新大陸への進出は、やがて国家ではなく「会社」が担う事業へと変化していきます。

英仏の新大陸進出

 こうしたプロセスのなかで台頭してきたのがイギリス(イングランド)やフランス、そして新興のオランダ等の国々です。これらの国は、大西洋に面する港をもっていました。そのため、条件さえ整えば直ちに広大な世界につながる海に乗り出すことができたのですが、先述したように、そこにはすでに、新しく「発見」される大地はポルトガルとスペインが分割領有するという取り決めがありました。それが有効である限り、後発の国々は大洋と新世界に近づく権利をもつことはできません。そこに最初の〈自由〉が主張されるべき事情があったのです。

 イベリア両国に続いて新大陸に乗り出したのは、大西洋岸に広い海岸線をもち、当時強い王権を形成しつつあったフランスでした。フランスは古くからカトリックに帰依しており、16世紀前半を統治したフランソワ一世は、1533年に教皇クレメンス七世から、トルデリシャスおよびサラゴサ両条約の取り決めが、その時点までにスペインに領有されていたところにしか及ばないという言明を得て、翌年にジャック・カルティエを北アメリカに送ってセントローレンス(と名づけられた)河口付近を探検させました。それが、後のカナダ・ケベック植民地建設の足がかりとなります。

 一方イギリスからは、かつてヘンリー七世の時代に特許状を得たイタリア出身のジョン・カボットが、ヴァイキングの航路をたどってカナダ東南岸に到達しており(1497年)、イギリスはそれを根拠に北アメリカの領有を主張するようになります。1580年前後からは北アメリカに探検隊を送り、ヴァージニア植民地の建設を始めました。ウォルター・ローリーによる最初の植民の試みは、功を焦ったためか、支援もないままに移民を置き去りにするという悲劇を招きますが、それでもこれは後のイギリスによる北米移民の嚆矢となりました。

企業経営としての植民

 プロテスタント諸派の登場は、世俗王権の力を台頭させてキリスト教世界の秩序の内実を大きく変えることになりましたが、それはまた大西洋や新大陸の状況にも直接影響していきます。

 集権化してゆく世俗権力が宗教的権威から離脱してゆくのに伴い、新大陸進出に関しても、もはやキリスト教布教という理念的根拠はまったく希薄になり、南の征服に約一世紀遅れた北アメリカ植民の時代には、国家による領有と富の獲得とが公然の目的となっていきました。つまり新大陸進出は、キリスト教圏の拡大(地上に神の栄光を広める)という事業から、世俗国家や世俗勢力の支配圏拡大の事業へと変質してゆくのです。

 そこで特徴的なやり方をしたのがイギリスです。イギリスでは集権化が遅れて国王の力が十分でなかったという事情もありますが、国王が直接征服に関与するのではなく、先述したカボットの時以来、申し出た者に特許を与える方式をとっていました。

 その方式は私掠船にも適用されます。当時スペインと対立していたイギリスは、船乗りたちに「私掠特許状」を与えて敵国の商戦を襲撃することを許可したのです。そして私掠船団の派遣そのものが国王や貴族たちにとって投資の対象となりました。世界周航を果たしたフランシス・ドレイクがペルーでスペインの銀輸送船団を襲い大金を得て帰還した際には、これに出資していたエリザベス女王の配当金は莫大な額に上り、それによって王室財政の赤字も一挙に解消されたと言われています。

フランシス・ドレーク

 ウォルター・ローリーによる北米移民も、最初の失敗を踏まえて、後にヴァージニア会社が設立され、植民地の設営は会社組織で行われるようになります。国王から事業の特許を得た会社が、資金を募って植民と開拓にあたるのです。主には移民希望者が出資し、資金のないものは労働力を提供する。要するに、特許状を得た独占企業家たちに植民地建設と経営が委ねられるわけです。

 この方式はマサチューセッツ植民で成功を収め、やがてインド経営にも応用されて東インド会社が作られることになります。これが近代株式会社の重要な源流となりますが、イギリスによる北米移民は初めからこのような経済事業のかたちをとっていたのです。