宗教改革は、信仰だけでなく〈自由〉の意味そのものを変えました。

キリスト教世界の転換

 「新大陸」の発見から四半世紀を経た頃、キリスト教世界を根本から揺るがす出来事が起こります。いわゆる宗教改革です。日本では「宗教改革」ですが、西洋ではたんに「改革」(英:Reformation、仏:Réforme)と呼ばれます。というのは、キリスト教はその頃この地域の世界のあり方の全般を覆っており、西洋人にとっては事が宗教上の改革であることをわざわざ限定する必要がなかったからです。それほどキリスト教は、この世界のあり方を規定していたのです。

 内陸ドイツの修道士マルチン・ルターがヴィッテンベルク城の聖堂の扉に「九五ヵ条の論題」を貼りだして一連の騒動の口火を切ることになったのは1517年秋、これを問題視したローマ教会がルターを破門したのがその4年後の1521年。しかしルターは有力な諸侯に保護されて自説を広め、これがドイツ全土に広がってキリスト教世界の分裂は決定的になりました。

 それとはだいぶ事情が異なりますが、国王ヘンリー八世の離婚問題に端を発した教皇との確執から、イングランドがローマ教会を離れて国王の下に一国教会を創始するのがその十数年後。そして1541年からは、ジュネーヴでラジカルな改革派ジャン・カルヴァンの「神権政治」が始まります。

マルチン・ルター(左)とジャン・カルヴァン(右)

 こうして、ローマ教会と教皇の権威は大きく傷つき、台頭しつつあった世俗権力がそれぞれの思惑からこれらの動きに関与して、各地で新教派と旧教派との抗争が相次ぎ、キリスト教世界は分裂して仮借ない宗教戦争――これを西洋の内戦ということもできるでしょう――の時代に入ってゆきます。

〈自由〉の意味

 では、「改革」の内実とはどのようなものだったのでしょうか。ルターは教会の位階制度や仲介の独占を否定し、人は教会に服従したり贖宥状を買ったりする、つまりは「善行」を重ねることによって救われるのではなく、ただ信仰によってのみ正しいキリストの徒と認められると主張しました。

 そして人びとが聖職者を介さず自分たちの生活の言語によって神の言葉に向き合うことができるよう、聖書のドイツ語訳を提供したのです。同様にカルヴァンもまたフランス語訳聖書の改訂と普及に尽力しました。これによってプロテスタントは信仰つまりは神と人との関係を、教会の制度的枠付けによるものから個人的なものへと変容させたのです。

 この「改革」はキリスト教世界に新たな信仰の形をもたらしました。ローマ教会に背いても神を否認したことにはならず、むしろ人は神と直に向き合うことができる。これはまさに信じる者の〈自由〉、すなわちローマ教会からの自由の主張に他なりません。そしてこのときから〈自由〉の語が新しい道を開く燈明となるのです。

 この〈自由〉は、世俗権力にプロテスタントを擁護しつつも神を味方にすることを可能にし、利害が衝突する場合には教皇に対抗することもできるようになりました。これ以後100年にわたって繰り広げられる新教勢力と旧教勢力との対立抗争のなかで、世俗権力は力による自立の地歩を固めてゆきます。そしてキリスト教世界は、神の権威に従属する一元的秩序から、世俗権力同士がそれぞれの利害をもとに対立抗争する力動的秩序へと変質してゆくのです。