「戦争と革命の世紀」

 20世紀は「戦争と革命の世紀」だったと言われる。第一次世界大戦に始まり、ロシア革命が起き、第二次世界大戦になり、それから米ソ冷戦が、核対峙のもと各所に代理戦争やLIC(正規軍が関わらない低強度紛争――アメリカの政治用語)を引き起こしながら世紀末まで続いたからだ。昔から世に争いの絶えたことはなかったが(それでも戦争はパラドクサルにも、いつも根底ではどんなものであれ安定秩序――平和――を作り出すことを目指していた)、20世紀には世界を獲得・統合しようとする西洋諸国の展開運動の果てに、戦争は各地に広がって世界大になり、この戦争(二波の世界戦争)の中で世界は初めて一つになった。その戦争は多くの国で(とくに文明化された先進国で)国民の生活をあげて投入する「総力戦」になった。

 戦争は国家間の争いだが、国家がそのように人びとの生活を統合する全体組織になる一方で、その国家に埋め込まれた階級的支配構造を転覆しようとする「革命」がロシアを嚆矢として各地に起こり伝搬し、それが内戦状況も生み出して各地の抗争は錯綜し増幅されることになった(広域にわたる中国の激動と苦難はもちろんだが、歴史地理的な境界・交差点にあるギリシアの一世紀も劇的で、たとえばテオ・アンゲロプロスの遺作『エレニの旅』で、新興独立国家ギリシアの一世紀を見てみよう――もちろん、トルコ、中東、インド、そして日本にとってもこの世紀は激動だった)。折しも科学技術が飛躍的に発展し、社会の効率的な組織化とあいまって、軍事技術もその破壊力はほとんど頂点に達した。科学者・技術者を結集して国家プロジェクトで開発され、その後あらゆる人びとの死を天空に留保するようになった核兵器はこの時代を象徴していた。

 たしかに20世紀は――その区切りは偶発的なものにすぎないにしても(「世紀」自体がキリスト教世界の時の指標だ)――、大文字の「世界戦争」の勃発によってまさに終末論的な「結び」の時節を画したとも言える。

「アメリカの世紀」

 だが、一方またその世紀は「アメリカの世紀」とも言われた。黄昏ゆくヨーロッパ―—ドイツ語の「アーベントラント」は日没の地を意味するが、「オクシデント」も原義はそうだ――に代わって、「新世界」アメリカが「西洋」の盟主となり、経済・政治・文化において先進国の鑑として、世界中から仰ぎ見られるようになった。モンロー主義政策で「古いヨーロッパ」とは距離を置き、西半球に「自由」の領域を確保していたアメリカは、ヨーロッパの大戦を収めるべく介入し(放蕩息子の帰還?)、それ以後、西側(オクシデント)世界の中軸かつ展開の中心となった。それを示すように、二度の世界戦争後、「戦後秩序」の要としてできた国際連合(UN)の本部はニューヨークに置かれることになる(ジュネーヴに置かれていた国際連盟本部は国連欧州本部になる)。

 そのアメリカも冷戦期はソ連と影響力を二分するが、最終的に東西冷戦に「勝利」して、世界を二分した「壁」を崩壊させ、「市場と民主主義」の津波を浸透させて「イデオロギー政治」を解消するとされたグローバル化(全地球化)を実現することになった。

 要するに、「古いヨーロッパ」にとっての「世界の終末」は、アメリカにとっては「栄光の時」でもあったのである。それを画したのはまた、アラモゴードの実験場で開発者(科学者・技術者)たち自身を震撼させた、初の原爆実験だった。「トリニティー(三位一体)」と名づけられたその実験における「神的な力」の顕現は、その後のアメリカ国家の絶大な影響力の源泉となる。アメリカは「古いヨーロッパ」が内破によって断念しかけた国家的な威力行使を、この神的な力をバックに「偉大な正義」として押し出し続けることになる。それを、まずは「自由」の敵、不倶戴天の対抗者「社会主義」ソ連の存在が正当化したということだ。

*「アメリカ新世紀」についての注記

 1997年に合州国で「アメリカ新世紀プロジェクト(Project for the New American Century, PNAC)」という保守系シンクタンクが設立された。非営利的教育組織ということになっているが、リチャード・パール、ポール・ウォルフォヴィッツ、ドナルド・ラムズフェルド他、後のブッシュjr.政権で大きな影響力を発揮するいわゆる「ネオコンサーヴァティブ」の面々が名を連ねている(現在、その活動はウクライナ戦争の情報や分析を世界に供給している「戦争研究所」に引き継がれているようだ)。

PNACは「9・11」以後、「テロとの戦争」の時期にそのイデオロギー的ソースとして注目されるが、自身は以下の基本提案に専心すると宣言している。

・アメリカが地球規模での責任を遂行するための軍備、軍事支出の増強

・民主主義諸国と同盟を結び、価値観や利益を共有しない政権との対峙

・国外での政治的、経済的自由の大義の強化

・国際秩序の維持拡張のためにもアメリカのみが勝ち得た唯一無二の役割を果たす

中東地域のイスラーム化

 そのソ連も崩壊し、「所有に基づく自由」のレジームは歴史的正当性を得ることになった(それが「歴史の終わり」というF・フクヤマの主張の意味だ)。そして湾岸戦争以降、アメリカとその同盟国を軸とした「世界新秩序」が語られるようになるが、とりわけアラブ・イスラーム地域から、その秩序を攻撃する非国家的な武装勢力が現れ、各所でアメリカの統治体制に攻撃をしかけるようになる。

 簡単にその背景にふれておけば、親ソ社会主義体制の崩壊と入れ替わるように中東地域で起きていたのは、この地域の諸社会のイスラーム化だった。なぜなら、社会改造のやり方を軍事力に集約させた東西両陣営の対立は、この地域の人びとの社会生活を向上させるどころか荒廃させた。そして、その荒廃の中に置かれた人びとの生活を実質的に支えてきたのはイスラーム的な地域の共同性だったからだ。

 また、いずれにしても国々で進められる「近代化」は、地域生活の伝統的基盤を崩してゆくが、それは他ならぬ「西洋化」でもある。その西洋化・近代化をアメリカの強力な支援の下で進めていたハフレヴィー朝のイランで、圧政的な専制支配を度重なるデモで倒して成されたのは、社会主義革命ではなく、イスラーム革命だった。というのも、ハフレヴィー2世の圧政からの「解放」とは、資本主義に対する社会主義の選択といった意識によるものではなく、近代化のブルドーザーに苦しんできた地方民衆のいわば土俗的な自律生活の「解放」だったからだ。

 もちろん都市部では近代化・民主化を求める西洋派の勢力も強かった(とりわけ知識層、富裕層)。しかし、「革命」で成立した新国家は、かつてロシアでレーニンが革命の混乱期にスイスからドイツの用意した「封印列車」で帰国して、再度の10月革命でヴォルシェヴィキ政権を作ったように、亡命先のフランスからアヤトラ・ホメイニが帰還して民衆統合の軸となり、以後この国は高位聖職者(じつは法学者)を最高権威として戴くイラン・イスラーム共和国となる。それがハフレヴィー体制を支えたアメリカ(西洋化の元凶)との対立を先鋭化させて、強力な経済制裁を受けてますます強硬な宗教勢力が権力を保持するようになって、いわゆる「原理主義国家」とよばれるようになる。

「西洋化」とイスラーム

 このイスラーム革命は中東地域のとりわけ民衆レベルで広範なインパクトを与えた。というのは、このイスラーム復興は(資本主義と社会主義といった西洋的なイデオロギー対立を超えて)、二、三世紀にわたって西洋世界に侵蝕され支配され、その植民地統治によって貧困化し「屈辱」を受けてきたムスリム諸社会に、「希望」を与えたからである。

 民衆レベルで、と言ったのは、戦後の国際秩序のなかで(冷戦下もその後も)たいていの国々は、この地域が石油供給地であったため、米英の意向に従うことで統治体制を維持する王家や軍の支配下にあったからである。こうした親米専制権力の下で、国内民衆の苦境や不満は押し込められてきた。だからこの地域では、「解放」とか「民主化」と言うなら、専制権力とその背後のアメリカ支配からの「解放(自立)」であり「民主化」だということになる。その軸になったのは西洋的理念ではなく、地域生活を支えるイスラームだったということだ(それが後の「アラブの春」の錯綜・挫折にもつながる)。

 イランもそうだったが、サウジ・アラビアは表向き親米国だが中身は原理主義王族支配の国である。もうひとつの主要国のエジプトは、戦後初期のナセルの時代が過ぎると、親米軍事政権が戒厳令を敷いて一般民衆の思いを押さえつけてきた(これには、じつは戦後の「イスラエル問題」が深く関わっているが、それは別に論じよう)。

 ムスリム社会のそのような二重の抑圧から、イラン革命に触発されたこの地域の「イスラーム化」が生れ浸透する。ベースにはムスリムの生活感覚・感情があるのだろうが、そのような国家的抑圧から、政治化した「イスラミズム(イスラーム主義)」が登場する。彼らは弾圧国家の背後にアメリカの統治を見て、親米国家を脱出し「イスラーム武装集団」として各地に転戦するようになる。その典型的な人物が、エジプトから脱獄し、同じくサウジ・アラビアから出奔したウサマ・ビンラディンに合流して、いわゆる「アルカーイダ」の指導者になったアイマン・ザワヒリである。

*イスラーム社会についての注記

 ここで注記しておきたいのは、イスラーム社会とキリスト教社会との基本的違いである。キリスト教社会は「政教分離」によって「政治」を「信仰」と区別することで「世俗化」を果たしたとされるが、イスラーム社会にはもともと政教分離の観念はない。信仰は世俗生活に溶け込んでその規範となっており、そこに西洋キリスト教原理である「世俗化」を強引に持ち込むことは、人びとの社会的生存基盤を破壊してしまうことになる。西洋化への反発からいわゆる原理主義が政治化したかたちで現れるのはそのためである。このことの理解には、キリスト教とイスラームの成り立ちの違いと「宗教」概念の何たるかを洗い直す必要があるが、それにはまた別に一論を必要とする。

 ただ、この後、植民地独立闘争にもふれなければならないが、イスラーム社会の場合、その「解放」が単なる独立国家・近代国家の形成というふうには集約できないことの理由は上記の点に関わっている。植民地独立闘争を経て独立した国々で、近代化や国内指導をめぐって軍事政権とイスラーム勢力との間に凄惨な抗争が起きる場合もある。90年代のアルジェリアはその典型的なケースだった。

 概略だけ述べれば、まず、西洋諸国による植民地支配があり、西洋的秩序のもとでの「自立」のために「近代化」しなければならず、そこで資本主義と社会主義の分裂が持ち込まれるが、その奥から近代化そのものによって否認された地域生活基盤としてのイスラーム的共同性が息を吹き返す、という事態があるのだ。イスラーム社会の現状を理解するにはそのような歴史的事情を踏まえなければならない。

「9・11」の衝撃

 2001年9月11日、アメリカはニューヨークの中心マンハッタンにあるワールド・トレード・センター・ビル(ツインタワー・ビル)に、乗っ取られた二機の旅客機が乗客もろとも相次いで突っ込んだ。一機目がビルに衝突した直後から現場はアメリカ・メディアを通して実況中継され、二機目がもうひとつのタワーに衝突する場面は世界中のテレビに映されることになった。そして数十分後、二つのタワーは相次いでほぼ垂直に崩落し、あたり一帯はその膨大な粉塵に包まれた。105階の高層ビルで逃げ遅れた約3000人が犠牲になった。アメリカ史上、初の惨事だった。

 日本では「アメリカ同時多発テロ事件」と呼ぶのが習慣になっているが、アメリカでも世界の他のところでも、ふつうこれは「9・11」と日付で呼ばれる。かつて一度も他国の侵攻を受けたことのなく、世界の繁栄をリードしているはずだったアメリカにとって、これは未曾有の、名状しがたい衝撃だった(同時に、国防省ペンタゴンやワシントンも狙われた)。二つの世界大戦中はもちろん、アメリカはいつも海外に派兵して戦争をしてきたが、この最強の国は一度も侵害され被害を受けたたことはなかったのだ。だから、この衝撃をもたらした出来事を捉え返すことができず、それはアメリカにとってすべてが変わった「あの日」として、「9・11」という日付でのみ呼ばれるようになったのだ。伊達や酔狂で「9・11」と呼ばれているのではない。

 たしかにそれはアメリカにとっては空前絶後の事件だった。そして国民のある種の呆然自失の中で、「アメリカが狙われている」という不安と恐怖が広がり、それが「見えない敵」に対する際限のない「怒りと憎悪」となって、「テロリスト(犯人)を地の果てまで追い詰める」という大統領の言葉に満腔で唱和する。ブッシュ大統領はただちに「これは戦争だ!」と断定し、「テロとの戦争」という強引な論理を打ち出す。

 奇襲の首謀者はただちにウサマ・ビンラディンと名指され、その軍事組織とされたアルカーイダ(アラビア語で基地という意味だそうだが、事実上アメリカ諜報部が付けた名前だ)の掃討に乗り出し、「テロとの戦争」というとても無理筋の戦争論理に躊躇[ちゅうちょ]する国際社会に対して、「敵につくか、味方につくか」と恫喝するように選択を迫って受け入れさせ、11月には「同盟国」を引き連れてアフガニスタン爆撃に乗り出す(そのとき、副大統領チェイニーが就任前CEOを務めていた軍需企業ハリバートンに、向こう10年間の陸軍の兵站が丸ごと発注されたといったことはここでは踏み込まずにおこう――アメリカ政財界の「回転ドア」、戦争民営化、等々)。

 「テロとの戦争」が「無理筋」というのは、戦争というのは基本的に国同士の交渉が成立しないとき、力で正邪を決するという方途であり(クラウゼヴィッツ)、近代にはその惨禍を抑制するための合理的なルールが作られてきた(戦時国際法)。そして戦争そのものには正邪はないというのが基本の考え方だ。ところが「テロリスト」というのは究極的な正邪判断であり、それも私人に対する判断・断罪である。それに対して国家的行為である戦争を発動するというのは、私人に対する裁きの審級を取り払って戦争そのものが「正義の執行」として行われることになる。その「正義」は誰が掲げるのか? それがアメリカ大統領だというのは、まさに「帝国」の論理である。

 ところが、国際社会はアメリカのパニックと逆上に辟易[へきえき]しながら(なかばの同情もあって)、それを受け入れることになった。そして、アメリカのテレビ(全世界に配信される)はニュース画像の端に「アメリカの新たな戦争」とテロップを入れ、メディアも臨戦態勢に入る。ジャーナリストやコメンテーター、そして国際政治の学者たちも「テロとの戦争」を「21世紀の新しい戦争」、「非対称的戦争」として語り、その解説まで始めたのである。