――「ことばの壁」という表現がありますが、人びとを凝集させ、時に排除する言語の力って、一体何なんだろうって考えることがあります。国語がまさにそれを利用して、国民国家をつくったわけですが。

 そうですよね。私もそれについて、よく考え、悩んでいます。エドワード・サピア(1884年-1939年)という言語学者が『言語』という著書の冒頭で、言語(ランゲージ)は人間にとって、呼吸ほどではないけど、歩行くらいは自然なものであると書いています。でも、そこから何ページかめくると今度は、言語は文化的な共同体においてつくられるものであり、自然なものではないと。

 この二つは矛盾するようですが、両方とも真実だと思うんですね。言語は、人間にとってある意味で自然な能力だからこそ、私たちは社会や共同体の中で他者と出会い、言語を形成し、変化させて行くんだと思います。

――歴史的・文化的に形成されたものなんだけど、一度できてしまえば、そのことばを話している本人にとっては自然なものになるわけですね。

 言語においては、文化的なものと生理的なものが相関関係に置かれているのではないでしょうか。ですので、言語は私たちのパトス(pathos)を形成し強い影響を与えるのかもしれません。それで、言語によって非常に強い同志意識と差異化の両方を生み出すのではないでしょうか。

――すこし話がずれちゃうかもしれないんですけど、私の知人の弟が生まれてから4歳か5歳まで日本で育ち、そこからアメリカに行って、高校生になったくらいでまた日本に帰ってきたそうなんです。そのせいかどうかはわからないんですけど、彼は日本の友達と日本語で話すときにも、アメリカの友達と英語で話すときにも、「お前のことば、ちょっと変だよ」と言われて、すごく悩んだとのことでした。

 私たちは、たとえば胃が痛くならなければ胃の存在を忘れているのと同じように、言語もふつうに機能しているときにはその存在を意識することはない。でも、誰かに指摘されて、ひとたび言語自体が意識にのぼると、途端にうまくしゃべれなくなってしまうということがあるんだなと思いました。

 まさに身体化されているんですよね。私たちは言語によって身体性を表現するんです。いまはインターネットによって多くの人とコミュニケーションできるようになりましたが、それによって傷ついている人もたくさんいます。その原因の一つに、言葉に対する不寛容があると思うんです。

 いまおっしゃられた方のように、言葉遣いや文法が逐一チェックされ、少しでも間違っていると批判される。そして、言葉というのは身体化する、その人自身と共に歩んでゆくものなので、言葉に対する寛容さがなくなると、人に対しても厳しく裁くような態度で接するようになってしまう。

――「正しい言葉を使え」という過度な圧力は、人間自体を統制していくことにもつながるわけですね。

 最近の私の関心は、言葉は誰のものなのかってことなんです。ふつうは自分のものだと思うかもしれないけど、よく考えてみると、大きな権力に支配されていることはどうしても否定できない。そしていまは、それがどんどん強くなっていると感じます。まずはそれを認識することが、第一歩だと思います。

 いまは多様な人びとが言語の境界を越えて、出会い、話し合う時代です。だからこそ、言語的にも他者に対してあたたかい眼差しが大事なように思えます。他者に対する眼差しは、自分自身に対する見方でもありますからね。

文化と言語

――いまのお話とも関連してくると思うのですが、最近、少数民族の言語がどんどん消えていってるんですよね。

 そうなんですよ。私はそれを何とかして守りたいと願っています。ことばが失われてしまうのは、人類にとって大きな損失だと思います。

 言語はよく花にたとえられるんですけれども、どんなにバラがきれいだからといって、世の中をすべてバラ畑にしてしまってはつまらないですよね。タンポポも、蘭も、チューリップも、名の知らない野の花もあるから美しいし、楽しい。それと同じで、言語は一つひとつが、すべて人類にとって素晴らしい賜物なんです。

 でも、現代は少数民族自体が非常に厳しい状況にあるので、それを守るには、少数民族だけでなく、大言語話者であるマジョリティーの側にいる人々の力添えが必要ですね。そういった活動によって、実際、マオリやハワイでは少数民族の言語が復活してきているという嬉しい実績があります。

――それは希望の持てるお話ですね。

 私たちはいま、自然破壊や異常気象といった未曽有の危機に瀕しています。それを何とか切り抜けるためのヒントが、少数民族の暮らしや、何世紀にもわたって続いてきた文化の中にもあるんじゃないかと思う。だから、かれらの言語を単なるコミュニケーションの道具の一つとして見るだけではなく、人類の文化遺産として保存していくことができれば、嬉しいですね。

――おっしゃる通りですね。言語がもしもただの「入れ物」だとしたら、そして世界がすべて物理学的に記述できるものだけでできているのだとしたら、言語なんて一つでいいですもんね。それこそ英語だけあればいい。

 でも、一つひとつの言語にはそれぞれの歴史や文化と切り離せない独自の世界があり、その言語じゃなければ伝えられない思いも、表現できない事象もある。そのことがわかれば、当然、あるだけの言語を保存した方がいいに決まっていますよね。

 それには一人ひとりが多言語化していくのがいいと思うんですよね。日本語も、英語も、アイヌ語も、みたいに。

――それはいいですね! アイヌ語、勉強してみたいです。ちなみに、朝鮮半島にも少数民族と呼ばれる人たちはいたんですか。

 これまでは、朝鮮半島の民族は単一だという説が強かったんですけど、最近の研究で、中国との境界線の辺りに、いわゆる「女真族」やその混血の末裔が暮らしていたことがわかってきました。単一というのやはり、実際にはあまりないですよね。境界を越えて移動し、出会い、混じり合う。人というのはそうやって生きてきたと思いますし、これからもそうであろうと思います。

――柳田國男が前提とした「日本人の同質性」にも通じると思うんですけど、人ってなぜか、純粋なものに惹かれる面がありますよね。日本列島にはいろいろな民族がいたというより、日本人は単一の民族で、それこそが自分たちのルーツだと思いたがる。

 その方が安心するのでしょうね。

――アイデンティティの拠り所になるというか。

 私たちは誰もが安心して暮らしたい、永遠に安住していたいという気持ちを持っています。でもそれは、実際の人間の存在のあり方と矛盾すると思うんです。人間は常に変化していくものですから。変化はときに不安を生じさせることもありますが、その不安を抱きしめていくことが、個人にとっても、国家にとっても、必要なのではないでしょうか。

――これまでも変化してきたし、これからも変化していくということを受け入れようと。

 民族や国家を普遍的なものだと考えると、安心はするけど、どうしても他者を排除する感じになってしまいます。でも変化することを、その不安を抱きしめながらもそこから希望を引き出す。一度その不安を受け入れ、抱きしめる経験をすると、真の意味の強さとやさしさが生まれるような気がします。また予期しなかった楽しい可能性も発見できるのはないでしょうか。

(取材日:2019年11月20日)