういう意味ですか。
国によって違いはありますが、おおむね1990年代頃まではポピュリズムが発生しないように、民主主義にある程度抑制がかけられていたと思うんです。たとえば複数政党制によって多様な国民の意見の受け皿を作り、簡単に「友か敵か」の二項対立に陥らないようにするとか、あるいは、アメリカのように民主党と共和党の支持者が激しく反発し合っていたとしても、両党のトップやエリートの間では一定のコンセンサスがあって、極端な対立を避けるといった調整が行われていました。
これはそれぞれの支持者への裏切りだと思うかもしれませんが、自由主義の観点に照らすと、民衆の意見からあえてずらしていると見ることもできる。民意をダイレクトに取り入れてしまったら、たとえば共和党が政権の座にある時には、民主党の掲げる政策や法案はすべて却下されるということにもなりかねません。
――そういう意味では、議会がひとつのクッションになっているわけですね。
そう思います。立正大学の早川誠先生は『代議制という思想』という本の中で、国民とのズレがあることに議会や議員の意味があるという議論をされています。ズレがあるからこそ、対立が極端なところにまでは至らない。つまり、議会が民主主義を抑制する仕組みとして機能しているわけです。
国民の声をしっかり聞かない政治家は普通に考えると批判されて然るべきと思われそうなんですけど、むき出しの民主主義には恐ろしいところがあって、第二次大戦の開戦を多くの国民が支持したことなども踏まえると、特に国民が熱くなっている状態では、それを鵜呑みにしないことも政治家には必要ではないかと思います。
――とりわけ今は自分の支持者の方だけを見て、その声に迎合する政治家や政党が目につきます。
政治家が民衆の声に迎合することもあれば、彼らが民衆の声を作り出す側面もあります。参政党の「日本人ファースト」などはその典型だと思いますが、こうした言葉によって政党やそのリーダーと支持者が直接つながってしまうと、議会がクッションの役目を果たすことができません。さっきも言った通り、「敵」を攻撃することで支持者を増やしていくのがポピュリズムなので、これが進行すると、議会でも社会でも分断と対立が煽られることになってしまいます。

