私たちが使うことばには、話しことばと書きことばがありますよね。でも、ふつうことばとは何かと言われたとき、近代以前までは、この話しことばと書きことばというカテゴリはあまり意識されていませんでした。とくに漢字使用圏ではその傾向が強かったと言えます。

 近代言語学が誕生するまでは言語に対する研究は、主に文献学が重視されていました。19世紀の終わりにオストホフ(Hermann Osthoff 1847-1909)、ブルークマン(Karl Brugmann,1849-1919)などの青年文法学派によって、言語研究が対象とすべきなのは、生きた話された言語であるという主張がなされました。

 そして、ソシュールは『一般言語学講義』の中で、書きことばの中に言語の本質をとらえることは、あたかも「人を識るには、相手の顔をみるより写真をみたほうがよいと思うよう」な「妄想」だと述べています。これは、すこし大げさに言うと、言語認識の大転換だと言えるでしょう。

 上田萬年も「言語そのもの」に対する研究態度を表明し、「言語とは、音であり」「一国の言語は、一国の歴史と教育とに、最重要なもの」であり、「一国の言語を深く研究するには、言語そのもの」に注目すべきだと言っています。

――文献ではなく、現に話されていることばに注目しなければいけないと。

 それで、全国の方言を調査するための「国語調査委員会」を文部省の中に設立しました。

――全国の方言を参考にして、標準的な日本語をつくろうとしたわけですね。ご著書『「ことば」という幻影』の中では、「客観的な実在である日本語に国語という概念をかぶせたのではなく、むしろ、日本語の同一性を自明のものとするために、国語というイデオロギーが構築されていった」と書かれていますね。

 「日本語」というのは太古の時より存在しているように思うかもしれませんが、正確に言うとそうではありません。つまり、「日本の言語」というものはあっても、ひとつの統一体としての「日本語」は近代になって創生された概念なんです。

 江戸弁とか京都弁、東北弁というものはあっても、それらを統合した上位概念としての「日本語」は、国語と同じく、近代以前にはありませんでした。そして「日本語」は「日本の国語」の自明な前提になりました。これは、近代日本の言語認識をなす暗黙の前提であり、到達すべき理念的目標でもありました。

――統一体としての「日本語」自体が、明治期につくられたものだったんですね。

 明治以降「国語」を論じる時によく引き合いに出される「言語スキャンダル」があります。後に初代文部大臣に就任する森有礼(1847年-1889年)が『日本の教育』の序文で示した、いわゆる「日本語廃止論・英語採用論」がそれです。

 1872年、当時アメリカ弁理公使であった森有礼が、エール大学の著名な言語学者ホイットニー(W.D.Whitney,1827-1894)に宛てて一通の手紙を書いているんですね。その書簡の冒頭で森は「日本の話しことばは、帝国の人民のますます増大する必要に適合せず、音声アルファベットに寄ったとしても、書きことばとして十分に有用なものにするには、あまりに貧弱である。(中略)豊かで広く用いられるヨーロッパ語の一つを採用すべき」である、と書いています。

 森有礼のこの提案は、言語道断な意見としてとられるのですが、ここで注意すべき点は、当時の日本の言語状況はまだ「日本語」が統一体として確固不動な地位ではなかったということです。ですので、森有礼はホイットニー宛の手紙で、Japaneseではなく、the language of Japanということばをつかったのです。

 彼は、当時の日本の言語状況では近代国家を担うことができないと判断し、その処方としてsee/sawなどの不規則変化を修正した「英語」を国語として採用することを提唱しました。

――言語の持つ歴史とか文化の側面は無視して、ひたすら実践的にというか、合目的的に「国語」を作っていこうとしたわけですね。日本の言葉を棄てて「英語」を採用しようという考えの背景には、当時の日本の指導者の中に、自分たちの言語が西洋のものと比較して劣っているという意識があったようにも思えます。

 そうですね。森有礼は、日本語が「けっしてわれわれの列島の外では用いられることのない、われわれの貧しい言語」であると言っています。上田萬年も同様な認識を持っていたようです。このような日本語に対する認識を「母語ペシミズム」であるという言語学者もいて、鈴木孝夫は「日本人は深層意識の中で日本語を呪っている」と述べています。

 ところが、話が飛びますけど、植民地支配をされた朝鮮や台湾、占領地だったアジアの諸国からは、こういう側面はとらえにくいです。これらの国や地域では強い日本語による支配政策が実施されたので、日本が近代化に不安を抱えながら揺れ動いていたということはなかなか想像できないのでしょう。もしかしたら、この不安への認識が却って強制的な日本語同化政策を生み出したのかもしれません。

言文一致

――国語を整備していく上では日本語の表記に漢字が使われているという「国語国字問題」があったとのことですが、これはどんな文脈で出てきたんですか。

 一番大きな課題は言文一致だと思います。言文一致は近代化の際にどの国でも起こる問題です。近代以前は、話しことばと書きことばの間には大きな隔たりがあります。話しことばはそれぞれの国で違っていても、書きことばは、ヨーロッパであればラテン語やフランス語、アジアでは漢文が使われていました。しかし近代国家を担う国民語ということになると、さまざまな面において言語改革の必要性が出てきます。近代日本での「国語国字問題」「言文一致」「標準語」などなど。

 それからもう一つ、「書くことと言語表象」のことを申し上げておきたいですね。先ほどもお話したように、近代言語学は「言語の本体は音である」と断言しているのですが、どうして人々は文字問題に強い関心を抱き、感情的になりやすいのでしょうか。 ある言語の「全体」の表象が成り立つのは、その言語の「書かれた」すがたを思い浮かべることができた時だと思います。そういう意味において国字問題は、日本語をどのように表象し価値づけるかと深い関わりがあります。

――「日本語」という新しい概念を国民一人ひとりにイメージさせるために、「国字」が重要だったわけですね。

 そういうことです。

――そのときに、中国の文字である漢字はふさわしくないと。

 上田萬年がいずれは漢字を廃止したかったのは確かですが、それは中国のものだからというより、漢字があまり合理的ではないのと、学習するのに時間がかかるという理由だと思います。それに対して日本の伝統的な国語学者は、中国とは距離を置きたいけれども、これまでずっと伝統的に使い続けてきた漢字を棄てたくはない。この両者の間では激しい対立が生じましたが、結局日本は漢字を棄てることはできませんでした。

――そのときの議論によっては、日本語から漢字が消えていたかもしれないんですね。そういえば、日本式のローマ字ができたのも明治時代なんですよね。

 そうなんですよ。ローマ字は音を表記するものなので、完全に近代言語学に基づいて作られた文字です。上田萬年は漢字をやめて、ローマ字を使うことも考えていたようです。

――ローマ字も言文一致とかかわりの深いものだったんですね。

 近代日本の言語的危機と言われる話しことばと書きことばの隔たりを解決するために、さまざまな提案がされましたが、ローマ字もそのひとつです。