1620年9月、イギリス南西部の港町プリマスから一隻の船が「新大陸」に向けて出港しました。メイフラワー号と銘打たれたこの船の乗客は102名。後に「ピルグリム・ファーザーズ」としてアメリカ建国神話のルーツとなるこの一団が求めたもの、それは〈自由〉です。かれらが新大陸に見出した〈自由〉とは、一体どのようなものだったのでしょうか。「自由の国」のはじまりを振り返ってみましょう。

名づけと領有

 メイフラワー号の航海を遡ること約130年、スペインの港を出たコロンブスの一団は二カ月余の航海の果てに、現在のバハマ諸島に到達します。このジェノヴァ出身の冒険家は最初に上陸した島を「サン・サルバドル(聖なる救い主)」と命名し、スペイン王家の旗を立てて、二人の王(イザベルとフェルナンド)がこの島を「領有」すると厳かに宣言しました。

コロンブスの上陸

  ここで見落としてはいけないのは、この「名づけ」がきわめてキリスト教的な行為、すなわち洗礼によって果たされたということです。キリスト教の用語では「洗礼(バブタイズ)」は「名づけ」でもあり、ひとつの世界への受け入れでもあるからです。

 洗礼は、それを受ける人のそれまでの「罪」を消し去り、神と教会のもとに新しい生を享けることだとされています。だから、キリスト教徒による「名づけ」という儀礼は、名づけられたもののそれまでのあり方を否定して、教会つまりはキリスト教世界への帰属を刻印することに他ならないのです。

 コロンブスはこの島が住民たちに「グアナハニ」と呼ばれていることを知っていました。しかしそれは、この島を美しく豊かに飾っている植物相や動物相と変わらぬ要素でしかなく、島は「発見」され「領有」される以上、新たに名づけられなければならない。この名づけ=洗礼に続き、やがて訪れる宣教師たちによってこの島の住民たちはグアナハニの罪深い野蛮な風習から救い出され、スペイン王の支配という有難い栄誉に浴する「サン・サルバトルの住民」になるのです。

アメリカという呼称

 「アメリカ」という呼称がフィレンツェ生まれの航海者アメリゴ・ヴェスプッチ(1454-1512)にちなんだものであることはよく知られています。かれは南アメリカ大陸の北部から東海岸沿いを探検し、自分が目にしているのが、かつて誰も西洋に伝えたことがなく、地図にも描かれたことのない未知の大陸に違いないと考えます。そしてこのことを書簡にしたため、旧知の有力者に報告しました。かれは初めて大西洋航路を開いたわけではありませんが、その認識をもってそれまでヨーロッパ人の抱いていた世界像を書き換え、一気にそれを拡張したのです。

アメリゴ・ヴェスプッチ

 一方、新大陸発見(少なくともその先駆け)の「功績者」であるコロンブスは、自分が到達したのがインド周辺であるという考えに最後まで執着していました。もともとかれの航海の目的は、アフリカ南端を回って(東回り)ではなく、西回りでインドに到達し、スペインにインド周辺の金銀や香料を持ち帰ることでした。少なくともそういう約束を形(かた)にスペインのイザベル女王から支援を引き出していたため、到達したカリブ海の島々はともかくインド周辺でないとまずかったのです。

 それにしてもなぜ、ヴェスプッチの名が、(コロンブスを差し置き)新大陸の呼び名として定着したのでしょうか。事情はこういうことのようです。

 1507年、ロレーヌ地方の町サン・ディエで、それまで何世紀ものあいだ広く使われていたプトレマイオス図の改訂新版を出すという触れ込みで『世界誌入門』という本が出版されました。そのとき、収録地図を制作したマルチン・ヴァルトゼーミュラーという地図製作者が、早とちりから「この陸地は、発見者であるアメリゴ・ヴェスプッチの功績を記念して『アメリカ』と呼ばれるのがふさわしい」と記し、実際、みずから作成した地図上にその名を書き込んだのです。

『世界誌入門』に掲載された地図(『アメリカ 異形の制度空間』19頁より引用)

 当時、「地理上の発見」が相次いで、それまで想定されていた世界の様相が劇的に変わりつつあったため、その成果を取り入れたと称するこのラテン語の小著は成功を博し、すぐに各国語に翻訳されてヨーロッパ中に流布されたといいます。

 そして、そこで提案された「アメリカ」という名は、その響きのよさもあって、ヨーロッパ、アジア、アフリカと呼ばれていた既知の大陸に並べるにふさわしい第四の大陸の呼称として、ヨーロッパ世界にまたたくまに受け入れられていきました。ヨーロッパ人にとって未知の大陸には当然ながら名前がないわけですが、それは「アメリカ」と呼ぶのだと、この本が教えることになったのです。

トルデリシャス条約――世界を分割する子午線

 コロンブスが最初の航海から帰った翌年の1494年、「トルデリシャス条約」という奇想天外な取り決めがスペインとポルトガルの間でなされました。アゾレス諸島とヴェルデ岬諸島の西の海上に地球を縦に分割する線を引き、その東側に発見される大地はポルトガルが、西側に発見される大地はスペインが領有権をもつというものです。

トルデリシャス条約における分割線(点線はコロンブスの第1回航海)(『アメリカ 異形の制度空間』41頁の図をもとに作成)

 当時、大西洋に進出していたのがこの二ヵ国だけだったため、「新領土」をめぐる当面の争いはこれで避けられますが、あまりに法外な取り決めです。というのは、この決定は「発見」されるのがどんな場所なのか、そこにはどんな人びとが住み、どんな生活を営んでいるのか、といったことをまったく無視し、二つの国の王がそれを領有することを当然とみなしているからです。

 誇大妄想と言ってもおかしくないこの領有権の自明視はそれ以後も続き、マゼラン一行が世界周航を果たすと、インドの東にある香料の産地モルッカ諸島の領有権を裁定するため、この二ヵ国による分割線は地球の反対側にも延長され、「サラゴサ条約」(1529年)として更新されます(これによってモルッカ諸島はポルトガルが領有することとなりました)。

 トルデリシャス条約はたんにスペイン・ポルトガルの二国間の勢力圏分割として結ばれたものではありません。実はそれは、コロンブスの「西インド到達」の報を受けて、前年に教皇アレクサンドル六世が介入して大西洋上に引いた分割線がもとになっています。スペイン出身で、世俗的な事柄に大いにかまけたこの教皇は、「西インド」に手をつけたスペインの便宜を図って、その権益を確保させるため裁定に乗り出したのです。

 ここで重要なのは、両国の裁定を教皇が行ったということです。つまり、地上の権力の争いを裁定し、支配の正当性を与えて秩序を作るのはローマ教皇の役割だったのです(逆に言えば、地上の支配者は、神に帰依するものとしてその支配の正統性をローマ教皇に仰いでいたということです)。そのためこの分割線は「教皇子午線」と呼ばれましたが、この裁定に不満だったポルトガルは翌年スペインと直接交渉し、線を270リーグ(約1300キロ)ほど西にずらしたのがトルデリシャス条約だったのです。

 「布教」としての征服

 スペインがこのような分割線の画定を必要としたのには前史があります。大西洋進出の先鞭をつけたのは、実はポルトガルの方でした。この小国は8世紀のイスラーム勢力によるイベリア半島制圧以来、北辺に残ったキリスト教徒がやがて「失地回復(レコンキスタ)」の闘いを始め、その過程で形成されました。事情はスペインの成立もほぼ同様で、1469年カスティーリャ王女イザベルとアラゴン王太子フェルナンドの結婚によって両国は結びつき、やがて即位する二人を「カトリック両王」として戴くスペイン連合王国が誕生します。

 この二人がわざわざ「カトリック両王」と称されるのは、この王たちがイベリア半島から「異教徒」を駆逐し、この地の再キリスト教化を使命として君臨することを明示するためです。かれらの王権は、何よりキリスト教世界の復興という目的によって正当化され、教皇の認証によって正当性を得ていました。

 教皇は地上の世俗的支配には関わりませんが、世俗王権の領土拡大がキリスト教の布教を伴うなら、その征服事業は神の栄光の拡大に資することになります。そのため、世俗権力はどんな動機から征服に乗り出すにせよ、それを神の御業(みわざ)や教会の栄光に引きつければ、この地域の唯一最高と認められた共通権威の認可を得ることができたのです。

 とはいえ教皇は武力による征服を推奨しているわけではありません。そうではなく、征服はその後に続く宣教師たちの布教によって仕上げられ、結果として「神の栄光」を高めることになり、また教会としては「栄光を知らない蛮民たち」に恩寵の光をもたらして「救済」事業を果たしたことになるのです。