――ご著書『思想としての言語』(岩波書店)では最初に空海を取り上げておられますね。空海の『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』は以前、鎌田東二先生のインタビューでも話題に上ったのですが、空海は言語をどのようなものだと考えていたのでしょうか。

 空海は本当に興味の尽きない対象ですよね。トマス・カスリス(1948-)という日本哲学の研究者が、「空海はすべてを知りたかったんだ」ということを言っていますが、すべてを知ろうとは普通なかなかしないですよね。

 空海は当初、奈良の仏教や儒教を勉強していたのですが、それだけでは飽き足らず、中国に行って真言密教を学びました。それこそ「すべてを知る」ためには密教の考えを身に付ける必要がある、というふうに考えたのかもしれません。

 その中にはもちろん言語の問題も入っていて、言語と私たちが生きているこの世界、この現実のありようは一体どういう関係になっているんだと考えるわけです。今言われた『声字実相義』は本当に素晴らしい、そして難しいテキストだと思いますが、声と字と実相の意味を考え抜いたものです。声は音ですね。字は書かれたもの、すなわちエクリチュール。そして実相は実在とか現実といわれているもの。空海はこの三つが別のものではないという、恐ろしいことを主張しているわけです。

 私たちは普段、言葉と現実のものとは別だと考えていますよね。「ネコ」という言葉とネコそのものは同じではない、と。ソシュールは世界は言語によって分節されているといいましたが、それはつまり、言葉と現実の対応関係さえちゃんとしておけば、どういうふうに分節してもかまわないということです。

――言語と現実の世界は無関係だからこそ、恣意的に分節できるということですね。

 でも空海は、そういうふうにはまったく考えませんでした。すると想像上のものはどうなるのか。哲学者のマルクス・ガブリエルさんは、喩えとしてよく「一角獣」を出しますが、空海の議論によればそういったものでさえ、ある仕方で現実に存在していることになります。

 これは最終的に仏の問題に関係していると私は思っています。仏が実際に存在している。そのことを明らかにしなければ、仏教を信じるなんてことはできないのではないか。その地点に空海はたどり着いた。だからこそ『声字実相義』のようなめくるめく本を書いたんじゃないかと思うんです。

――仏という言葉があり、声や文字で表せるということは、仏そのものが実在していることに他ならないと。

 そのような世界を見ようとしていたんだと思います。仏が単なる記号であり、実在性がないとすれば、仏を信じるとか、仏教に帰依するという意味がなくなってしまいます。ですので仏の実在という問題を考えたのでしょう。

 そのときに興味深いのは、空海が複数の言語の間で考えたということです。当時は今のような日本語は当然ありませんが、空海の母語をあえて「日本語」だと呼ぶとすると、日本語と中国語――中国語にも当時の口語としての言語と書き言葉としての古典中国語がありました――、そしてサンスクリット語。空海がこれらをマスターしていて、いわゆるマルチリンガルな環境の中で思考したことが重要だと思うんです。

 こうしたマルチリンガルの中で思考すると、必ず翻訳の問題に行き着きます。つまり、仏をどう翻訳するのかという問題ですね。その際に、空海はサンスクリット語を、単なる一つの言語ではなく、真言、すなわち真理を宿している言語だと考えました。そしてサンスクリット語をいろんな仕方で分析します。サンスクリット語の文法などは当時既に明らかになっていましたから、そういったものを利用しながら、この「聖なる言語」に取り組むわけです。それによって記されていることは真理であり、仏に関するさまざまな言説も真理である。その真理を中国語なり日本語なりに翻訳していく、こういう構造で考えた。それが空海の面白さですね。

――サンスクリット語は特別な言語で、中国語や日本語と対等ではなかったんですね。

 実際にはもちろんサンスクリット語も一つの言語にすぎないのですが、空海はそうは考えなかったんですね。世界には複数の言語がありますが、そこには言語の中の言語というものがあるはずだ。真理の言語であり、言語を可能にするような言語、そういったものを考えていたのではないでしょうか。

――その真理の言語が表現しているものは、実際に存在しているんだと。

 それこそが存在している。それはつまり、真理が実在しているということに他なりません。

――その真理というのは、プラトンのイデアみたいなものでしょうか。

 イデアは言語とは無関係に、つまり、われわれがそれに言及するか否かにかかわらず存在していますよね。でも空海の議論では、実在と言語が離れることなく、「すなわち」の関係でつながっているんです。実在とはすなわち言語である。私は、この「すなわち」は、実在と言語の間に実践が介在しているということを意味していると思います。

――私がその言葉を発し、あるいは文字に書くことによって、初めて実在する。

 傍観者のような立場から言語と実在はイコールだと言っているのではなく、仏教的なある種の実践があって、初めて、言語と実在はつながる。そのことを強調しているんです。「すなわち」というのは実践であり、つまりは人間の主体的な関与がどうしても必要だと空海は考えたわけです。

 ですから、空海はすべてを知りたかったという時の「すべて」の中には、人間の関与的な知というものが組み込まれなければならないと思います。遠くから眺めて、あれも知ってる、これも知ってるというのではなく、実践することで物事のなかに入り込んでいく、あるいはそれに寄り添う。そういったことを、空海は、知というものの条件として組み込もうとしたのではないかと思います。