――「眺望論」の同じ場所に立てば同じものが見える、同じ眺望が得られるというのはとてもわかりやすいですね。それで思い出したのは、姫路駅のホームに「ここから姫路城が見えます」という看板があって――いまもあるのか分かりませんが――、そこからだとちょうど建物の隙間にお城が見えるんです。それは私が見るとか、あなたが見るというのとは関係なく、世界のあり方ですよね。この世界の構造として、その場所からは姫路城が見える。

 私はよく山登りを例にして、頂上に立てば展望が開けるというふうに説明しています。これは、他人が見ているものは私にはわからないという考え方と違って、非常に健全です。この健全な考え方をいかにして不健全な人たちに納得してもらうかがポイントです。

 もう一つ、「眺望論」のような話をすると、じゃあ私というのはどこに行っちゃったのという話になるかもしれません。眺望論において私は対象との位置関係に関わってきます。私は歩いたり乗り物に乗って移動することで、対象との位置関係を変えるわけです。つまり私は、世界の中を動き回る行為主体なんです。

 『心という難問』ではスカイツリーの例を挙げました。電車に乗って浅草駅で降り、吾妻橋まで歩いて、橋の上からスカイツリーの方に顔を向ける。さらに言うと、まぶたを開く。そうするとスカイツリーが現れる。これはぜんぶ私の行為です。こうした「行為主体としての私」を私は完全に認めています。私が認めていないのは、スカイツリーを「見る私」です。電車を降りて吾妻橋まで歩き、橋の上に立って、そっちに目を向ければ、スカイツリーは見えてくる。それに加えて、私が見るなんて行為はないんです。

――あの本の中では「出会う」と書かれていましたね。

 そう。吾妻橋の上からそっちを向けば、スカイツリーの眺望に出会うんです。それは決して私の主観でも、脳みそが生み出したものでもなく、スカイツリーそのものに出会うわけです。私というのはそのように行為する主体であって、哲学がこれまで延々と立ててきた認識主観などではない。

 そういう認識主観としての私がなくなれば、認識主観としての他者も当然なくなるわけだから、他我問題は自動的に解消します。歩いていく私、歩いていく加藤さん、歩いていく他者というのは哲学的な問題、少なくとも他我問題を引き起こすことはありません。だから行為主体のレベルで、私とかあなたという主体を取り出していく。

 本来はここで、じゃあ行為主体とは何なんだということや、この身体が私の身体であって、他人の身体でないのはなぜか、といったことも考えないといけないんですけど、いまは措いておきましょう。道筋としてはとにかく、私と対象との空間的な位置関係、そしてこの身体、この二つで世界の現れを捉えていこう。そうすれば他我問題はなくなると。ここまでが私の議論の前半、プラス、私って何なんだってことに対する一応の答えです。

――いま現れている世界というのは、私が生まれる前からこういうあり方をしていたのではなく、私の行為や身体との相関関係によってこういうものとして現れてきた、ということでしょうか。

 その通りです。それに対して物理学がこれまで描写してきたのは――そして多くの人がそうだと思っているのは――この世界は客観的世界としてすでにあり、そこに人間がぽんと生まれてきたという世界像です。つまり物理学は、生物がいなくても成り立つ世界を描いているわけです。それは間違いではないかもしれないけど、血の気のうせた、抽象の産物でしかない。私は世界そのものが、もっと豊かなものだって言いたいんです。

 そして、その豊かさを言うときに必要になるのは心です。ここまでの話には心が出てきませんでしたよね。じゃあ、心はどこに行っちゃったの? 心ってなんなの? という話になると、今度は議論の後半にあたる「相貌論」へと入っていきます。

相貌論

 眺望論において世界は、何度も言うようですけど、対象と空間と身体の関数でした。対象のあり方と対象との空間的な位置関係、そして身体状態を同じにすれば、私は他人と同じ眺望が得られる。同じ世界が現れてくる。でも実はそれだけでは足りない。

 人間の場合、つまり社会的な生活を営んでいるわれわれの場合には、同じ場所にいて、同じ方向を向いて、身体状態にも特に問題となるような違いが見いだせないにもかかわらず、同じものが見えないということが起こる。

 たとえばX線写真です。X線写真は素人にとっては、ただ白黒のむらがある画像ですよね。肺の形ぐらいは分かるけれども、ここに「まずいもの」があるとかっていうのはぜんぜん分からない。でも、専門家にはそれが見えるわけです。つまり、同じ場所から同じ対象に目を向けているのに、私と専門家では違ったものが見えている。そうなると、眺望論だけではすまないぞと。

――ふむふむ。

 じゃあなんで私と専門家で違うものが見えるのかといったら、その対象に与えている意味が違うんです。つまり世界の現れにはもう一つ、「意味」という要因が入ってくる。世界の現れをこの意味という観点から捉えるのが「相貌論」です。対象、空間、身体、意味。世界はこの四つのファクターで捉えきれるだろうというのが私の理論的な野心です。それ以外のものは必要ない。特に、私とかあなたといったものは絶対に入れてはいけない。

――同じ場所から、同じ身体状態で、同じ意味を共有し、同じ対象に目を向けたら、同じものが見える。

 そういうことです。で、多くの意味はすでに共有されています。たとえばこれは「机」という意味を持っていて、この机ちょっと動かそうとか、机の上にものを置かないで、と言えばすぐに通じますよね。それはどういうことかというと、現代の文化の下で生活している多くの人たちには、これが机として見えているということです。つまり、これが机だという意味が共有されている。

 だけれども、すべての意味が共有されているかというとそうじゃない。これは私がよく使うウソっぱちの例ですが、私が腕にしているこれを「時計」という意味で加藤さん(編注:質問者のこと)は見ている。現代の人であれば誰でもそう見るでしょう。

 でも、私はこれを、父親の形見――そこはウソっぱちなんですけど――という意味で見ている。これが父親の形見だなんていう意味は、加藤さんには共有されていない。それは私だけの意味づけです。だから、仮にこれをなくしちゃったら、加藤さんにしてみれば同じような時計を買えばいいじゃないですかというだけの話だけど、私にとっては取り返しがつかない。

 この、共有されていない意味づけが心と呼ばれるものなんです。もっと意欲的に言えば、心とはまさに共有されていない意味づけであって、他の何ものでもない。心とはそういうものだと考える。これが「相貌論」の一番のポイントです。

――他人の心がわからないのは、その人の意味づけを共有していないからだと。

 すると、その共有されていない意味づけを私は知ることができないのか、という他我問題がそこでも出てくることになります。画像診断の専門家には、同じX線写真において、私には見えないものが見える。たしかに私にはかれと同じものは見えないけど、それは原理的に見えないわけではない。勉強をしてキャリアを積めば、私にも見えるようになる。少なくともその可能性は残されているわけですよね。

 じゃあ結局、その意味づけというのは何かと言ったら、その対象にどういう脈絡を与えるか、その対象をどういう文脈の中で捉えていくかということなんです。私はそれを十把ひとからげに「物語」と言っています。

――物語によって意味が決まると。

 この時計の例で言うと、私の父はいつもこれを腕にしていたが、父の死によって形見として残され、私がいましている。こういう物語の中にあるから、この時計が私の中で独特の意味を持つわけです。そう考えると、これが机という意味を持っているのも、この上にものを置いたり、この上でメモを取ったりという物語、つまり、これがまさに机として使われるという物語の中に登場するからです。これがもしも、なにか別の物語に出てきたら――たとえばこの上でいつも人が寝ていたとしたら――、また別の意味づけがされるかもしれない。

 つまり意味を捉えるには、時間的要素を考えなければいけないんです。いまここだけではなく、過去からのどういう来歴があってこうなっているのか。その物語を共有することができれば、他人がそれに与えている意味、すなわち他人の心が私にも分かってくるだろうと。

 じゃあ他人と物語を共有することができるのかというと、さっきも言った通り、これが机として現れてくる物語くらいはすでに共有しているわけですよね。その上でさらに、話をしたり、同じ仕事場で働いたり、いっしょに生活したりするようになれば、共有する物語の範囲は広がっていく。逆に疎遠になれば、共有できる物語の範囲は狭くなっていくでしょう。

 だからこの物語というのは、共有できるかできないかの二者択一ではない。完全に共有することはできないけれども、まったく共有できないわけでもない。共有する範囲が増えたり減ったりするという、やわらかな構造を持っているわけです。

――心と言われると漠然としてつかみどころのない感じですが、物語なら共有するしないというのがイメージしやすいですね。

 こういう構造で心というものを取り出すことに成功しているとしたら、これはすごく大きなことです。心身二元論のように人間を内と外で捉えてしまったら、内は内、外は外ときっぱり分かれてしまう。ゼロかイチか、オール・オア・ナッシングになってしまうけど、物語であればその境界が揺らぐ。ある程度は共有できるけど、ぜんぶはできない。頑張ればもっと共有できるかもしれない。あなたとはもっと共有したい、または、あなたなんかとは共有したくない、ということが可能になるわけです。

 これは最初に言った、他人の心についての健全な考え方、つまり、ある程度は分かるけど、完全には分かりきらないというのをすくい取っていると思います。こうして、やっと、健全なところに戻ってくることができた。ここまで話してきたのが「眺望論」と「相貌論」という、私の議論のおおまかな筋道です。

――よくわかりました。

 さびしいのは、これは他我問題に悩んだ私みたいな人間からすると、そこから抜け出せてよかったと思えるんですけど、野矢さんの本の結論はなんですかと聞かれて、他人の心はある程度は分かるけれども、完全には分からないんだよって答えると、それはそうでしょうねってなるんです。それを言うためにあれだけ書いたのっていう、悲しい話になるんですよ。最初にいたところから落っこちて、あがいて、元に戻って終わるということなんで、結局、落っこちた人にしか喜びが伝わらない。