一方でクラウゼヴィッツは、戦争にはそれに内在する独自の論理があると言っています。たとえば味方の兵士が10人殺されたら、こっちは20人の敵兵を殺す。すると相手は40人の味方を殺し、こっちは80人を……という風に、お互いが相手の攻撃以上の攻撃を加える。理屈上、そうしないと勝てないわけです。するとどうなるか。相互の暴力が無限に競り上がり、いつしか政治目的をも越えていってしまう。つまり元も子もなくなってしまう。これが戦争に内在する論理だと。

――政治の延長だったはずの戦争が、政治から逸脱してしまうと。

 相互暴力の競り上げが目的を忘れて破壊そのものが自己目的化してゆく。「戦争そのもの」が露出するという意味で、これを純粋戦争、あるいは絶対戦争といいます。しかし「現実の戦争」はあくまで政治目的に従うものだから、そういった無限の競り上げにはならないはずだ。それでクラウゼヴィッツは、さっきもいった通り、外交交渉に収まるものとして戦争を考えるんですね。

――つまり、絶対戦争は起こりえない。

 それは概念上の、想定上のものであると。

――しかし現実には、まさに「戦争そのもの」といえる世界戦争が二度も起こりました。これはなぜでしょうか。

 これはもう他のところでも書いたんですけど、第一次大戦というのは「知らずにそうなってしまった」世界戦争、第二次大戦は「そうなるとわかっていてやった」世界戦争です。

 産業革命以降、技術の進歩に伴って兵器の威力、破壊力は飛躍的に向上しました。革新的だったのは19世紀後半に開発されたダイナマイトですが、その他にも戦車、戦闘機、毒ガスなんてものまでつくられるようになる。これによって戦場の光景が一変したのはもちろんですが、見落としてはいけないのは、こうした兵器が都市にある工場で、一般市民の手によって大量生産されたということです。つまり、兵士になる者だけでなく、すべての国民が何らかの形で戦争に参加する(させられる)ようになった。これを「総動員」といい、このような社会資産や活動の全体を投入する戦争を「総力戦」といいます。付け加えておけば、近代社会につきものの、人びとの共通意識を作り出すメディアが、その内面、つまり心をも動員するということですね。

 もう一つ重要なのは、ヨーロッパの生み出した経済の仕組み、すなわち国家と結びついたいわゆる資本主義経済システムが、海外の植民地を本国の経済体制に組み込むことで世界中に展開し、「リンケージ」を形成したことです。要するに、経済連鎖によって世界がつながったわけです。すると一地域や一国の利害が常に複数の国を巻き込むことになり、その結果、ボスニアで皇太子が撃たれると世界中が戦争になる、という事態が生じたわけです。

――全国民が戦争に参加したり、世界が一つの経済システムでつながったりというのは、クラウゼヴィッツの想定を超えていたと。

 クラウゼヴィッツが「現実の戦争」と言ったときの現実性(制約)が、社会の全体化の中で吹き飛んでしまったわけです。

 第一次大戦は一方を壊滅させて――ドイツという国家を崩壊に追い込んで――終わるわけですが、10数年もするとそのドイツから不死鳥、というかゾンビのようにナチズムが現れてきた。そしてまた戦争になる。技術はさらに拡大発展し、経済によるつながりはさらに強固になっているので、当然その戦争は再び全体化する。そして、今度はそれが、遂に行き着くところまで行ってしまうわけです。原爆によって。

 核兵器というのは戦場で使われるための兵器ではありません。そんなことをしたら味方の兵士まで皆殺しにしてしまいますから。そうではなく敵の市街地に、兵器を生産している工場に、いや人びとの生活している都市に落とす。つまり、総動員を可能にする環境を破壊し、総動員されている国民をまるごと抹殺する。核兵器というのは、だから、総動員態勢に見合う総殲滅の兵器なわけです。

 そして、これによって絶対戦争が成就する。原理的には全人類が滅亡するわけですから。一方しか持っていないうちは威嚇になるけれど、双方が持つようになってミサイルを撃ち合えば、その後には何も残らない。

――技術が進歩し、世界がひとつになった結果、人類を滅亡させる兵器が生まれた……。

 アドルノとホルクハイマーは『啓蒙の弁証法』という本の中で、文明の頂点で生まれたのは、目を焼きつぶす光だったと書いています。直接言及はしていませんが、これは核兵器のことだと言ってもよいでしょう。文明が発展するほど、光に照らされれば照らされるほど世界は明るく生きやすくなる――それが「啓蒙」です――というのが近世以降の西洋思想の本流だったわけですが、最も明るい光がもたらしたのは、地獄のような破壊だった。そのことを考え直せと、かれらは警告しているわけです。

冷戦

――核兵器がその後の戦争や国際関係に与えた影響とはどのようなものだったのでしょうか。

 広島・長崎への原爆投下は、この戦争を終結させるためだったというのがアメリカの言い方ですが、仮にそれが本当だったとしても、原爆がなければ戦争が終わらなかったかについてはいろいろな議論があります。ただ、そんな議論が起こるのは、これが使ってはいけない兵器だという了解があるからです。そして、こういう兵器ができたということは、戦争をする意味がなくなったということです。クラウゼヴィッツの言うように戦争が「政治の延長」なのだとしたら、原理的に「敵」が、交渉相手が消滅してしまうわけだから。

――領土なり賠償金なりをとる相手がいなくなってしまう。

 そして、相手も核兵器を持つようになれば、こちらも「殲滅」させられる。交渉相手どころか、自分さえいなくなってしまう。だとすれば、もう戦争はできない、「不可能だ」というのが唯一の結論です。哲学的に言えば、可能性というのは主体の属性ですが、不可能は主体そのものを廃絶する。戦争を不可能にする、核兵器はそういう意味を持っているんです。戦争の主体は国家だということを含めてですね。

 事実、第二次大戦後には米ソの対立が明確になったわけですが、それが直接戦争にならなかったのは、核兵器が戦争を「凍結」したからです。これを「冷戦」と呼ぶわけですが、凍結されている間に何が起こっていたのかというと、代理戦争はありましたが、基本的には経済戦争です。

 一方は市場の原理にまかせる自由経済、もう一方は国家が市場を管理する計画経済です。全体の財がそれほど多くないうちは後者も機能したんだけど、経済規模が大きくなるにつれて前者が加速度的に発展し、後者はとん挫して停滞し、1991年にソビエト連邦は崩壊する。それによって連邦を構成していた共和国や自治区が一斉に独立しました。国境線が大幅に書き換えられ、まさに一夜にして世界地図が塗り替えられたのです。

――そして、自由経済が世界を席巻することになったわけですね。

 冷戦は東西対立だといわていましたが、その「戦争」にアメリカを中心とする西側が勝利し、いわゆるグローバル市場として世界を一元化したということになっています。そして、その市場経済化が同時に「民主化」だとも言われています。経済活動は個人の自由の領域だとされていますから。

 ただ、東側が瓦解したことで西側という括りも消えたこというと、おっとどっこい、グローバル化された世界でも「西側」は残り続ける。アラブ・イスラーム世界という新たな「敵」が現れたから、というのがその言い分です。野蛮なアラブ・イスラーム世界に対抗する文明圏として、われわれは結束しなければならないと。そして「西側先進国」の盟主としてアメリカは「テロとの戦争」を宣言するのです。