――先ほど全国の方言を調査したというお話がありましたが、上田萬年が標準語を人為的に、科学的につくろうとしたのに対し、柳田国男は自然に実現するものだと考えていたというのも面白いなと思いました。

 柳田国男にとって日本語は、日本という空間に密着した「統一体」として存在しているものだったようです。なので標準語は、人為的かつ強制的に押し付けなくても、話し手の「選択」と「同意」にまかせておけば自発的に実現すると考えたようです。

――柳田国男にとって日本人の同質性というのは疑いようのないものだったんですね。

 私は柳田國男の専門ではありませんが、そういう信念があっただろうと思います。ただ、書かれたものをよく読んでみると、同時に、複雑な気持ちもあったように感じます。柳田は、民俗学を確立するにあたって、民俗学の対象を近世から近代までの社会変化ととらえ、外部の視線を切り捨てました。柳田は日本内部においての調和した世界にのみ関心を注いだように思えます。ですから植民地政策などにはほとんど関心を向けませんでした。

――日本という国を所与のものとして捉え、そこにおける人びとの暮らしや文化にのみ注目したわけですね。

 人間は、つねに移動し交じり合いながら生きていく存在ですから、さまざまな出会いや文化の融合が起こり、領土の境界線も揺れ動き、引き直されるはずなんですが、国民国家を運営していく上ではそれだと困るんでしょうね。だから近代国家は、力によって領土を膨張させ、すでに所有した領土と膨張した領土を保持しようと努めるのです。その中で、学問や研究も、自由や真理を追求するためだけでなく、時代によっては国家を支えるために行われることもありました。

――国民国家の設立・運営という目的がまずあり、学問はそのための手段の一つだった。

 もちろん、多くの学者の意識の中には真理に対する畏敬の念があり、それを追求したいという純粋な志があったでしょう。ただ、国家のためとか、自分が属している共同体のためとか、という使命感や学界への貢献といった、(少々意地悪な見方をすると)政治的方向に傾く場合には、研究も変質してしまう可能性が高いような気がします。歴史を振り返ってみると、そのようなこともたびたび起きましたね。

――なるほど。

 研究というのは、真理の追究だとよく言われますよね。しかし、その真理というのは、社会や時代の背景といった文脈によってさまざまな側面を内包していると思います。ですので、他者を受け入れ、共感できることがとても大事だと思います。

 いまの時代のキーワードである「多様性」もこのような経験を積むことで実現できるでしょう。

朝鮮における言語政策

――1910年の韓国併合によって朝鮮半島が日本の統治下に置かれるわけですが、朝鮮半島における日本の言語政策というのはどのようなものだったのですか。

 その前にまず日本と朝鮮の関係についてお話すると、日本と朝鮮というのは、ヨーロッパの帝国と植民地の関係性とは、かなり異なるところがあります。ヨーロッパが支配した植民地は、たとえばアフリカやインドなど、植民地までの地理的距離が遠い場合が多いです。また、歴史的にもあまり関わりがなく、文化的背景も異なる場合がほとんどでした。

 しかし日本と朝鮮は地理的距離も近いですし、同じような文化圏に属し、昔から交流も軍事的な衝突もありました。そして朝鮮の場合は、ベネディクト・アンダーソンも指摘しているように、中央集権的な国家体制だったので、もともと近代的国家へと移行しやすい土台があったと言えるでしょう。

 19世紀末、世界列強の勢力争いの中、朝鮮も近代化に力を入れ始めた時に、日本の植民地になったわけですね。朝鮮の人びとからすると、突然大きな社会的、政治的変化を被るわけです。具体的に言えば、公共機関、たとえば学校なども朝鮮語とは違う言語、違う人びとによって営まれることになりました。当時は、「国際化」の時代でもなかったし、普通の朝鮮の人びとは戸惑い、抵抗したのは当たり前かもしれませんね。支配する側の日本も相当緊張したのではないでしょうか。

――日本による植民地政策はどのようにして行われたのですか。

 日本の植民地政策は、同化政策だといわれるのですが、同化政策は言語によるところが大きいです。まず、最初に確認していただきたいのは、1910年以降、朝鮮の「国語」は日本語になったということです。それも突然。

 朝鮮における日本の言語政策は時期別に異なります。簡単に整理しますと、三つの時期にわけて考えることができます。韓国併合翌年(1911年)に制定された「朝鮮教育令」では、学校教育はすべて「国語」である日本語で行うとされました。「朝鮮語及び漢文」という科目はありましたが、その教育令の第十条に示されたように、それは「国語教育」のための補助手段でした。1919年の三・一独立運動以降に発表された「第ニ次朝鮮教育令(1922年)」では、「朝鮮語」が独立した科目になりましたが、朝鮮語を教えるには、つねに「国語」との連絡を維持し、「国語」で話させるべきだと規定しています。1938年の「第三次朝鮮教育令」では、朝鮮語は正科から「加設随意科目」とされました。これは実質的には学校教育の場から朝鮮語を追い出したこととなります。

 これらは言語外的環境ですが、言語内的なことでいうと、日本語と朝鮮語は言語構造がかなり似通っているし、先ほど申し上げたように、漢文の世界を共有していました。ですので、日本語の近代化の影響を受けやすく、日本語による言語支配もしやすい側面があったと思います。

――日本による「国語」政策は、もともと進められていた朝鮮の近代化に乗っかる形で行われたんですね。いまおっしゃられた漢文からも明らかなように、朝鮮と日本にとって中国の影響は無視できないと思うのですが、朝鮮から見た中国というのはどんな存在なんですか。

 朝鮮にとって、中国は政治的にも文化的にも多大な影響をあたえました。これはしろうとの考えですが、日本は中国と海を隔てているので、文化的にかなりの影響はあったとしても、中国と地続きの朝鮮とは異なると思います。朝鮮における言語的近代とは、漢文の世界から多様な言語の海へと出ていくことを意味するかもしれません。

――朝鮮にとっては、中国の文化や価値観からの独立が、近代化そのものと同じような意味だったと。

 そこで大事だったのは、「ハングル」だと思います。「ハングル」が作られたのは15世紀ですが、19世紀までは社会的に十分な役割を担うことはできませんでした。というのは、朝鮮は「科挙」を忠実に実行していたので、漢文のみが社会的、政治的に重要だったんです。

 「ハングル」は「大きい、唯一の文字」という意味ですが、この命名は20世紀初めに誕生したものです。それまでは、女性や社会の周辺の人々によって、私的に使われていただけでした。

――ハングルというのは、ひらがなやカタカナに近いんですか。

 音を表すという点では同じですが、仮名は漢字の補助的な文字ですよね。一方のハングルは漢字から独立しているので、19世紀の終わりにはもう、ハングルだけの新聞が朝鮮で発行されています。いまは、北も南もハングルであらゆる言語生活を行っています。

――もしも今漢字がなくなって、たとえばこういう記事や本がぜんぶ仮名になったとしたら、ちょっと読める気がしないですね。頭に入ってこなそうです。

 それは朝鮮もかつてそうでした。分かち書きなどいろいろと工夫もしましたが、私の父の世代では、やはり漢字がないと読みづらいと言っていました。しかし、今は、逆に漢字があると重く感じるかもしれません。

――そうなんですね。漢字は名前や地名くらいにしか使わないれていないんですか。

 今の若い人の中には自分の名前を漢字で書けない人もいます。パスポートにも漢字はなく、ハングルとアルファベットだけですから。

――韓国と北朝鮮のことばというのは、基本的には変わらないんですよね。

 社会が異なっているので当然、語彙には少し違いもありますが、コミュニケーションにはそれほど支障はないと思います。でも、これも面白いんですけど、韓国の中には北朝鮮との統一を望む人と望まない人がいて、統一を望まない人はコミュニケーションが取れないということを強調します。人間は、さまざまな「事実」の中で、自分の主張を支えることのみを見たがるのですね。わたしもよく反省しています。(笑)