――戦争という言葉が国家間の戦闘を指すとはいえ、主権国家以前にも「戦争」はあったと思うのですが、近代以前のヨーロッパの戦いはどういうものだったんですか。

 近代以前のヨーロッパの戦いでは、キリスト教の信仰が掲げられていました。神のための戦争です。十字軍が初めですが、神の敵、異教徒と戦うわけです。戦争というのはともかく、集団的で組織的な破壊と殺戮ですから、正当化の論理が必要なんですね。その根拠が神だった。

 それは元々はキリスト教世界の「外敵」との戦いだったのですが、ローマ教会の権威をめぐって「宗教改革」が起こると、カトリック・プロテスタント勢力の双方が同じ神の名において殺し合うようになります。それはキリスト教ヨーロッパの「内戦」なのですが、その消耗戦を経て、諸勢力が「どうせ争いは世俗的な利害から始まるんだから、神をもちだして争いを正当化するのはやめよう。かといって、王家や豪族や傭兵団が勝手に兵を興すのもまずいので、領土を確定して主権統治の体裁を整えた国家だけが、戦争する権利があることにしよう」というふうに、いわゆる国家間秩序というものを作り出したわけですね。だからそれは、いわば戦争とその抑止の秩序ということです。その際に、近代国家の形も、教会とは別の主権観念も、国の内外にわたる政治(国内統治・対外交渉)の観念も整えられたのです。

 これはヨーロッパの話ですが、国家というのは、常に相対的で相互的なんですよ。国家の線引きは他の国家との抗争によって画定されるのであって、ある地域の集団が発展して自立国家を形成し、その国家同士のせめぎ合いから秩序が生まれる、という話ではないんです。だから国家ができてから逆に、国民という観念を作ってゆくことになる。

――国家そのものが、争いの中から生まれてくる。

 そういうことです。国家というのは元々は王の所有物だったのですが、フランス革命によってその観念は最終的に覆されます。フランス革命では民衆が蜂起して王をギロチンにかけたわけですが、それによって国の所有者がいなくなった。にもかかわらず、フランスという国は存在している。では誰が新しい所有者、国を維持・運営していく主権者になるかというと、王の首を切り落とした民衆です。フランスは俺たちの国だということで「国民」というものが生まれ、共和主義的な「国民国家」が誕生する。そうなると、国を守るのも国民自身ということになります。

 革命以前の封建主義や絶対王政の下では、戦争は騎士という戦闘専門の階級や傭兵によって担われていました。でも、名誉を重んじる騎士はともかく、傭兵は命がけの戦いなんてしません。戦場から生きて帰ってお金をもらわないと意味がないですから。

――命あっての物種ですもんね。

 それに対して国民軍の兵士は、文字通り命がけです。負ければ国が滅亡し、自分はもはやフランス人ではなくなってしまう。「自由か、しからずんば死か」という覚悟で戦うのだから、金目当ての傭兵では勝負になりません。その国民軍を率いて台頭したのがナポレオンですが、その強さに戦慄した他の国々は国民軍ほしさに次々と民主制を取り入れ、それによって西洋の国家間秩序は、国民国家間秩序となったわけです。

――各国が国民国家になることで、再び勢力の均衡状態が生まれたわけですね。

文明とは何か

 こうした時代状況の中で、西洋の文明世界とは一体何なのかということを考えたのがヘーゲル(1770-1831)という哲学者です。ヘーゲルは国民国家の誕生を、主体の無秩序からの生成プロセスとして捉えました。

――無秩序からの生成プロセス?

 ヘーゲルは、文明とはこの世界を理性の光で照らして無秩序な闇を追い払い、自分たちが自由に生きていける世界にすることだといいます。無秩序な闇とは、人間が統御できないいわゆる自然のことです。

 たとえば鬱蒼とした森の中を想像してみましょう。日の光は木々に遮られてほとんど入ってこない。足元にはじめじめとした下草が生い茂り、得体のしれない虫や生き物が蠢いている。どこからか獣の唸り声が聞こえるが、真っ暗で何も見えない……。こんな状況では、無防備な人間はとてもじゃないけど安心して暮らすことはできませんよね。

 でも、道具を使って、斧や今ならチェーンソーを使って木を切ってしまえば、闇は消えて光が射し、下草は枯れ、動物たちはもう住めなくなる。伐採した木を利用すれば家を建てることもできるし、家のまわりを耕して畑にすれば、日々の糧を得ることもできる。鑑賞用に木を何本か残しておくと住み心地もよくなる、ということもあるかもしれません。

 こうしたプロセス、つまり自然という人間にとって無秩序なもの、得体のしれないものを、人間が理解し利用できるものにすること、ありのままの世界を、人間化された<世界>につくり変えること、それこそが文明だとヘーゲルは考えたわけです。

――なるほど

 このような行為をヘーゲルは<否定>という言葉で表現しています。つまり、自然は人間によって<否定>される。といっても、それは抹消して元も子もなくしてしまうということではなく、人間が何かを生み出す原料にするということです。だからヘーゲルは、このことを精神の働きとも言い、また端的に<労働>だともいっています。

――ありのままの木が<否定>されて原料としての木、つまりは木材になるわけですね。そしてそれが家を建てるという<労働>へとつながっていくと。

 無秩序なもの、やみくもで何が何だかわからないものに人間は意味を与える。自然を、ありのままの世界を概念化していく。それが把握あるいは認識というプロセスです。概念になってしまえば、人間の知性で扱えるわけです。人間ももちろん自然から生まれてきたわけですが、その自然に向き合って克服し、自分のものにすることができる。そしてこの世界の主人として君臨する、それが人間だというわけです。

 注意しておきたいのは、自然は人間の外部だけでなく、内部にもあるということです。野蛮さや暴力性といった自分自身のうちに潜む自然、それさえも人間は克服する。克服するんだけど、それは完全に除去されるのではなく、木が木材になるのと同じように、役に立つ野蛮さ、役に立つ暴力性へと馴致される。そしてそれが、文明世界を切り拓く原動力となるというのです。

 西洋哲学には古代から「戦いは万物の父」という考えがありました。つまり、戦いによって文明が生まれ、技術が発達し、それが次の時代をつくっていくんだ、と。これは元々は広く一般的な意味で使われていたのですが、戦争によって国家間秩序が形成されていくのを目の当たりにしたヘーゲルは、文明世界の成立を抗争の歴史として捉えたら、全体をうまく説明できるんじゃないかと考えたのでしょう。それで彼は「歴史とは戦い(ポレモス)の歴史である」といったわけです。

――野蛮さや暴力性が抗争を引き起こし、それによって文明世界がつくられると。そう言われても、人間が殺し合う戦争が肯定されるのは、やはり理解に苦しみます。

 ヘーゲルの同時代人で『戦争論』を著したクラウゼヴィッツ(1780-1831)は、戦争とは別の手段をもってする政治の延長だという風に言っています。ここでいう政治とは外交交渉のことですが、当事者の一方もしくは双方が、交渉が決裂してもなお自分の意志を相手に押し通そうとすること、それが戦争だと。

――まあ、それはそうだろうと思いますが……。

 クラウゼヴィッツが言いたかったのは、戦争というのはあくまで政治に従うものだということです。だから、戦争を終わらせるには、必ずどこかの段階で政治的なコミュニケーションを回復させなければいけない。いわゆる和平交渉です。つまり、基本的に戦争には政治目的があり、その目的が達成されれば、あるいは達成または不達の条件が合意に至れば、終わる。それで、「別の手段をもってする政治の延長」だといったわけです。