循環する贈与
――戦後、日本を含む多くの国で採用されてきた自由民主主義が、新自由主義やポピュリズムの台頭によって危機を迎えているというお話でした。これに代わる社会体制を考えていく上で、先生は柄谷行人の「交換様式論」を採り上げておられますが、それについて解説していただけますか。
柄谷さんの議論は、社会を上部構造と下部構造に分類し、政治的・観念的な上部構造は経済的な下部構造によって規定されるというマルクス主義の理論を引き継ぐものです。ただしその下部構造は、一般に考えられてきた生産様式ではなく、人びとの交換様式であるとします。この交換様式はA:互酬(贈与と返礼)、B:服従と保護(略取と再分配)、C:商品交換(貨幣と商品)、D:Aの高次元での回復の4つです。
交換様式Aは贈り物をするとお返しがもらえるということなんですけど、そこには一筋縄ではいかない問題があります。たとえば部族Aが別の部族Bに、自分たちが儀式で使っている腕輪を贈ったとします。もしそれがAからの初めての贈り物だとすると、Bはそれを受け取るかどうかすごく迷いますよね。素晴らしいものかもしれないけど、逆に呪いがかけられていて、自分たちに禍をもたらすものかもしれない――英語で「贈り物」を意味するGiftという言葉は、ドイツ語では「毒」という意味もあります――。かといって拒否すれば厚意を無下にすることとなり、下手をすると戦争になってしまう。
なので、贈り物をされるというのは実は非常に緊張を強いられる事態なのですが、仮に受け取ったとすると何が起こるのか。文化人類学の研究によると、BはAに別の贈り物を返すのではなく、それをまた別の部族Cに贈るという事例があるらしいんです。こうしてA → B → C → Dとリレーされていき、最後はAに戻ってくる。こうした部族間の贈り物の受け渡しによって形成される社会のことを、柄谷さんは氏族社会と呼んでいます。
――部族AとBとのやりとりではなく、BからCに行くというのが面白いですね。
現代の私たちの感覚だと理解しづらいですよね。あげた物がいろいろな人の所を渡り歩き、ある日ぜんぜん知らない人から返ってくる。しかも、贈り物が一周するのに何世代もかかることもあるらしいので、返ってきたときには自分は既に死んでいるかもしれない。なんでそんな非合理的なことをするのかと。
――仏教の「恩送り」にちょっと近いような。
まさにそうですね。恩送りのような発想と交換様式Aはすごく親和性があると思います。
――仏教の世界観とか価値観が浸透している社会であればわかるんですけど、そういった共通認識があまりなさそうな部族間で贈り物の連鎖が起きるのは不思議です。
『贈与論』を著したマルセル・モースによると、ニュージーランドのマオリ族の人びとは、贈り物には「ハウ」という霊が宿っており、ハウには持ち主の所に戻ろうとする力があるので、それによって返礼が行われると語っています。
柄谷さんはこれを割と素直に受け取っていますが、霊かどうかはともかく、曰く言い難い力だとは思います。贈り物が循環することで富の集中が避けられているとか、部族間の和平が保たれているという説明も可能ではあるんですけど、それはあくまで外部の観察者の価値観による解釈であって、実際がどうなのかというのはわかりません。
国家をつくる交換
――交換様式Bは服従と保護の交換ということですが……
これはつまり国家のことです。柄谷さんは交換様式Aの社会から次第に交換様式Bが支配的な社会に移行していくと言っていますが、そのときに、贈与の倫理に根差した交換様式Aのままだと国家は形成されにくいんですよね。
贈与には実は暴力的なものもあって、富をたくわえた部族の長が別の部族に対して返しきれない程の贈り物をしたり、時には財産を自分で破壊する「ポトラッチ」という風習があります。それによって相手を威圧し、自分の力を誇示するわけですが、結局はそれによって財産を失うので、国家の必要条件である富や権力の集中が起こりにくい。なので、交換様式Aを土台としながらも、そこから富や権力をため込む方向にシフトしていってできたのが国家、ということになると思います。
国家というのは物理的な強制力を持つ「暴力装置」であり、民衆の生殺与奪の権を握る恐ろしい存在です。一方で服従すれば、国家以外の脅威から自分を守ってくれる「保護者」でもある。この関係性を柄谷さんは、「服従と保護の交換」と表現しているわけです。
――ホッブズ的に言うなら、自然権の一部を国家に預けることの見返りとして、「万人の万人による争い」を回避するということですね。
そういうことです。国家に生殺与奪の権を握られるのは本当に恐ろしいことですが、それによってプライベートで財産を奪われたり殺されたりという危険性が格段に低くなる。そんなことをすれば今度はその人が国家に罰せられるので、それなら従おうと。そうやって服従する人が増えていくと、国家は更に力を増し、もはや誰も逆らえないほど強大になっていきます。
資本主義の刹那性
――交換様式Cの貨幣と商品の交換というのはわかりやすいですね。
これもやっぱり交換様式Aから分岐していったものですが、違うのは反対給付になっている点です。交換様式Aでは贈り物がA → B → C → D → Aと循環すると言いましたが、交換様式CではAからBに商品が渡ったらBからAにダイレクトにお金が返ってくる。なので、交換に要する時間が圧倒的に短い。「ツケ払い」みたいなこともありますが、基本的にはその場でやりとりが完結するので、一回しか交換をしない関係もたくさん出てきます。
たとえば、旅先のコンビニに入っておにぎりをレジに持っていき、お金を払って、ありがとうさようなら。その後その場所に行くことがなければ、同じ店員さんから買うことは二度とありません。つまり、交換様式Aが長い時間をかけて継続的な関係を構築するのに対し、交換様式Cは刹那的というか、その場限りの関係であると言えます。
「その場限り」というと聞こえが悪いですが、ポジティブな面もあって、お金さえあれば、しかもそれがドルのような基軸通貨であれば、世界中の誰とでも交換ができてしまう。言葉の違いも価値観の違いも問題にならない。相手がクリスチャンでもムスリムでも仏教徒でも、貨幣という共通項によって交換が成立するわけです。
一方でやはり、濃密な人間関係は生まれにくい。同じ神や教えを信じるとか、思いを共有するというのではなく、個々人が自分の利益を求めて交換するだけなので、共同体というよりはゲゼルシャフト的な、営利企業のような集団しか出来上がらない。なので、交換様式Cの資本主義が人間味のない、人間が孤立しやすい社会をつくり上げたのは、ある意味当然だと思います。
贈与とナショナリズム
――四つ目は問題の、というか謎の交換様式Dです。Dは「交換様式Aの高次元での回復」ということですが、これは何を意味しているのでしょうか。
まず強調しておくべきなのは、交換様式DはBの国家でもCの資本主義でもないということです。柄谷さんの議論のベースはこの二つを批判的に分析し超克しようとするものであり、その理由は、国家は戦争を、資本主義は恐慌を招くからです。
柄谷さんは個々の戦争にももちろん反対だと思いますが、次の戦争をどう防ぐかということより、国家がある以上、戦争は避けられないと考えているように思います。恐慌も同様に、次のリーマンショックを起こさないということより、資本主義が主流である間は恐慌は必ず起こると。なので、この国家と資本主義を乗り越えるものとして、交換様式D(=Aの高次元での回復)ということを言うわけです。
柄谷さんは、交換様式Aは古代の氏族社会であったり、仏教やキリスト教といった普遍宗教の中だけでなく、近代以降の社会でも復活してきたと言います。何かというと、ナショナリズムやファシズム、そしてさっきも話が出たポピュリズムです。ただしそれは、低次元での回復であると。
ナショナリズムやファシズムは国家に関係するので、交換様式Bの話だと思われるかもしれませんが、Bの「服従する代わりに保護してもらう」という関係が国民間の強い紐帯を生むというのはちょっと考えにくいんですよね。国民と国家はひとりひとりが個々に契約を結ぶタテの関係であり、これだけではヨコのつながり、すなわち共同体は生まれない。かといって、国民全員が顔見知りになることは規模的に不可能です。だからこそ、ベネディクト・アンダーソンは国民国家を「想像の共同体」と呼んだわけですが、その想像の共同体を維持する仕組みのひとつが贈与であると。
――どういうことですか?
たとえば地震や洪水に見舞われた被災地を支援するというケースを考えてみましょう。もちろん海外の被災地に寄付をしたり物資を送ったりする人もたくさんいますが、それ以上に「国民同士の助け合い」という語りは力を持ちやすい。政府が被災地の復興のために税金を上げると言っても、国民の多くは文句を言わないのではないでしょうか。
もっと極端な例は戦争です。徴兵され前線に送り出された兵士は、自分たちの後ろにいる国民や、国家そのものを守るために命をかけて戦う。言い換えれば、自分の命を贈与するわけです。これは交換様式Bではありえません。われわれは自分の命を保護してもらうことと引き換えに国家に服従しているのに、国家を守るためにその命を危険にさらすのは本末転倒もいいところです――実際、主権国家の必要性を説いたホッブズでさえ、生還が期待できないような戦場に送られたり、死ぬことを強要されるような命令を出されたら、スタコラ逃げてもいいと言っています――。
じゃあ、その命の贈与に何の意味があるのか。想像の産物でしかない国家や、同じ国民というだけで見ず知らずの人を守ることの返礼は何かといったら、つまるところ、国家や国民がこの先も存在し続けるということしかありえない。自分が死ぬことで、日本という国や日本人が「千代に八千代に」続いていく。こうしたネーションへの信仰こそがナショナリズムやファシズムの原理であると。
――ただしそれは交換様式Aの低次元での回復であって、交換様式Dではない。
繰り返しになりますが、柄谷さんが問題視しているのは交換様式Bの国家とCの資本主義です。この二つにAの低次元での回復であるネーションが加わって、資本=ネーション=国家という一つの体制をつくり上げている、というのが彼の見立てです。厳密にいうならば交換様式Aも問題視している、ということになります。つまり、交換様式A、B、Cはそれぞれ独立しているのではなく絡まり合っていて、人びとはその体制から抜け出せなくなっている。
このA、B、Cの力関係は時代や地域によって異なり、グローバル化が全盛の今日ではCが強くなっていますが、国家統制型の経済システムが採用されたソ連などではBが、民族共同体の復活を目指したナチスドイツではAが強くなる。いずれにしても、この3つが強固に結合したまま今日に至っているというのが柄谷さんの時代診断であり、それを突き崩すのが交換様式Dである、というわけです。

