――言語や存在といったものを考えていく上では、「普遍」というのが一つのテーマになるように思います。ここまでのお話ですと、空海は真言という「聖なる言葉」に仏という普遍への道を見出し、王弼は逆に言葉を忘れることで聖人の意という普遍に到達しようとしたわけですよね。先生は『思想としての言語』の中で「普遍化可能であること」と「普遍化すること」を区別するフランソワ・ジュリアン(1951-)の議論を引用しておられますが、この二つがどのように違うのかを改めて教えていただけますか。

 普遍化可能であるというのは、それこそイデア論みたいなものですね。イデアというものを措定し、それを個々の事物に適用することによって個別の存在の意味を説明するものです。

――キリスト教の神もそれに当たるわけですね。

 そうですね。これはつまり「可能性の次元」を開いていくわけです。イデアによって――あるいは神の力によって――こういうことが可能である、できるはずだ、ということですね。これに対して普遍化することは、可能性とは違う次元――私はそれを「思いの次元」とか「希望の次元」と呼びたいと思いますが――、今はできないけど将来的には実現しているかもしれない、そういう次元のことです。

 たとえば「人権」という概念は、フランス革命(1789年)では成人男性にしか認められなかったのですが、「世界人権宣言」(1948年)によってあらゆる人に適用されるものとなりました。これは人権という概念が世界中を旅することで洗練され、深まっていった結果だと思うんです。これがまさに普遍化するということです。

 元々「人権」というイデアがあり、それを適用していったのではない。そうではなく、植民地主義とか、帝国主義みたいなものを経験し、なんでそんなことをやってる連中が人権なんて言えるんだという(まっとうな)反論を受けながら、少しずつ洗練されていく。そういうプロセスがすごく大事なのではないかと思うんです。

――よくわかりました。私自身の問題意識として、現代の「世の中金だ。金を儲けることこそが生きる意味だ」といった資本主義的な価値観に対抗する規範や倫理が必要ではないかと考えていましたが、それは既に完成したものとして、どこかにあるわけではないんですね。概念を生み出し、洗練させることで普遍化していく。その実践が重要なんですね。

 そのときには、人間の条件から始めるしかないと思うんです。人間の条件とは何かというと、われわれはそれぞれの有限な身体を生きている。そして、感情を生きている。成功することもあるけど、失敗も山のようにする。そういう不完全なもの、それが人間だと思うんですよ。その不完全な人間が、それでもなんとか規範をつくって、それを守っていく。この仕組みを考えるしかないと思うんですね。ところが近代以降、宗教が退いた後には道徳だといって、その道徳を支えるのは人間の理性だとしてしまった。

 その結果何が起きたのかというと、これまで経験したことのない規模の戦争です。人間の理性がもたらしたのは世界戦争だったという、本当にどうしようもない結末を迎えたわけです。

――普遍化の努力をするのではなく、人間の理性という「イデア」を適用してしまったと。

 人間はやっぱり神じゃないんですよ。不完全で、本当にどうしようもないんだけれど、それでも、自分じゃないものと共に生きていく。感情を細やかに働かせて、言葉を共有し、魂を共有し、その身体をも共有していく。そういうところからやっていくしかないと思うんです。そうやって作られる規範は、当然のことながら弱い規範です。宗教のような強い規範にはなり得ません。

 古い中国の概念を使えば、それは「礼」というものになると思います。礼はritual(=儀式)と翻訳されたりしますけど、固定されたものではないんです。その時代や文化によって変わっても構わない。むしろ、変更されることを最初から含み込んでいるような概念ですね。ひょっとするとそれが、私たちの時代に求められている規範の一つのあり方なのかなという気がします。

――『思想としての言語』では、礼においては「かのように」するのが大事だというふうに書いておられますね。

 はい、それはマイケル・ピュエット(1964-)の議論です。たとえば「ありがとう」とか「愛している」と言うとき、本当にそう思っているかどうかが大事です。何かしてもらったときや、恋人や配偶者に対してそういうふうに言うわけですけど、では心から感謝しているのか、本当に愛しているのかというのは、外からはなかなかわかりません。そのときに大事なのは、その言葉を、事実そうであるかのようにきちんと言うことです。ピュエットは、それこそが感謝するということであり、愛しているということに他ならないと考えるのです。きちんと振る舞えることが、本当にそう思っていることに他ならないというわけです。「かのように」するというのは、規範として弱過ぎると思われるかもしれませんが、それが本物だと受け止められるようになればいいと思うんです。

――今のお話をお聞きして、以前お会いした僧侶の方のことを思い出しました。その方がまだ若い頃、型通りに修行はしているんだけど、自分は本当にちゃんとできているのだろうか、師のやっていることの上辺を真似しているだけではないのだろうかと悩まれたらしいんです。あるときそのことを師に打ち明けたところ、「真似をして、真似をして、真似をして、百年真似れば本物じゃ!」と言われ、それで胸のつかえがとれたとおっしゃっていました。

 そういうことだと思います。仏教では「如是(かくのごとし)」といいますが、あれが非常に大事な概念だと思うんですよ。このようである。かのようである。そうやって、お師匠さんの言うことを信じて修行していくしかないと思うんです。だまされているかもしれない。でも、それでも信じて続けるということに意味があるのではないでしょうか。