――次に先生のご専門である中国哲学の思想家、王弼(おうひつ|226-249)の言語思想についてお聞きしたいと思います。私は禅に興味があるのですが、以前読んだ本の中に「意を得て言を忘る」という荘子の言葉が引用してあって、それがなぜかすごく印象に残っていたんです。

 「蹄筌(ていせん)の故事」というやつですね

――はい。それがあったので、王弼の「忘れられた言語」という議論にすごく興味が湧きました。

 荘子の「蹄筌の故事」は非常に有名なエピソードですよね。蹄(わな)は兎を捕るための道具で、筌(うえ)は魚を捕る竹籠のことですが、獲物を捕ってしまったらもうそれらの道具が顧みられることはない。それと同じように、言葉は意味をつかむための手段であり、意味をつかめば忘れられるというわけですね。

 ところが、王弼はその順序をひっくり返したんです。言葉の意味をつかまえるには、言葉をまず忘れないといけない。あるいは、「忘れられた言語」というものを使うことで、初めて意味をつかむことができる。こういう驚くべき議論を展開しました。

 その根底にあるのは「無」という概念です。王弼は「無の形而上学」と呼べるものをつくった若き天才ですが、彼は最終的に、この世界に秩序を打ち立てようとしたのだと思います。その根拠となるものが無だった。根源的な無によって世界を基礎づけることにより、ばらばらに分裂し、分断されているこの現実に、ある種の秩序を取り戻す。そういうふうに考えたのではないかと思うんです。

――なんというか、随分トリッキーな発想ですね。

 彼がこう考えたのには、実は訳があるんです。中国哲学では、この世界に秩序を与えるのは聖人であると考えます。しかしながらその聖人の思いは、われわれ一般人には理解できない。なんと言っても、聖人はわれわれをはるかに超越したスーパーマンみたいな存在ですから。他方、聖人はわれわれのために秩序や制度をつくってくれているわけですから、その意味がわからないと使えない。つまり、聖人の思いや意味というものが、最初からどっちつかずというか、ダブルバインドの中に置かれている。この問題を解くことが王弼の課題だったわけです。

――なるほど。

 そこで王弼は、聖人の意は「象(しょう|中国の占いである易で使われる特権的な記号)」によって表現されるという『繋辞伝(けいじでん)』の議論を参照して、聖人の意をつかむためには、象に似た、特殊な言語が必要になると考えました。それが「忘れられた言語」です。忘れられることによって、純粋にその意味が保全されるということでしょう。これはもう、ほとんど無に近いですよね。このことからも、彼が無という概念を基に思考していたのがわかると思います。

――「忘れられた言語」で王弼がつかもうとしたのは、あくまでも聖人の意だったんですね。

 そうなんです。最終的にはそれをつかまえたい。聖人の意がつかまえられたら、われわれ一般人の意をつかまえるのはそんなに難しくなさそうですよね。

――その聖人の意の中には、この世界の秩序や真理といったものが含まれていると。

 われわれは今、そういう発想は普通しないですよね。そもそも聖人というものを構想すること自体がない。ただ、もしかするとそれは、社会的な無意識の集合体なのかもしれないという気もします。当時の人はたまたまそれを「聖人」と名付けて、その働きを見ようとしたということなのかもしれません。

――そのためには、いつも使っているような言語ではダメだよと。

 言葉が意図したのとは違う意味を伝えてしまうことって、よくあるじゃないですか。王弼はそれを防ぎたかったんだと思うんです。そのために言語自体を無化していく、あるいは純粋化すると言ってもいいかもしれませんが、そういったこと考えたのかなという気がします。

 これは、さっきの空海とは、随分違う発想ですよね。空海がマルチリンガルな環境で思考していたとすれば、王弼の思考はモノリンガルな、単一言語の中での操作だと感じます。翻訳にある豊かさや、逆に危うさといったものが、王弼にはないんですよ。

――王弼の議論は階層的ですよね。聖人の意が象によって表され、その象がさらに言語によって表される。でも言語は一人歩きして別の意味を生み出してしまうから……

 忘れなければいけない。あらかじめ忘れなさいと。でも、そう言われても、実際にはできないですよね。

――そうですよね。それこそ仏教の以心伝心とか、禅の不立文字といったものを連想してしまいます。

 中国では、荘子の解釈は仏教のものが最高であるという意見があり、仏教と荘子的な道家思想が合流していくイメージは、昔から多くの人が持っていたと思います。ですから、王弼的な議論に、たとえば仏教の空(くう)の議論を重ねるといったことも起きてくるのだと思います。

天文・地理・人文

――実在とはすなわち言語であるという空海と、言語を忘れなければいけないという王弼の考えは随分と違うものなのに、どちらも仏教とつながっているのは面白いですね。王弼は易の書物を参照したということでしたが、空海のこうした考えにも何か由来があるのでしょうか。

 空海は『文鏡秘府論』という素晴らしいテキストを編さんしているのですが、これは当時の中国に残っていた文論とか詩論を集めたものなんですね。その中に、物が文であり自然が文であるという考え方があるんですよ。

 中国文学において詩は、外のものに感じて生まれると言われます。自然に触れることで人間の思いが動き、それが言葉になっていく。こういうモデルなんですけど、ではその自然とは何かということをよく考えてみると、ひょっとしたらそれ自体がテキストすなわち文なのかもしれない。われわれは文によって感動し、それがまた文として出てくるのではないか。こういう考え方が六朝期には既にあったわけです。

――たしかに空海の議論と近いものを感じますね。

 天体で起こる現象のことを「天文」っていうじゃないですか。あれは天の模様ですよね。人間に関しては「人文」で、つまり人にもある種の模様がある。地に関しては文ではなく理で「地理」なんですけど、理とは筋目のことですからやはり模様なんですよ。そういうふうに、世界を模様として把握するという考え方が、中国の伝統的な思想にはあったと思います。

――面白いですね。われわれが世界を文に変換するのではなく、そもそも世界自体が――人間にとっての世界といった方がいいかもしれませんが――文でできている。実在するものはすべて文なんだと。思えばベンヤミンも、言葉を発することはその存在を肯定することだ、みたいなことを言っていますよね。

 ベンヤミンは、「自然を救済する」という言い方をしていますよね。世界への態度というものをつくづく観察してみると、われわれは文を通じて世界に関与しているし、世界を構成している。そして、文を通じて自然を救済するといったことがあるんだと思います。

 ただ、これとは逆に、人間にまったく相関しないものを考えるべきだという議論ももちろん可能です。今の「新しい実在論」といわれているものは人間に相関しない実在の問題を考えていますから、もしかすると、空海的な議論とは対照的な世界像を構成しようとしているのかもしれませんね。