――さっきのX線写真の例でちょっと思ったんですけど、画像診断の専門家の目に現れるX線写真は、その意味づけを私とは共有していないということなので、それはその専門家の心だということになるんですか。

 そこは難しいんですよね。心というのはもっと個人的なものだというイメージがあり、専門家は専門家集団の中ではそのX線写真の意味づけを共有しているわけだから、それを心と呼ぶのはちょっと後ろめたい。一方、この時計が父親の形見だということが私の心の中に納まっているというのはしっくりくる。

 でも構造としては、いま言われた通り、どちらも同じです。つまり、私はこの時計に関して専門家なんです。違うのは、その専門家が集団ではなく、私一人だということ。心というのもいい加減な言葉なので、X線写真の場合にそれをどう呼ぶかというのは、もう呼び方だけの問題ですね。

――私と専門家ではその意味が共有されないけど、専門家集団の間ではそれが……

 共有されて、客観化される。

――そのX線写真を見て全員が「まずいものがあるね」と言うとき、その専門家集団の中でそれは、心ではなく眺望に、つまり世界の現れになるわけですね。

 それが際立って出てくるのは宗教的な場面だと思います。宗教集団の中の人にとって、たとえば神の存在は、心の問題ではなく、世界に属する事柄です。かれらにとって、神は客観的に存在しているんです。でも私のようにそういった宗教の外にいる人間にとっては、神はかれらの心の中にいると言いたくなるわけです。

――そこが面白いですよね。ある集団や共同体の中では世界として現れているものが、その外にいる人間にとってはかれらの心の中にあるものになってしまう。

 逆に言うと、こういう語り方ができるようになったのはメリットだと思うんです。人間を内と外にきっぱり分けちゃうような語り方よりずっと柔軟で、現実に近い語り方ができるんじゃないかと。

――たとえばあるビジネスマンがムスリムだとして、そのかれに仕事中に現れる世界と、礼拝しているときに現れる世界というのは違う世界だということになりますか。

 違う世界だと思いますね。

――そういうことですよね。

 世界そのものが多元化しているんだと思うんです。物理学が前提としてきたように、みんなが同じ一つの世界に住んでいるというのは無邪気過ぎる。でも、多元化してるといっても、みんながぜんぜん別々の世界に住んでいるというのも、単純で無邪気過ぎる。

 世界は圧倒的に多くの部分が共有されているんだけど、同時に世界そのものが共同体(や一人ひとりの人間)によって部分的に発散している。その発散した部分は、共同体の中の人にとっては世界そのものなんだけど、共同体の外の人には心と呼ばれるものになる。

――私にとっては世界そのものであるこの世界が、他人の観点からは物語を共有している「世界」と、共有していない「心」に分かれるわけですね。

 そういうことです。世界はそうやって、部分的に共有され、部分的に発散し、またその共有と発散の具合も大きくなったり小さくなったりする、非常にやわらかな、可塑的なものだと思うんです。

ノイズ

 ここまで話すと、もうひとこと言いたくなるんですけれど。最初の方で、外的な刺激によって石が温められたり、植物が育っていくのと同じように、人間も刺激の場の中で、刺激に反応しながら生きていくんだという話をしましたよね。

 でも、人間の場合は行動することによって、その刺激の場を世界へと秩序立て、さまざまな意味づけをしていく。そういうストーリーでした。じゃあ私たちは、私たちの置かれている刺激の場を100%秩序立てて、すべてに意味を与えているのかといったら、まったくそうじゃないと私は思っているんです。

――とおっしゃいますと?

 私はいま、部屋の中で、椅子に座っていて、机の上にはものが置いてあって……といったふうに意味づけされた場の中にいるわけですけど、そんな意味づけがまるでされていない、しかも他人の心という形で発散した意味さえも与えられていない、つまりはまだ何の形にもなっていない刺激がいまこの場にもあるのではないかと思うんです。それが私たちに働きかけて、私たちもそれに反応している。

――反応しているのに、意味づけはされていないんですか?

 意味になっていなくたって反応はできますよ。別に「汗」という言葉を知らなくても、暑ければ汗をかくわけですから。それも刺激に対する反応の一つですよね。環境とのそういう前言語的な、概念化されていない因果的な応接というものは、まだいくらでもあるんじゃないかと思うんです。

 そういった刺激のことを、意味がまだ与えられていないので「ノイズ」と表現したんですけど、決してネガティブな意味で言っているわけではありません。じゃあ、そのノイズってなんなの、見ることは、感じることはできるのって言われたら、見たり感じたりできたらもうノイズじゃないわけで。

――たしかに。

 ノイズを認知することは、原理的にできない。だからノイズなんかないでしょと言われると反論できないんですけど、ここはもう私の独断です。世界はノイズに満ちている。まだ私たちが秩序立てていない、意味づけしていないノイズが無数にあり、それが私たちに新たな意味づけを促す力として働いているんだと。そうじゃないと、私たちの意味づけが変化していくということが捉えられない。

 意味というのは変化していきます。たとえば歴史的な出来事でも、ある時代のある人の言動が、後から考えると別の意味に見えてくるようなことがありますよね。物事に対する意味づけは、そういう風に変化していく。

 だとすると、その変化を促す原資、リソースとなるような力がこの世界に蠢いていて、それが私たちに働きかけてくるのではないか。私たちは常に、意味にならないノイズにさらされている。これはもう独断でしかないんだけれども、そう考えずにはおれないんですよ。

――ノイズによって新たな意味が生まれ、その都度世界が更新されていくと。

 意味の変化は向こうから押し付けられてくる。もちろん、われわれの側から変えていくということもありますが、意味というのは大抵の場合有無を言わさず変わっていくものであり、こちらの意のままになるもんじゃないと思うんです。だからやはり、世界に何らかの力が働いているんだろうと。

 でも「ない」と言われたらそれまでなので、いいよ、私はあると思うからって、ぶつくさ言うだけですけれども。

――そのノイズというのは、潜勢力みたいなものでしょうか?

 ポテンシャル、なのかな。まあ、顕在化していないということではそうかもしれません。これはもう信仰みたいなものです。ノイズ信仰。というのは、秩序や意味というものにすべてを委ねてしまいたくないんです。世界はもっと無秩序なもの、無意味なものに満ちているはずだ。そうじゃないと、息が詰まるような気がしませんか。

――そういえば先生は坐禅もずいぶんされているそうですね。

 そこら辺が影響しているんですかね。坐禅を組んで意味づけをしようとすると怒られますもんね。私は哲学と坐禅は別ものだと思っていて、哲学はひたすら理屈をこねるから坐禅でそれを解毒、浄化するような気持ちでいたけど、坐禅の体験が哲学に滲み出てきているのかもしれません。

(取材日:2020年11月12日)