イラク創設期と国際状況

 アフガニスタンの軍事的「破壊と改造」の試みの失敗にふれた以上、もうひとつの国家の「破壊と改造」だった「イラク戦争」にもふれないわけにはいかないだろう。

 イラクはもともと西洋諸国と同等の近代国家ではない。古代メソポタミア文明の中心地域にあるが、国ができたのはわずか百年ほど前だ。第一次大戦前まではオスマン・トルコ帝国の一部だった。大戦中に英仏両国がトルコ解体後の双方の勢力圏を分割した(サイクス=ピコ条約)が、それによってイギリス管理(信託統治領メソポタミア)となった地域で、イギリスは当時のヨルダン国王の一族を迎えて王政を敷かせる(1921年、このときクウェートが切り離され、それが後のサダム・フセインによる「併合」の遠因になる)。こうしてイラク王国が独立した(1932年)。

 しかし、単一民族国家ではない。第一次大戦後の帝国解体民族独立の機運の中でも、この地域のクルド人は国を持てないまま居住地域をトルコ、イラン、イラクに分断されることになった。そしてイラクは南クルディスタンとイスラーム・スンニ派地域、シーア派地域を抱える複合国家になった(分断統治は植民地支配の定石である)。そしてここは世界第三位と見積もられる石油埋蔵地帯であり、クルディスタン(キルクーク、イラク領)やクウェートに新たに油田が発見されると、西側先進国(とくに米英)にとって重要な関心地域となる。

 第二次大戦後は、米ソ冷戦のはざまにエジプトにナセルが登場し、大アラブ連合構想を打ち出したが挫折、この地域の新興国の運命は錯綜する国際関係のなかで翻弄される(世界的なイデオロギー対立のもとでの広域アラブの自立意識、石油利権争奪に絡むアラブ諸国の分裂)。そんな中、イラクでも親英王政が倒され、民族・宗派を超えてアラブ国家統合を図る世俗(非宗教)のバアス党(シリアと連動)が成長し、やがて最も権謀術数[けんぼうじゅっすう]にたけたサダム・フセインが全権掌握し(1978年)、豊富な石油資源をもとにエジプトに代わって大アラブの盟主になろうとする。

 その頃、イランにイスラーム革命(第8回参照)が起きて混乱、サダム・フセインはその機に乗じて年来の国境問題に決着をつけようとイランに侵攻、イスラーム革命の拡大を怖れたアメリカ他西側諸国(このときはソ連も)がイラクを支援した。しかし、革命で旧国軍を解体したイランは、革命防衛隊を組織して対抗、宗教的使命感から士気は高く、劣勢をしだいに跳ね返し、戦争は膠着状態に入って8年続き、88年に国連の調停でようやく終結した。双方の死者はそれぞれ百万に達したとされている。

 イラン革命で在テヘラン米大使館に百人以上の人質をとられたアメリカは、このとき(レーガン政権下)ラムズフェルドを派遣してフセイン政権に全面的に肩入れした。ソ連がこの時イラクを支援したのは、イラン革命が起こった年末からのアフガニスタン侵攻でイスラーム・ゲリラと戦うことになっていたという事情もある。(この頃から、イデオロギーよりも宗教対立が、資源問題と重なって地政学的要因になっていた)。

クウェート侵攻の論理と湾岸戦争

 そして翌1989年に、ヨーロッパでベルリンの壁が崩壊し、翌年末にはソ連が解体され、世界の「冷戦」構造(東西対立)は終結する。このとき、一夜にして第二次世界大戦後のユーラシア地図は一変した。東西ドイツはひとつになり、その東南で、かつては「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島のユーゴスラビアは消滅し、いくつかの「民族」国家が分立して、ソ連も「民族」国家に分解、ベラルーシ・ウクライナ・ロシアが核となって残余(もともと国家意識の強くないウラル以東)をまとめるロシア連邦が残った。

 この大変動を機に、サダム・フセインはクウェートを併合できるものとみなし軍を進めた。先述した通り、イラクは多大な犠牲を払ってイスラーム化したイランと戦ってきた。それは英米に対する大きな貢献である。クウェートはイラン建国のときにイギリスが留保し、その後独立させた本来のイラク領土だ。だから国際秩序変動のときに中東でも「是正」があってしかるべき、というのがフセインの論理だろう。

 だがこれは「冷戦勝利」に沸く米英の逆鱗に触れた。クウェートは中東(ペルシャ湾岸)石油管理の要石である。ただちに、「国境を力づくで変える」中東の「軍事大国」、そのうえ戦争に毒ガスまで用い、国内クルド人を弾圧する「独裁者」の暴挙を許さないという国際的キャンペーンがはられ、旧ソ連ロシアも含めた30カ国の「有志連合」が結成されてイラク懲罰戦争が行なわれることになる。冷戦後の平安の夢を醒ましたいわゆる「湾岸戦争」である。