だから人々は、個々の人格は取っておいて、お互いにただの人間として、もしかしたら仮面を付けて、おしゃべりを楽しむ。そのときに人は、違うもの同士として一緒にいられると。
コミュニケーションの社会学
奥村隆
西出 朝子
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カタールワールドカップの余韻、ブラジルのストリートサッカーの話題、自身のサッカー体験で感じてきたこと、noteサイトに書いた記事に、少し反響があったので、こちらにも掲載してみます。 女子サッカーに耳をすまして元記事⬇️ https://note.com/mimiwosumashite/n/n85765eb1d8e3
だから人々は、個々の人格は取っておいて、お互いにただの人間として、もしかしたら仮面を付けて、おしゃべりを楽しむ。そのときに人は、違うもの同士として一緒にいられると。
コミュニケーションの社会学
奥村隆
私は、移動中の車内でのこうした会話が大好きでした。面と向かって、レコーダーを回しながらインタビューをすることも必要ですが、同時に、運転席と助手席という配置だからこそ、気楽に話すことのできる会話というものがあります。「向かい合う関係」ではなく「並び合う関係」。集中した聞き取りではなく運転中の会話。あくまで運転がメインであって、そのお供として会話があるような空間。「ながら会話」と呼べるかもしれません。運転しながらの会話、あるいは洗濯をしながらの会話。
比較社会学、身体文化論
石岡 丈昇
奴隷貿易や奴隷制度によって、強制労働という肉体的・精神的な暴力と同時に、アフリカの各部族が持っていた伝統、文化、言語の一切合切が破壊されました。かれらの受けた暴力は想像を絶するものですが、それへの抵抗もまた僕たちの想像をはるかに超えるものです。「抵抗」というとふつうは戦うとか抗議することだと思うけど、そうじゃない。ミンツも書いているとおり、新しい文化をつくり、それを通して生き延びていくこと、なんとかやっていくこと、次の代へとつないでいくことが、かれらの最大の抵抗だったと思うのです。
文化人類学
中村 寛
ある存在者が存在しているとき、ただそれだけで満足していればいいのに、なぜかすぐに(同時に)、その存在者の否定(しかも二種類の)が同時に(変ないい方ですが、「潜在的に」)現れるのですから。これは、私たちの世界のすべての存在者の宿命のようなものだと言えるでしょう。このような否定の裏面性(随伴性)があるので、われわれは、つい「なぜ無ではなく、存在者がいるのか」と尋ねてみたくなるのかもしれません。つまり、この問は、存在者と否定との不可分離性とでもいう性質から、必然的に生じる問だということになります。
現代西洋哲学
中村 昇
ボクサーたちは必ず共同で練習を行います。チャンピオンクラスのボクサーから入門間もない素人ボクサーまでが、同一時間に同一フロアで、練習を行います。一同に会することによって、そこでは間接的な相互指導が果たされる仕組みが生まれます。
比較社会学、身体文化論
石岡 丈昇