――今までのお話をお聞きして、ジンメルが今のSNSによるつながりを見たらどう言うのかなって、ちょっと思ったんですけど。

 といいますと。

――SNSにもいくつか種類があるんですけど、たとえばツイッターのように匿名性の高いSNSが、ジンメルの距離を取ることでつながるっていうものの延長線上にあるのかどうか。ジンメル的にはそういうのもありだねっていうのか、それはちょっと違うなってなるのか。

 なるほど。そうですね、ジンメルは社交についてこんなことを言っています。社交ではそれぞれの人格を外に置いて、コミュニケーションのためのコミュニケーションがつながっていく。それが社交の楽しさで、だから自由だし、平等だし、面白い。そういう意味では、インターネット上の匿名のやりとりとも通じるかもしれません。

 ただ、彼はこれまでお話した人と人との関係の社会学をやりながら、同時に、いわゆるレーベンの哲学、生の哲学にも深くコミットしていました。それぞれの人には、生、生命、レーベンというものが流れている。そして、それぞれの人のレーベンとコミュニケーションは細い糸でつながっていなければならないと。

 社交場でいろんな人とおしゃべりをするにしても、このレーベンとの糸が切れてしまうと型どおりの虚しい形式になっていってしまう。このつながりがあることによって、社交というものが生命に溢れたいきいきしたものになるっていうふうな言い方をするんですね。

――くっつきすぎるのは駄目だけど、糸が切れてしまってもいかんと。

 僕はSNSはやらないのでよくわからないんですけど、このレーベンとの糸のつながりがあるのかどうかっていう感じがするんですね。このつながりがあればSNSでの楽しいコミュニケーションも可能なのかもしれないですけど、それが切れてしまっているとしたら、それは本当に息苦しいものになっていくんじゃないかって思います。

接続するためだけのコミュニケーション

 SNSのことを考えるときにもう一人、この人の考え方は使えるんじゃないかと思うのが、ドイツの社会学者ニクラス・ルーマン(1927-1998)という人です。

 彼の考え方はすごく面白いですよ。いちばん最初に「社会とは何か」っていう質問に対していろいろ申し上げましたけど、もしもルーマンがあれを聞いていたら、「こいつ馬鹿だな」って言うと思うんですよね。じゃあ、ルーマンならどう答えるか。社会とは何かというと、コミュニケーションがコミュニケーションに接続する。以上。

――コミュニケーションがコミュニケーションに接続する。わかるような、わからないような……。

 たとえば、今、僕がしゃべってますよね。で、加藤さん(編注:質問者のこと)が反応する。それが続いていきますよね。これが社会だっていうんです。じゃあ僕は何かっていうと、その外にある、人間という「環境」。社会というものがあり、その外側に人間という環境がある。僕や加藤さんは、この社会システムの環境なんです。そこではお互いに、相手のことは絶対に分からないし、分かり合ってもいない。そもそも、分かるかどうかさえ分からないっていう感じ。とにかく、ただコミュニケーションが接続していくだけっていう社会のあり方。

 一般的には、人々が共有している何かがあるから社会が生まれるって思いますよね。価値とか文化とか。でもそんなものは、社会とは関係ない。人間は社会と関係ないんだって、ルーマンは言うんです。

――それはたしかに面白いですね!

 いってみれば将棋を指している感じです。相手が何か手を打つ。それに対してこっちも、いろんな手の中から選んで打つ。で、また相手が打つ……。これが社会だって言うんですね。ルーマンは「偶有性」という言葉を使うんですけど、他でもあり得た可能性の中で、お互いが自由に手を選んで打ち合い、最後にどこかに落ち着く。この棋譜が社会であって、将棋差しはその外側にある環境だと。

――ルーマンのいう社会は常に更新されていくというか、一刻も同じ状態ではないということですね。

 そう言えるかもしれないですね。たとえば、おしゃべりをしてるうちに話がそれていって一人では思ってもみなかった方向に進むように、社会も思いもよらぬ方向に動いていく。将棋にしても、最初は無限の手があるわけですけれども、その中でつぎつぎと選択をし、他でもあり得たんだけど、徐々にひとつの局面がつくられていく。この、自分で自分をつくっていく仕組みが社会だと。

 一人ひとりの人間はその外にある全然別のシステムであって、社会はその一つ一つのシステムがお互いに環境になり合って接続していくだけ。こういう考えと、最初にお話したような、社会はお互いに何か共通のものをもっているだろうという前提によって成り立つという考えとは、多分、根本的に異なると思うんですね。

――個々の環境がただ接続していくだけっていうのは身も蓋もない感じですけど、そういう風に考えると、社会がときに誰も意図しない方向に動いていく理由も少しわかる気がしますね。

 東大の北田暁大さんという社会学者が、お互いに何か共通のものを持っているだろうという社会のあり方を「秩序の社会性」、それに対して、ただつながるだけだっていうのを「つながりの社会性」と定義しています。SNSのコミュニケーションって、あまり分からずに言うんですけど、何か共通のものを持ってるんじゃなくって、ただつながるためだけにつながってる感じだと思うんですね。どこに向かうのかは分からないけど、とにかく接続することが大事。既読スルーじゃなくて、ちゃんと返事をしてくれた。で、次に接続する、接続する、接続する……。接続自体が目的になっているコミュニケーション。

 携帯やスマホを持っている限り、常に接続可能なわけですよね。ということは、いま接続されていないということは、誰も私のことを見てくれてないんじゃないかっていう不安を生む。だから、強迫的に接続せざるを得ない。それを北田さんは、「接続的不安」って表現しています。

――そうなってしまうと、スマホから目が離せなくなりますね。

 秩序の社会性の場合は、「社会の規範どおりに生きているか」と常に監視されている不安。フーコーの言うパノプティコンのような、いつも「誰かに見られているかもしれない」という不安があったのに対し、SNS的な世界には、「誰にも見られてないかもしれない」という不安がある。

――ひっくり返っていると。

 SNS的なコミュニケーションとは、誰にも見られてないかもしれない不安によって駆動されるものではないか。北田さんはそんなふうに言っています。それは、すごくしんどいですよね。分かり合うためのコミュニケーションもしんどいけど、接続するためだけのコミュニケーション、接続されないことがいつも不安でしょうがないコミュニケーションは、非常にきつい。北田さんもそれを過酷な社会性だって言っていますけど、今の特に若い人たちは、そういう世界を生きてるのかもしれないという気がします。